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【読書記録】『世界のヘンな研究』五十嵐 杏南 著

「ヘンな」シリーズが好きだな、自分。
と素で思ったことは、さておき。
「ヘン」を形容詞で用いる場合、コトバンクによると
・普通と違っているさま。ようすがおかしいさま
・思いがけないさま
を言うのだそうです。つまり「変わっている」「普通じゃない」ということ。
しかしながら、それは必ずしも悪口や批判めいたものになるとは限らない。
所変われば品変わる、と言う。他の場所では有り得なかったろうが、その土地なればこそ続けられてきた研究が、世界各地に確かに存在しているのです。

アメリカ国内でも、ウマに縁深く「ホースカントリー(馬の国)」と呼ばれるケンタッキー州での「ウマの科学」。
ウマの話が行き着くところは、ビジネス、そしてお金の話になる。
お金の役に立たない研究では、スポンサーが付かないという現実。さらに、大手製薬企業による小さな動物用薬品会社の買収により、ウマ用の医薬研究にお金がまわってこなくなり、「食用でもなくペットでもないウマは、あまりにニッチな市場」と、研究者は言う。
しかし、競走馬の大怪我は運の悪い転倒によるものではなく、これまでの回復しなかったダメージの積み重ねにより引き起こされるものだと突き止められたのは、研究者の愛が成したものだったのだろうと。
そして今日も、お金と愛の間のどこかで、ウマの研究は続くのだ、と。

アメリカ・カンザス州の大学における、「芝生の科学」。
「隣の芝生は青い」という言葉があるけれど、これは西洋から輸入され和訳されたことわざらしく、いや西洋つか出所はきっとアメリカだと思うくらい「綺麗に芝生が整えられた庭付きの家」は当地の一つのステータス。。
しかし、芝生を美しく維持するには手間とコストがかかる。大量の肥料に薬剤、さらに植物であるがゆえに水が必要であると。それでいて食えるものは生らないという…なのでSDGs的なことが叫ばれる当世、ますます青い芝生を愛好するに風当たりは強く。
かといって、ゴルフ場のグリーンは青々としつつも平らに刈られた芝生でなくては、競技者も観戦者も不安になり落胆する。
研究者は、環境負荷が大きい芝生にも雨水や土を保持し土埃が舞い上がるのを防ぐ能力があることや、森林や公園の緑に安らぎを覚える的「芝生のもたらす精神面への効果」を語る。環境負荷を小さくしながら、それらの娯楽的・精神的メリットも立てていく、そのバランスを模索している中なのだそう。

名高いボルドーワインより高い評価を得ることとなったカリフォルニアワイン。そこには、カリフォルニアでワイン業界の復興のために設立され、ワインの向上のために技術で手助けしたカリフォルニア大学デービス校のブドウ栽培・ワイン醸造学部があったのだという。
(そういや自分、カリフォルニアのディズニーランドに行ったことがあり、ナパバレーのワインを夕食時にレストランで飲んだんだなと…回想)
ワイン自体は放っておいても出来るが、美味しく作るには技術があり勘が要る。研究者は「ワイン作りは半分科学、半分芸術のようなもの」と表現し、過程で何が起こっているかが分かれば、理想通りのワインを作ることも出来るようになるのではないか、と研究が進められている模様。
「(仕事に対する情熱を持たない人も多く居る他業種とは異なり、)ワイン業界で、ワインについて情熱を持っていない人はなかなか見つかりません」と研究者は述べ、それは最終的にワインが「楽しむための」商品であり、業界人も他の食品との組み合わせや家族・友人などと味わい楽しむところに魅力を感じるからという。
本当に好きなことを仕事にするのは難しい。けれども、嫌なことを仕事にして1日の1/3以上をそれに費やすのもツライ人生だろうと、改めて自分も思ったり。。

