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【短め読書記録】『オカルト編集王』三上 丈晴 著

国民的オカルト雑誌・月刊『ムー』の編集者である三上氏の著書。
『ムー』といえば超常現象や超古代文明、UFO、UMA、など怪しい・妖しい諸々を扱う「あやしい」雑誌。
しかし三上氏は冒頭から「『あやしい』は誉め言葉、そう思っている」と言い切る。
何でしょう、この清々しさ。
私自身は、奇怪だったり面妖だったり、ましてや恐怖体験的なものが無く、それでもこの「ムー的」なものが昔から大好きだったので、『ムー』読者=ムー民に近い感性は持ち合わせているのかなと。
それにしても、『ムー』は学習図鑑や学習・科学で知られる学研(Gakken)から出てるんだなと…学研の学習・科学の次にはウータンも購読してたんだよな自分…小学生のみぎり、ほんと毎月届く学習と科学が大好きで楽しみすぎて、何か「学研のおばちゃん」を作文に書いて、それが家族だけでなくウチ担当のおばちゃんの耳にも入ってしまったこともあったんだなぁとか(爆)。
加えて言うなら、自身の創作に欠かせなかったブックスエソテリカも学研だった(とりわけ『密教の本』はもう、いろんなとこを参考にし以下略。購入し今も大事に持ってますよ;)。足を向けて寝られないって、こういうことかと(爆)。
もちろん、「地球の歩き方×ムー」コラボ本も読みました。

『ムー』の創刊から現在までの来歴。
当初は一般の中高生を読者想定にしたが振るわず、「次号が売れなかったら休刊」となり。休刊とはいえど事実上の廃刊なので、編集部は思い切って一般向けからマニア向けに変えた。それが売れ行きアップという結果に繋がり、現在まで続いているのだと。現在の諸々の例を挙げるまでもなく、推される側は推し活に熱心なファンにより支えられております。コアなファンにはコアなりの強さがあるのだと。。
三上氏が学研に入社して以降の様々な出会いや出来事と、そこから学んだこと。
山でトラブルに見舞われたときの「ズボンをおろせ」は、まさに「合理的思考からすればフリチンになることに意味はないが、そこは山。不安を払拭し冷静になるために儀式を行」い、危機を脱したという経験談は深かったなと。
結局、現代人にとっても未だに山というのは異界であって、想定外のことが色々起こりうるもので、そうなった場合、昔からの信仰なり経験に根ざした儀式を持ち出すほかないのだと。
なぜフリチンが効いたか、ご存知でない方にざっくり説明しておくと、山の神は女神といわれ、だからこそ男性のソレを見るとお喜びになり、不猟や遭難といった困難から脱することが出来る、というのが昔からの山仕事をする者たちにある共通見解であるらしいのです。これは山における民話や山岳信仰を扱った本には大体書いてある話じゃないかと。

そんな『ムー』は、同じように「あやしい新聞」と呼ばれることもある『東京スポーツ』、略して東スポとは「深いところでお互いの媒体をリスペクトし合っている」といい、これには納得しかなくて(笑)。
東スポ、買って読むことはないけれど、たまにすごい見出しがありますもんね…UFOスクープ的な(汗)。
しかし、そういう媒体だから、ホントのことが掲載されても「そんなのウソに決まってるだろ」と言えてしまい、「ウラのウラはオモテ」的な件もあったりするらしく…侮れない。

に、しても。
前々からそんな気はしてたけども、テレビ番組「T」(いやそれ、特〇リサーチ2〇〇Xだよね?と;)やドラマ「トリック」の関係者・スタッフと『ムー』編集部との関わりって、あったんだなぁと…。「T」、メモを取りながら視聴したもんですよ自分(爆)。
で、超常現象に興味をもっている視聴者はムー民のように一家言(その人独特の意見や主張)を持っており、自説と異なる結果を最終結論として断定されれば面白くない。ゆえに「T」スタッフに対して「番組で結論を断言せず、どこかに1%の他の可能性を認める余裕を持ち、引き続き調査を続行する、という風に」と伝えたらしく、実際そうだったなと。

