見出し画像

読書記録『井上ひさしの読書眼鏡』井上ひさし 著

自身が昭和の遺物なせいか、今時のカルチャーにはついていけず、自分の青少年時代のものが懐かしく心地よい(自爆)。
井上ひさしさんには放送作家・戯曲作家・小説家と様々な顔と業績がありますが、私にとっては尊敬する作詞家の一人であります。NHK人形劇『ひょっこりひょうたん島』主題歌の
♪だけどボクらはくじけない 泣くのはいやだ 笑っちゃおう  進めーー
を、これまでの人生で何度「かくあるべし」と己の中で繰り返したことか。。
文筆業の方ですから、読書量も半端ない。良い本を読んで飲み下しておられるなと感じ入りました。。

世の中には物知り博士がゴマンといて、できるだけ彼らの話に耳を傾けようとする、という井上さん。しかし、ほどなく飽きてしまう。というのも
「彼らがただの物知りにすぎないので失望してしまう」
のだと。
それ分かるなぁ~と、うんと共感です。
どこかから持ってきて溜めといた情報を得意げに羅列するだけなら、今の技術だって機械にさえ出来る。AIを使わず、それこそルーチンで出せるよなと(酷評)
ただの物知りと、既存のものから砕いて叩いて打ち直して、自身の創意工夫も加えつつ数段上のものを生み出しうる真の知者との違い。
自分が真の知者になることは無理だけど(己の身の程をわきまえている:自爆)、「本当に頭が良いこと=お勉強が出来ること・成績優秀なこと、知識が豊富なこと」じゃないと、もっと多くの人たちが気付かなきゃ真の教育改革にならんよな、、と思うのです。知識より、実践の「知恵」。私は工学部出で、「実用化したら世の中が便利になるようなものを見付ける・作る。社会に還元してナンボ」という空気感の中で育ったものだから、余計にそう思います(しみじみ)。

「一等いいのは、中味がよくて、それを伝える文章が平明であること。」
と、井上さんは言う。
これにも凄く共感します。
しかし実際のところ、そのバランスが良くない本も数多い。
中身はいいのに文体が硬くて表現が小難しいから読みにくい、とか。
文章は平明で読みやすいんだけど、中身が薄かったり、とか。
中身がなくて文章もモノモノしい、となると「これ、誰が読んで面白いと感じるの?書いてる筆者はそれで楽しいの?」と思いたくなりますよ(酷評)
そこいくと、井上さんの書評は選ばれている本自体もいいし、分析もいいし、文章も硬すぎずくだけすぎず。私はすいすい読ませていただきました。

ノーム・チョムスキーの『メディア・コントロール』では、

〈普通、国民は平和主義にかたよるものだ。一般の人びとは、わざわざ外国に進出して殺人や拷問をすることにしかるべき理由など見出せない。だから「こちらが」あおってやらなければならない。そして、国民をあおるには、国民を怯えさせることが必要だ。〉
(『メディア・コントロール』和訳版からの引用)

を引き。
過去から現在に至る世界の戦争、さらに今現在の世界情勢も、こういうことだよなぁと思わずにはおれない。
煽られて何となく納得して戦争犯罪に突っ込んでいく一般人たち、という図式が恐怖です。

「国民を怯えさせる」という政治普遍素性に対抗する知恵を授かったように思いました。わたしたちは怯える前に、相手をよく知らねばならない。とことんまで相手を知ること。怯えるのはそれからでも遅くはない。
(本書からの引用/井上さん執筆箇所)

全くもってその通りだと思います。
上からの命令だから的に一般民が黙っているのも、結局同罪なんだと。
人民は為政者を監視する目、道を逸れたときに戻す手を持たねばならない。。
若い人が選挙に行って投票しなくて、年寄りが「自分の老後を守るため」に一生懸命投票所に行く。政治家は効率よく票を集める為に高齢者が喜ぶような公約を掲げるようになる・・・こうなってくると未来は暗い(酷評)

戦争に係る本だと、他に『ニュルンベルク軍事裁判』(ジョゼフ・パーシコ 著)についても収録されていて、

〈……そして国民はつねに指導者のいいなりになるように仕向けられます。国民にむかって、われわれは攻撃されかかっているのだと煽り、平和主義者に対しては、愛国心が欠けていると非難すれば良いのです。このやり方はどんな国でも有効ですよ。〉