ディズニーワールドの他にもユニバーサルスタジオ等、大手テーマパークが数多く存在する、アメリカのフロリダ州オーランド。
そんなオーランドには、テーマパークの「夢」の作り方を学問として研究したり実践として教える大学プログラムが次々現れているという。
当然のように、そこにはテーマパークに就職を希望する学生が集まり、ウォルト・ディズニー・イマジニアリングで働きたい人も当然のように多いのだと。しかしフロリダ大学のテーマ空間統合修士プログラムを牽引する建築士であるグラント氏は「現実的に、皆がウォルト・ディズニー・イマジニアリングで働けるわけではない。テーマパーク産業を支える企業は他にもたくさんあることを学生たちに見せて、その中に自分がときめきを感じる企業を見付けてもらうことも私の仕事の一つ」と述べる。
そう、夢を叶えるためには方法というか形は一つとは限らない。にもかかわらず、人間は何か一つに「これでなくちゃいけない」と拘りすぎて自分の首を絞めがち…自分の適性と能力を無視した思い込みである場合は更に厳しいイバラの道だというのに(酷評)。「それ」を選ばなくても、また別の道が開けており、続いているというだけなのですよ。「これが絶対に正解」なんて、割と誰であっても断言なんて出来ないものなのだと。人生も然り。。閑話休題。
そのテーマ空間統合修士プログラムでは、対人コミュニケーション能力を鍛えることを重視し、最初はひたすらコミュニケーションを系統的に学び実践していくのだと。
「テーマパークは誰か一人が部屋に籠ってデザインしたものを建築家やエンジニアが形にするものではなく、100分野以上の専門知識による共同制作物」
だから、
「学生が一番優れた建築家や一番優れたエンジニアになる必要はないが、大勢の人と協力することに関して一番優れた人材になる必要はある」
と指導する側のグラント氏は語る。
いやはや、もっともです。
今時のあれこれの商業作は、規模の大きいものを限られた時間で作るだけに、一人の天才だけによって成しうるものではない。世間的に「一人の天才」と目される人物も、『ネンドノカンド』での話ではないけれど、本人の能力も無論相応にあるのだろうが、何より周囲の人々を巻き込んで目標に向けて仕事をする手腕、「巻き込み力」の天才なのだろうと。
でもやっぱり、世間の人間は「一人の天才」のネームバリューで「さすが巨匠〇〇!」的に「右に倣え」「左に倣え」を繰り返すんだよなあと…ビッグになると周囲の期待値も大きくなって気軽にコケれないし、大変だろうなと。そもそも論だけど、その世間の評価というのも『枕草子』の最終段「物暗うなりて」にある「人の憎むをも良しと言ひ 誉むるをも悪しと言ふは 心の程こそ推し量るれ」、これをどう現代に訳出するか多少意見が分かれる向きもあろうけど、私自身は某漫画版枕草子での「(他者が)褒めるものは褒め、けなすものはけなす、それが人というものなのでしょうね」という内容の意訳を採っているけれど、要するに「皆がイイと褒めるものをけなすと気まずくなる、逆も然り、というのを分かっている人間が多い」ってことかなと…んで、それが「右へ左へ倣え」になると(何気に酷評)。ほんと人気作・話題作ほど刺さらなくて置いてけぼりな感じなんですよね自分…もはや辛さとか気まずさも感じなくなってきたけれど(おおいに自爆)。今現在NHK大河ドラマの影響で平安・源氏ブームがきてるようだけど、『枕草子』は「春はあけぼの」などより前述の終段「物暗うなりて」や「いはでおもふぞ いふにまされる」の話など、枕草子成立に関わる件を書いたであろう箇所にこそ真価があると私は思うんですがね…。
話は戻り。テーマパークは夢の国だが、現実世界と隣り合わせで、予算や工期、メンテナンスがあり、万が一の災害にも備えなければならない。見た目や雰囲気を壊さないようにしつつ、軽量化・低予算化・メンテナンスの簡素化、何より安全を実現しなくてはならず。火災が起きた時の為に消防車が進入するルートや消火活動するに必要な空間を確保し設計するのはマストであり、その為に消防保安官と幾度となく確認作業をするうちに個人的にとても親しくなった、という話には学ぶところが多かったです。
エンタメ界の天才は、コミュニケーション能力に抜きんでて秀でているとほぼ同義。
見た目だけのハリボテになるな、と(辛辣)。

寒冷地の気候は人間にとって当然のように厳しいが、近代文明の産物に対しても全く優しくなく、寒冷地では寒冷地に適応した物の作り方をしなければならない。私自身、大学時代4年間を「しばれる大地」北海道で過ごしたので、非常に実感としてあるところ(魅力度ランキングで常に上位の北海道だが、冬の自然は猛烈に厳しい。夢やあこがれ先行の地に足つかない回答の多さ、ひいてはランキング自体の妥当性を考えさせられる←酷評)。そこで紹介されるのが、フィンランドでの寒冷地工学。港が凍って船の行き来が出来なくなり物流そして経済が滞ることを打開すべくの砕氷船、そこにも科学と工学が関わってくる。
現在、地球温暖化により北極圏の研究は盛り上がっており、「第二次北極ブーム」という。
そうなのよ、エンタメやサブカルだけじゃなく、研究にも人気やトレンド、流行り廃りというのがあり、注目されやすい分野とそうでない分野も存在する。自分はいわば「日陰の研究分野」の1スタッフだから(爆)「世間の一般大衆にもイメージ伝わりやすくて持てはやされるアイツらはいい気なもんだな」と常日頃から思ってます(爆爆)
…話を戻します。
この章の締めくくり、