『ムー』の内容は、あやしい。編集者と読者の距離感は恋愛に似ているかもしれない、という。
「書かれていることが絶対正しい、とにかく信じろ」では読者に拒絶される。
かといって、「こんなのウソ、あるわけがない」で記事を作るとシラけられ、「あっちへ行け」になってしまう。
だからこそ、「1パーセントのニュートラル」が大事、ということになろうと。「99パーセント正しいと思っても、どこかに1パーセント中庸を保つ。100パーセント正しいと思うことは危険であり、必ず判断を留保することが大切だ」と。
三上氏は「ムー的な世界とは、まさに1パーセントのニュートラル」と述べる。「超能力や幽霊、UMAなど、そんなものは存在しない。そう考えることは自由である。だが、99パーセントありえないと思っていても、どこかに1パーセントだけ判断を留保する。ひょっとしたら、ありうるかもしれないという思いを保つ。これが大事なのだ。」と。
思えば、自分が気に入って何度も読み込んだ民俗学・歴史学、あるいは健康系の書籍に関しても、共通するのは「コレが絶対に正しい」という論調ではなかったということだったなと。「この案件はこの説で決まり」「これを実践すれば、間違いなくアナタは今より健康になる」というのは、それを感じ取った時点で拒否感だったなと。それこそ「1%の余白」がある内容、「これが全てとは言えないけれど」という姿勢、ある意味で不完全性を認める的なののほうが現実的であり、信頼できたということじゃないかと。

ニーチェの「神は死んだ」、すなわち「積極的ニヒリズム」に対し、ムー民に似合うのは「積極的幻想論」なのだという。
UFO事件での映像が偽物だったとして、「偽物でした」で終わるのではなく、たとえば陰謀論的見方ならば「なぜ偽物が作られたのか、偽物を作る理由とは何か」「偽情報を流すことで何か別のことを企んでいるのではないか」となる。
「積極的に幻想を抱くことによって、絶望を超克する」
「積極的幻想論においては、絶望もまた成長の糧」
「ひとつのUFO映像がフェイクだからといって、UFO事件のすべてを否定する人間がいたならば、いってやればいい。君には絶望が足りない、と。」
これはムー民だけでなく、もっと世人ならびに人生全般にも適用したら良いんじゃないかと。何かあってもへこたれずに前を向く的にタフになれそうに思えます。

ムー的な世界とは、白黒・〇✖・01で決められるものではなく、量子力学のような、「シュレディンガーの猫」のように0でも1でもない状態、両方でもあり両方でもない、確率でしか表現できない世界であるらしい。

 江戸時代、近松門左衛門は、現実と虚構の境界に芸術の妙、すなわち真実があると説いた。彼の芸術論は「虚実皮膜論」と呼ばれる。現実とも、虚構ともいえない、皮膜のような境界にこそ、もっとも大切な真理が隠されているというわけである。
 まさに幽霊などは、この虚実の世界、皮膜に存在するものである。亡霊は現実世界に姿を現しているが、実在はしない。死んだ人はあの世にいるが、亡霊はこの世に現れる。あの世とこの世の境界、まさに皮膜に亡霊は投影されているといえるのかもしれない。

『オカルト編集王』第4章 ムー的編集術 虚実皮膜論  より

そして、
虚実皮膜論からすれば、ムー的世界は事実と虚構を超えた「真実」なのである。
と。

三上氏は、「『ムー』を長年支えてくれているのは、ほかでもないマニアたち」と言う。私も、それには共感しかない。
それにしても、以降に続く、大人向けに作って大失敗したウルトラマンこと「ウルトラマンネクサス」についての話が更にズバズバ核心を突いていると思うわけで。

 しかし、世の中、メジャーを嫌う一定の数の人がいる。マニアである。黒歴史であるはずの「ウルトラマンネクサス」には少数派ながらも熱狂的なファンがいるのだ。批判されればされるほど、叩かれれば叩かれるほど、燃えあがる。世間はわかっていない。本当の魅力をわかっているのは自分たちだけだ、と。
 田口監督の言葉を借りれば、「マニアは深く根を張る」のだ。視聴率が高かったウルトラマンのファンは多いが、さほど内容にはこだわらない。が、視聴率が低いウルトラマン、まさに「ウルトラマンネクサス」は典型的だが、これを支持するファンはどんどん深く内容を掘り下げ、マニアックになっていく。設定の裏読みから、物語の細部に至るまで、とことん調べ上げる。その熱量は半端ではない。あまりにもこだわりが強いため、少しでも間違った批判をすると、猛攻撃を仕掛けてくるという。
 マニアは判官びいきよろしく、マイナーであるからこそ、そこをリスペクトして、批判に対抗する強力な組織を作りあげる。世間の風当たりが強くなればなるほど、仲間意識は強くなる。深く根を張った木は、やがて大木となる。ちょっとやそっとの嵐に遭っても、けっして倒れることがない巨樹へと成長していくのだ。