引用されたヘルマン・ゲーリング(航空相・国家元帥)の言葉が、文字通り過去から今現在も続く国家間の戦争や軍事的緊張状態の裏にあるんだよなあと。

『こんなに面白い弁護士の仕事』(千原 曜 著)での、
「裁判所には本来の正義観の他に”裁判所が考える正義・不正義”があって、裁判官の多くは”行政庁や有名企業、銀行、大病院などは間違ったことをするはずがない”という考えを持っているとしか言いようがない」
も非常に共感…
だから特定の個人や小規模組織ならまだしも、国や自治体を相手取って裁判を起こしてもなかなか勝てないんだなと。納得しちゃいました(酷評)

『追憶の作家たち』(宮田 毬栄 著)は、著者が編集者時代に担当した7人の作家について書かれた本だが、『井上ひさしの読書眼鏡』で取り上げられているのは作家・松本清張のところで、

〈さまざまな能力に恵まれた清張さんではあったが、畢竟ひっきょう、その天職は書くことにあった。つねに探求心を失わずに、書くことによってのみ慰藉いしゃを受けた人が松本清張であったと思う。〉
(※畢竟=つまるところ。結局。)

清張と旅行したこともあるという井上さんは、「書くことによってのみ、慰藉を受けた人。わたしはこれまで、これほど端的に清張さんの本質をえぐった評伝を知りません。」と述べる。
生まれながらの作家、書くことで生きた作家というのは、こういう人を言うんだなと。
世に「歌姫」と呼ばれる女性歌手は多けれど、日本ならば私が歌姫と認めうるのは美空ひばりさん唯一人です。
Mフェアで、ひばりさんが歌った「マイ・ウェイ」が、もう涙が出るほど素晴らしかった。
♪私には愛する歌があるから 信じたこの道を私は行くだけ
ひばりさんの人生そのものではないでしょうか。
今時の若い歌手たち、ましてや一般の中高生には、まだまだ「マイ・ウェイ」は早い、、と強く強く思うのです。

あと、作家・藤沢周平さんとその作品を語った章も興味深く読ませていただき。
結核を患い、手術を受け生還するも予後は悪く、仕事もなかなか見付からない。
しかし藤沢さんは、その不遇感を作品のための強力な原動力へと転化した。
作中に登場する不遇の中で生きる人物は、筆者自身の投影であり、何かしらに大なり小なり不遇感を抱く大衆も「かれは自分じゃないか」と感じる。
この井上さんの見方には私自身も共感するところが大きい。作品というのは結局筆者自身の鏡であり切り売り商品なのだと思ってますから(自爆)。
結末の場面、幸いのうすい恋人たちに何があったのか――見当はつくが確かめたくて
「二人は思いをとげたんですね」
と筆者に訊くと、めずらしく迷惑顔になり
「さあ、どうでしょうね」
いやなことを訊いてしまったという後悔が続いている、と綴られる。
私もな…拙作中の某場面について訊かれたくないし答えたくないしなぁと…(困)

訊かれたくないし答えたくない件@拙作『六花稗史 巻ノ二』第四話より

それと。この本で紹介されていた『ウンコに学べ!』(有田正光・石村多門 著)、図書館にないので、中古ではありますが自前購入し読みました。
ウンコから環境倫理を、他にも思想や慣習、異文化交流・理解、児童の心身発達に教育問題まで議論してる(と私は受け取った)。なんて欲張りなんだ!(※褒め言葉)
「自分、ウンコなんてしないもん。知らないもん」なんて見て見ぬふり・知らんぷりを決め込んで他人事のように言うな、生きてる以上は皆出すもんじゃないか、我慢し通すなんて出来ないんだぞ、、と。廃棄物(家庭ごみ・工業廃水などなど環境を汚染し壊しうるもの)→うんこと読み替えれば、誰しも他人事ではなくなる。
『ウンココロ』(寄藤文平・藤田紘一郎 著)にもあった話だけど、大地≒田畑に戻して循環させるとウンコはゴミにならず資源になるんだよなと。今、全てを江戸時代システムに戻すことは無理だけど、何か少しも過去に学ぶことはあるんじゃないか、、と考えましたよね。。
ウンコに始まりウンコに終わる本で、おもしろ喩えや驚くべき統計データも次々繰り出され、笑い転げるうちに読了でした。
それにしても、アルゼンチンの南極に近い海岸で「もよおした」旅人が現地のペンギンたちに取り囲まれながらも用を足し、トイレットペーパーを多めにかぶせておいたら、翌朝うんこを催促するペンギンたちがテントに押し寄せ、ペンギンの一羽が昨日ウンに載せた紙をマフラーのように付けていた――という話が生々しくて、「豚トイレとか、犬が時々自分の糞を食べるってのは聞いたことあるけど、ペンギンも…?」というのが意外で面白かったです。。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?