 地球は極地に住む人間に厳しいが、人間は地球に優しくしないと、もっと訳のわからない未来が待ち受けることになるだろう。大事が起こる前に、ニューノーマル(新常態)の法則を解明したいところだ。

『世界のヘンな研究』Part2 場所が変われば、研究も変わる  寒いと、モノは壊れやすい
――北極圏工学(フィンランド) より

が、本当に切実であり。もう今現在でも、猛暑に熱波に寒波に豪雨と、既にだいぶ訳が分からなくなりつつあります。喫緊の課題です。。

人間は大昔からハチミツが好きで、養蜂は世界各地で行われている。
ただ、その主流は採れるハチミツの量が多いセイヨウミツバチによるもの。しかしながら、フィリピンでは東南アジアに生息する針をもたない小さなミツバチであるハリナシミツバチの養蜂が支持されており、研究が進められているという。そこには、採れるハチミツの量が少ないことを埋め合わせうるメリットが存在しているらしい。
ハリナシミツバチはその小ささから(アリほどのサイズという)、当地に生息する実が食用となり更に売り物にもなりうる植物の小さな花と相性が良く、受粉の請け負い手となり、果実が多く実るのに役立つのだと。実際、大きな台風で受粉の担い手たるハチも消えてしまった被災地では、花は咲いても実がならない植物がいくらでもあったという話。
セイヨウミツバチよりも体の小さいハリナシミツバチに、同等のハチミツ生産量を期待するには無理がある。ハチミツの生産量で勝負できないし、勝負するつもりもない。ハチの付加価値は多様なものだ、と研究者は言う。
当初フィリピン大学ロスバニョス校のハチプログラムで教鞭をとる研究者は5名だけだったが、その後、数学・化学・経済学の研究者も巻き込んで、取材時には35人体制になっていたのだと。「ただ何となく」だけでは戦略的にはいけない、ってことなのかもしれない…と(私見)。
無論、ハチミツが採れて、それを売ればお金になる。けれども、ハリナシミツバチでは、そこまで多量のハチミツ生産が望めない。とはいえ、当地の植物との相性がよく、受粉の担い手であるなどの付加価値から(針を持たず刺される心配がないというのも理由の一つではあるのかも…)、ハリナシミツバチで養蜂をする人が当地には結構な数居るということ。これこそ、「所変われば品変わる」、何でも輸入してきた技術や生物ばかりが優れているとは限らないという好例ではないでしょうか。地産地消じゃないけど、地のものと地のものはマッチするというか。遠距離コラボばかり考えなくていいって話でもあるのかなと。

美容や健康に対し意識強い系の間ではもうだいぶ広まってきたんじゃないかと思われる、インドの伝統医学アーユルヴェーダ。
本場インドでは、れっきとした一学問であり、アーユルヴェーダ医師になるには5・5年と西洋医学同等の期間学ばねばならないという。
現在、西洋医学にも分野によって代替医療として取り入れられているというアーユルヴェーダだが、インドでは代替などではなく昔からあった医療であり、今も篤い支持を集めているそうで、国を挙げて推進していることもあり教育現場では西洋医療よりアーユルヴェーダのほうが人気が高まっているとも。
個々の体質や症状に合わせて薬を調合したり手当を考え、元祖オーダーメイド治療と呼ばれる点では漢方に近い印象であり。実際のところ、アーユルヴェーダは、漢方のもととなる中国医学と、イスラーム文化圏で発展したユナニ医学とともに世界の三大伝統医学とされるのだと。
そんなアーユルヴェーダだが、世界に打って出るにはデータとその検討が不足していて有効性がはっきり見せられないため、西洋医学の医者には抵抗感を持つ者も多いのだと。しかし、これは東洋医学(≒漢方)も歩んだ歴史というか、臨床実験や研究により西洋医学視点においても有効性が認められた漢方薬というのは幾つもありますから、伝統医学アーユルヴェーダが今現在よりもっと幅を利かす時代も遠からず来るのかもしれません。
ところで、これは私個人の実感なのですが、日本でもだいぶ前から保険適応の漢方薬が幾つもあり、西洋医学の医者もフツーに処方することがままあります。しかしながら、大半の医者は「この症状には、この薬」という言わば1対1マニュアル式に出しているというのが実情に思われます。漢方は患者の症状だけでなく体質や気質などもみて薬が決まっていくそうで、同じ症状でも体質が違えば処方される薬は変わり、もっと言えば患者AさんとBさんが全く違う症状でも同じ薬が出たりすることも起こりうる、と。そういうことを考えると、医療現場全体として見たならば、現状は本来のオーダーメイド医療からは遠いと言わざるを得ない(酷評)。しかも、漢方薬は即効性があるものばかりではなく、それなりの期間飲んでみないと効いているのか分からない部分もあり、2週間分とか、場合によっては1ケ月2ケ月分とまとめて出されるのだけども…2週間ならまだしも、1ケ月2ケ月分とか貰っちゃっても、2週間飲んで全く変化なし、むしろ悪化していると見たら、さすがに「これは合わないってことじゃないか」と薬を飲むのを止めざるを得ず、出された薬は無駄になってしまうんですよね(しみじみ)。薬を出せば出すほどカネになるという日本の医療の図式は変わってないのかなと思わされます(酷評)。