『オカルト編集王』第4章 ムー的編集術 マニアを味方につける  より

これは無論ウルトラマン以外のあれこれ、サブカル範囲外の学問・研究等に関しても言えることではないかと。
マニア≒オタク、そう読み替えても差し支えない内容かもしれません(極言)。
嗜む程度の受け手もいれば、のめり込んで金銭的にも時間的にも精神的にも投資しまくり、「〇〇は生活の一部、いや、私自身の一部でもう切り離せない」と言う受け手も居る。

『ムー』でも何度も取材したという「ムー的重要人物」でもある「本物の超能力者」清田益章氏は、今日あまりにもフツーに使われている語「パワースポット」の命名者であるという。土手の何もないところで、清田氏は全身に力がみなぎるのを感じ、調べてみると、かつてそこには祠があったが土手を造るにあたり移されたのだと分かったのだと。過去に生きた何者かもまた、清田氏と同じようにそこから湧き上がる何かを感じたから祠を立てたのだろうと…。
清田氏に言わせれば、そもそもパワースポットでない神社は神社としての機能が働いておらず、神社仏閣はパワースポットであって当たり前なのだとか。
念力の念とは「今の心」であり、今は過去<コ>と未来<ライ>の両方でもあるわけで、これこそ「カミ」すなわち「神」

神社には鏡がある。拝殿には必ず大きな丸い鏡が置かれている。神社で参拝する人は、構造上、鏡に向かって手を合わせることになる。このとき鏡に映っているのは自分の姿である。変な話、自分に向かって拝んでいるのだ。神様にお願いごとをしているつもりだが、実際は自分に祈っていることになる。
 ここで重要なのが「鏡=カガミ」である。我欲むき出しのお願いごとをしている限りは、あくまで対象は自分自身である。ところが、ここで我欲を捨てたお願いをしたら、どうか。お母さんの病気がよくなりますようにとか、無私の心で祈願する。このとき参拝者の「我」がなくなる。鏡に映っている自分の我がなくなると、どうなるか。「鏡=カガミ」から「我=ガ」がなくなると、そう「カミ=神」になるのだ。我欲を捨てた瞬間、鏡に映っているのは、もはや自分ではなく、神なのだ。

『オカルト編集王』第5章 ムー的重要人物 清田益章  より

この清田氏の語る独特な言霊、それは古神道で語られる種類の思想という。
「そんなの、こじつけだろ」という人も居るだろうけど、自分は「なるほどなぁ」と感じましたね。

この『ムー』との関わりが深い人物、ムー的重要人物には、無農薬でのリンゴ栽培を成し遂げた木村秋則氏も在る。
えぇ!?である。
木村氏は異星人誘拐事件=アブダクションケースでUFO内部に連れて行かれたといい、その際にUFOの中で白人男性と白人女性という二人の地球人を目にしていた。そして木村氏は、その白人女性がテレビ番組で自身の体験を語っていたのを目にし、
「この女性は、あのときの!!」
忘れかけていた記憶が甦ってきたのだと。
その女性もまた、UFO内で髪を短く刈り上げた軍人と眼鏡をかけた小柄な東洋人という二人の地球人を見ていた。
偶然だとか記憶の上書きだとか言うのは簡単です。でも、ここでもやはり「1パーセントのニュートラル」を考えねばならないだろうと。
そして、そのUFO番組を制作したのが、テレビ番組制作から離れたあとで能登・羽咋の米をローマ法王に献上し、さらには羽咋市にUFO博物館を作ってしまったスーパー公務員・高野誠鮮氏。無農薬米の栽培について調査していて木村氏を知った高野氏は、木村氏を羽咋に招聘し、自然栽培についてレクチャーを受けたが、話を聞くうちに驚いたということに。
高野氏は、木村氏はUFO内に居たもう一人の地球人、軍人らしき男性と再会することになるだろう、歴史の歯車が大きく回りだす予感がしてならない、という。

同じくムー的重要人物に挙げられるグラハム・ハンコック氏の『神々の指紋』は当時センセーショナルだったものですが、今では超古代文明をただの幻想と言う人もだいぶ減っただろうと。ただ、超古代文明は何故消えたのか、そして誰がどういう経緯で興したものなのか、というのは未だ謎であり、異星人が文明を伝えた説も囁かれるところです。
これはもしかしたら深い話になりそうです。。

「あやしい本」の編集者の仕事術やポリシーには、シュッと筋が通っていて、正直あやしいところがありません。
それは、

あやしいということが誉め言葉である「ムー」であるが、ちょっと気取って答えるときには「月刊「ムー」は哲学雑誌です」と表現するようにしている。

『オカルト編集王』第2章 月刊「ムー」とは何か? 哲学雑誌としての「ムー」  より

にも表れている気がします。
ちゃんと知識も自身のスタンスもある人が、真剣に書くから良いんだろうなと。

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