小説『大草原の小さな家』の舞台となったアメリカのカンザス州。平坦な草原がどこまでも広がる中にポツンとある町の大学には、パンや焼菓子を焼きまくる学生たちが居るという。しかも、それらは失敗作ばかり。
ベーカリー学科で学生たちを教えるカークル博士は、「料理教室のように美しいパンを作っていたのでは、あまり意義がない。むしろ実習では質の悪い製品をたくさん作ることで学習効果を狙っている」と言う。これが、工業的な製造を考えるときに必要な、正解の材料やプロセスが製造時に果たす役割について学ぶことになるらしい。
こんな或る意味ニッチな学問が大学で教えられているのは、当地が小麦の大生産地であるからに他ならず、ベーカリー学科を含む穀物学部ともどもニッチだが需要は高く、多くは地元から入学してくる学生たちだが卒業生は世界へと羽ばたいていき、世界の小麦産業を支えているとも言えるよう。
教官の悩みは、「需要は高いのに、この学科はむしろ定員割れしている」。就職率はほぼ100%、しかもその持てる専門知識から、卒業生の出世も早いのだという。けれども認知度が低い、と。
そもそも研究全般に関し言えることだけども、それこそ旅行先やグルメと同じというか、イメージ先行による人気地図みたいなのがあるんだよなと(酷評)。本当に必要なことだから研究を続けていかなきゃならないのに、専攻を志す学生が集まらない分野が存在してしまう嘆き。工学で言えば、情報系のソフトの技術者ばかり増えても嬉しくない。ハードの筐体と更にその中を設計製造する技術が途絶えてハードが枯渇してしまったら、「コンピュータ言語に堪能です」なんて言うたって役に立たんでしょ、と。今はAIがコンピュータウィルスの作り方を提示できうる時代らしいですから余計に(さらに酷評)。
話を戻し…この項末尾のコラムでは、日本人が「ミミ以外は上質に白い食パン」を好み求めるがゆえに、日本においては小麦粉の製粉時の工程を増やして不純物を除き白く白くしていることが書かれており。工程を増やせば、時間がかかり設備も、さらにそこに配置される人員も必要で、お金もかかるということに。正直、嗜好から非エコしてるんだなぁと思ったり…。

人類が長くお世話になっている動物の一つ、羊。肉や乳、そして毛皮が活用されてきた。
けれども今、化学合成繊維の広まりや羊毛・ウールを材料とするフォーマル衣料の需要減少により、ウール業界そして羊毛を研究する大学など研究施設は縮小を余儀なくされているという。羊と深く関わってきた国が、オーストラリアとニュージーランド。そこでは、研究を途絶えさせることなく続け、ウールの新たな価値を見出そうと、大学・公的機関・業界団体が連携して動いているのだと。
羊毛は動物からの産出物だけに、元となる羊が健康であることが良質の羊毛を生むに必要。子羊の致死率が15-20%と他の家畜の倍以上である点も、経済的向上のために改善されるべき要素であるという。
新たな価値「ウールはエコ」。「ポリエステルなど合成繊維の衣類を着るとは、プラスチックを身につけているということ」で、プラスチックごみによる海洋汚染の話は既に知られるところだが、ウール繊維は人工繊維よりも海水中で分解が進む(研究データによると、3ケ月でウールが20-23%分解したのに対し、人工繊維は最大でも1%までしか分解されなかったのだという)。
ウールは合成繊維よりもコストがかかり、製品の価格も高くならざるを得ないが、「エコ」というところが環境意識の高い消費者に響くかもしれないとウールのリブランディングが行われているとのこと。
人類は歴史を続けようと思えば過去に回帰していく、いや、するしかないのかもしれないですね…デジタルデータは半永久的というけれど保存するメディアには物理的寿命があって移し替えていかねばならず、結局石板の碑文が一番長い年月を生き残るのだろう、みたいな話にも通じるかもと。

そして日本にも、日本ならではな研究が存在する。

まずは、三重大学の忍者・忍術学。
三重といえば伊賀忍者の里であり、伊賀に国際忍者研究センターを置いている。
これまで、忍者というのは時代小説のイメージ先行な部分もあるというのか、研究という点では遅れていた部分も大きいらしい。それは、そもそも忍術とは書物に残すものではなく教え伝えるのものであり、書物として残されて以降も各家で密かに引き継がれてきており「公開するものではない」との思想にあったからというのも、きっと理由の一つ。
しかしながら、これこそ三重そして伊賀の地の利というのか、「そこで研究に使われるのならば」と、結構な量の忍術書を所蔵していた伊賀流忍者博物館や、伊賀忍者の子孫たちが伝来の文書等を提供してくれたのだとか。
そんなわけで忍術書を開いてみると、いわゆる黒の忍者装束で現れるのは18世紀頃の歌舞伎でだとか(意外と遅い)、手裏剣を使ったという史料が出てこないからフィクションだとか、女忍者・くノ一は女性の武士が居なかったことと同じで登場するのは昭和からだとか(女性が諜報活動に協力したのは無論考えうる話だが、それでも彼女らは「本業の忍者」ではなかったらしい)。また、忍術書からは術その他の知識ばかりではなく、忍者に求められる心構えや人柄、知恵などが見えてくるといい、冷徹な騙し討ちのプロではなく、清く正しい心とチーム精神を持つ者こそ忍者の理想像なのだと。
…つくづく時代小説・時代劇における創作の多さばかりが目につくことに…これ現代エンタメ中のニッポンNinjaに惚れて沼ってる的な外国人に見てもらいたいわ(何気に酷評)。
実は私(と勿体ぶるほどじゃないけど)、この三重大学の忍者研究に関しては何年も前から知っていました。きっかけとなったのは、日本科学未来館(東京お台場)における夏の企画展「The NINJA-忍者ってナンジャ!?-」です(調べてみたら2016年7~10月の開催だった)。夏休みに掛かる開催、さらに科学系の博物館という会場の性質もあり、デジタルやメカニックの技術も取り入れて、体や頭を使いつつのゲーム的要素も織り込みつつ、子供向けでありながら大人も楽しめて勉強にもなる内容。当時の私は、自分の子供に多方面に関心を持ってもらうべく、夏休みには東京の美術館・博物館の企画展から1つ2つ選んで連れて行くのが恒例でした。何年もにわたり夏休みに観覧した数々の企画展の中でも、なかなかの良プログラムだったと思います。ちなみに、子供が一番気に入って「またやらないかなぁ」と言い続けている企画展は、何はさておき「ポケモン研究所」(同じく日本科学未来館開催)ですが…。
総括すると、忍者はコミュニケーションの達人でありアスリートでもありサイエンティストでもあった、と言えるのかもしれません。

この本ではアニメ研究の項として、日本アニメーション学会の会長であり横浜国立大学教授の須川先生に色々と話をうかがっているのだけれど。
たぶん、海外でも日本アニメの人気が上がっていってアニメが学術研究の対象と目されるようになってきた1990年代末から21世紀初め以前にも、所謂オタク研究というのはあったと個人的には思うのです。オタクの心理に関するものだったり、アニメ・漫画・小説作品中の内容や描写についての文学的・歴史的あるいは心理学的・行動学的分析みたいなものは。でも、今現在のアニメ研究は、三昔前とは異なってきているのかなあと個人的には感じます。
それにしても、須川先生の見方がかなり自分の考えるところと重複しており、「よくぞ言ってくだすった」なので、部分的に引用してみると、

「80年代は、宮崎勤事件で象徴されるように、アニメファンの男性はちょっと危ない、犯罪者予備軍、という風にオタクが見られていた時代でした。90年代や2000年代になると、普通に漫画やアニメが楽しまれるようになり、オタクに対する偏見がなくなったとは言いませんが、『電車男』のヒットを機に『オタク』が広義的に捉えられるようになり、普通に『アニメが好きだ』と言える社会になりました。

『世界のヘンな研究』Part4 日本にもある!ヘンな研究
日本人はアニメから影響されずにいられない?――アニメ研究(日本・神奈川) より

 須川さんのもとには、いろんな興味を持った学生が集まる。大学院生たちが研究するテーマは多種多様で、声優研究もあればオタク研究もあり、萌え研究もある。こうした学生はアニメが好きで研究したがるわけだが、須川さんは好きなことを研究するのは難しいと学生に忠告している。というのも須川さん自身、幼い頃からアニメが好きで、「サイボーグ009」の島村ジョーに沼ったこともあった。
「でも私は多分、あまり物事にのめり込まない性格なので、オタクになりきれなかったと思うんです。その距離感があるので、研究ができているのではないかと思います。のめり込みすぎるとどうしても視野が狭くなるので、批判的な視点を持ちにくくなるんです」と須川さん。

『世界のヘンな研究』Part4 日本にもある!ヘンな研究
日本人はアニメから影響されずにいられない?――アニメ研究(日本・神奈川) より

色々と考えさせられる話が続きました。
時代が下るにつれオタクの市民権的なのは向上してるというか、今じゃもう場所によっては何なら「自分、オタクなんだよね」という自己紹介から友達が出来ていくくらいの勢いというか、逆に「自分、アニメも漫画もゲームもラノベも全く興味ないんだよねぇ」とか言おうものならなかなか友達なんて出来なくて「じゃあ何?鉄道?昆虫、あとは…ええと…」くらいの感じじゃないかと(極言)。当世ではオタクと言うほどじゃなくても、いい歳になっても、それこそアラフィフを過ぎ還暦を過ぎてもアニメや漫画、ゲームの受け手・プレイヤーで在り続ける人口も多いように見受けられます。いやホント、90年代初め頃まではいい歳してアニメ漫画ばかり見てると「いつまでも中身が子供のまま」「気違い」的なところからの「ダメ人間」烙印を押されたもんですよね…今そういう人がすごく多いから、だいぶ非難もされなくなったなと(しみじみ)。
で、一方で30歳過ぎたような中でゲームのことで兄弟げんかからの殺人事件なんてのが起こったりもして、それは「中高生じゃあるまいし」的に本当に情けないなと…いや中高生であっても、漫画やゲームがらみで殺傷沙汰なんて情けないんだけども。後でも述べようと思うことだけど、それらはどんなにリアルだったとしても現実世界ではなく非現実世界、リアル社会ではなく疑似社会、仮想現実に過ぎないのだと、そこは受け止めないといけんよなと(辛辣)。
こんなことが言えるのも、私自身に冷静な部分があり、世間一般の価値観ではオタクなんだろうけどもオタクの側から言わせれば「オタクになりきれてない」人種だからだろうと思います。

とはいえ、完全にオタクが世間的に認知され立派に人権を獲得したかといえば、決してそうとは言えないんじゃないかなと。
偏見が薄れるというか裾野が広がっていく過程で、オタクの聖地・秋葉原で無差別殺傷事件が起きたり、京アニ放火事件が起きたりし、都度非オタクは「これだからオタクは…」的にオタクとその周辺を警戒したり冷たい視線を向けてきたんじゃないかと。そしてそのたびに、事故現場で我が事のように泣いて悲しみ哀悼の献花をするオタクの姿がテレビなどで流れました。それはマスコミによるオタクの復権というか弁護でもあったのかもしれません。
あくまで私見ですが、多くのオタクは日頃はつつましくもあって、別段危険な存在ではないのだけれど(気が弱い人も割と多い印象)、青少年と同じで「個々はそれほどワルくなくとも、集団になると気が大きくなってワルになる」面もあろうと。口数も少なく大人しいと思うと、自分が好きで関心があるものの話題になるとグイグイ前に出てきてやたら声高かつ饒舌になったり、自分の推しや信条をちょっとでも馬鹿にされると激昂することがあったり、「同じものが好きなんだから仲良くやれるんだろう」と思いきや小さな差異やすれ違いから大ゲンカとか排斥運動になることがあったり、自分の好きなもの以外は目に入らなくなる的に迷惑行為というかもはや犯罪行為に足つっこんでても悪びれもしない人が居るのが「怖い」と取られるんだろうと感じます(たびたび撮り鉄によるマナー違反つか運行妨害や危険行為がニュースになり、「健康は宝だ。健康の為なら死んでもいい」という冗談を思い出したりする)。
言ってしまえば、研究者や専門家もその道のオタクです。ただ、彼らの場合は仕事であり社会的な地位なり立場なりイメージなりもあるからか、知識だけ持ち合わせていたものが実際目の前に現れて興奮することはあっても、そのリアクションには節度があり、語り口は割と冷静なことも多いというか冷静につとめようとする姿勢が見られるように思います。そこがプロとアマの違いであるのかもしれないとも。
・・・いかん、オタク論だけで1本記事が書けそう(墓穴)。

ところで、夏冬のコミケは万単位のオタクが日本国内はもとより海外からも参戦する大大大イベントとなっているけれども、一方でその心理が理解しがたく冷めた目で見てる人口もそれなりの数居るわけだし、「漫研の女生徒は腐女子ばかり」と部外者には言われたりしてるのが現実かなと(結構辛口)。。
オタクについては、「ねほりんぱほりん」(Eテレ)のネトゲ廃人・二次元しか愛せない女・腐女子・同人作家などの回で掘り下げられた部分もあるかと…いやはや、ねほぱほ自体そういうところはあるが、それにしてもあの内容は部外者にはさっぱり分からん世界感すごかったと、多少その世界が分かるつもりの自分も思ったですよ(正直な感想)。
自分が高校生の時分、アポなしで訪ねた某地方大の人文学部校舎でたまたま出会った日本史学の教官に色々と話を聞くことが出来たのだけれど、先生が「歴史を研究するというのは、ただ一人の歴史上の人物を調べ上げることじゃない。でも実際、どうにも大好きな歴史上の人物が居てウチに入ってきて『〇〇ちゃん』と愛称で呼んでる学生とか居て困ってしまった。歴史の『流れ』の中で捉えていくことが大事」とおっしゃっていたのを今でも忘れられません。推しが尊すぎて神になるだけならいいけど、他のあれこれがさっぱり見えなくなるのは正直困りもの(率直な感想)。「人物」に限らず「物事」その他に広げつつ、我が事として先生の言を受け止めてほしい人が相応の数だけ居ます(何気に激辛)。
二次元しか愛せない女@ねほりんぱほりんでの「二次元は現実社会を生きるための給水所」的な発言もあるし、「現実の人間は裏切るけど二次元は裏切らない」もあるし。
ただ、年二回のコミケほか毎週末のように都市圏を中心に日本全国で大小様々な同人誌即売会等のイベントが開催されるようになり、そこがどんなに居心地が良かったとしても、それが24時間365(366)日、何年間も連続し、その空間と雰囲気の中でずっと暮らせるわけではなく、そういう意味では現実社会ではなく疑似社会という件は忘れてはならないだろうと思いますよ。。

閑話休題。

富士山の研究と一口に言っても、その領域は周辺地域の地形や生態系、環境汚染、経済や観光、さらに信仰と多岐に渡る。
山梨県富士山科学研究所が近年力を入れている分野の一つが防災研究だという。
富士山は死火山ではなく、いつまた噴火するか分からない山である。
2022年にはハザードマップが17年ぶりに改訂され、

そして新しいハザードマップをもとに、富士山火山広域避難計画検討委員会が、従来の避難計画に従って避難した場合の状況をシミュレーションしたところ、あまりに多数の人が一斉に逃げるため深刻な渋滞が起こることがわかった。一方で、市街地に到達した溶岩流は歩くスピードより遅いため、普通の人ならば徒歩で命を守れる場所まで移動し、その後から別の手段で移動するほうが早く避難できる。結果、原則徒歩で避難するように計画が切り替わった。渋滞から抜けられず逃げ遅れるよりも歩いたほうが確実なのと、高齢者や歩行困難な人が優先的に道路を使えるようにできるという利点がある。

『世界のヘンな研究』Part4 日本にもある!ヘンな研究
富士山は、よくわからない10歳児――富士山研究(日本・山梨) より

今まで日本での災害教育では、地震で揺れたら机の下にもぐる、火事があったら家から出るなど、反射的な回避行動を刷り込んできた。ところがそうすると、反射が仇になることもある。
「ある小学校でブラインド方式(予測なし)で地震訓練をやった時、『地震が来ました』と放送が流れると、校庭にいた児童も、校庭のほうが安全なのに、わざわざ教室に戻って机の下に隠れたりしたんです。これでは覚えた反射に意義も何もないですよね。当然研究者の中には反射的に逃げれば良いと言われる方もいらっしゃいます。それが必要な時も当然あって、一刻を争う津波や土砂災害の場合はそうだと思うんです。ですが雨災害や火山災害など、考える時間の余裕が若干あるものは反射だけでは不十分だと思います」と吉本さんは言う。

『世界のヘンな研究』Part4 日本にもある!ヘンな研究
富士山は、よくわからない10歳児――富士山研究(日本・山梨) より

災害への対応策はアップデートされていくもの、いや、時代や環境の変化と共にアップデートされていかねばならないものなのでしょう。
東日本大震災時の津波で逃げ遅れ犠牲となった人たちの中には、旧来の避難計画に沿って行動していたとか、「過去の大津波のときも、ここまでは来なかったから」と残った人も居たのだと。
自然は人間の想定など軽く超えてくる。
「自然は征服できる、人間の思うようにコントロールできる」と勘違いをしては、人間は自然の脅威に打ちのめされてきた。これが、とりわけ近現代の世界であったろうと。ましてや気候変動や異常気象が激しさを増している当世、避難計画を見直さないことは、油断であり怠慢であると言わざるを得ない(文字通り行政に対する批判)。
自然は人間の想定など軽く超えてくる、それを痛烈に思い知らされて、東日本大震災以降「(津波)てんでんこ」という言葉が見直され広まったように感じます。

富士山科学研究所の防災チームの吉本さんたちは「知識を持っていても逃げない人を逃げる気にさせるような、率先して適切に逃げる人」を育成するための教材を作成中といい、これは正に「あおきいろ」(Eテレ)中の歌の一つ・「こわがりヒーロー」を育てるプログラムではないかと。

「仮に100年後にしか起こらないのであれば、仕組みだけに力を入れるよりも、子供たちの教育の中に取り込んで、その子供たちがやがて大人になって、大人になったら子供を作って親になって、そしたらその子供たちがまた聞いて、という知識のサイクルを作って、100年後に災害に強い世の中を作ろうという心意気です。災害には親も子もなくて、知っているほうが強く、知らないほうが弱い。だから子供たちに語りかける時は、『君たちが知識を持っているんだから君たちが地域のリーダーにならないといけない』とよく伝えています」と吉本さんは語った。

『世界のヘンな研究』Part4 日本にもある!ヘンな研究
富士山は、よくわからない10歳児――富士山研究(日本・山梨) より

『災害には親も子もなくて、知っているほうが強く、知らないほうが弱い』とは、実に重みのある言葉です。そして、『知っていても動かないより、適切に知識を活かし動けるほうが尚強い』と。
東日本大震災時に津波に襲われた ある地域(宮城県内の海に近い地域だったという記憶)では、
昔からの住人は「あの高台の神社に逃げればいい」と分かっていて、それで助かった。しかし最近当地に引っ越してきた人たちにはそれが周知されておらず、逃げれば助かれる場所を知らないまま津波に呑まれてしまった人も居た
…という話もありました(『震災後の不思議な話 三陸の<怪談>』。今手元に本がないから記憶だけを頼りに書いてます;)。
日本は火山帯の上にあり、地震とは切れない所。さらには台風の通り道にもなり、近年では線状降水帯の発生による豪雨もあって、洪水や土砂災害も起こりうる。
だからこそ、適切に命を守る為に必要な知識を備え、アップデートしていくこともまた必須で、いざという時に躊躇なくそれを実行に移せなくてはならないと感じるばかりです。
南海トラフにしろ首都直下型にしろ、来る来ると言われていてもまだ来ない大地震。けれども、今こないから絶対に起こらないはずも無いのだと、皆が心しなければいかんのだと思います。
ただ…この少子高齢化という流れがこのまま進めば、たとえば100年後に富士山の噴火や南海トラフ地震が起こったとして、自分の足で・個人で安全な場所まで避難出来ない人ばかりになってて、車で避難しようとして深刻な交通渋滞が起きて、結果助からない老年者ばかりの命、、という図式に陥る可能性はあると…それとも、その頃には「空飛ぶ車」が実用化されるのかなと…いやでも「空飛ぶ車」だって数が増えすぎると結局空でクラッシュしかねないんだな…いやいや、そもそも人類が今と変わらず地球上で無事に生活出来ている保証もないかも、と(激辛)。現在値でだけシミュレーションするのでは足りないのかもしれないな、と個人的には思います。。

火山の害とは噴火による噴煙や溶岩流など色々ありますが(いやもう個人的な思い出を語ると、鹿児島を旅行した折に、桜島が噴火した際に降った火山灰を集めて捨てる専用の黄色い袋・克灰袋こくはいぶくろなどを目にしては、たびたび噴火し しょっちゅう噴煙を上げている桜島の傍で生活している人たちの桜島に対する『誇りでもあるが同時に厄介な存在』という思いみたいなのをヒシヒシ感じた)。
一方で温泉という恩恵も存在し、日本は地震国であると同時に温泉国でもあると。
そして登場するのが温泉医学。こちらの本では、大分県別府にある九州大学病院別府病院の前田先生に話をうかがっている。
別府病院には温泉を引いた浴槽があるというが、医学の進歩から「温泉療法なんて本当に効いているのか。時代遅れじゃないのか」的な空気感なのか、下火になった時期もあるのだとか。それが再開されたのは療養病床の設置以降であり、「療養病棟の泥湯に浸かると痛みが引く」と述べる患者が居たが後になって腺維筋痛症だったと分かり、口コミで広まって原因不明の体の痛みに苦しむ患者が遠くは北海道から来ることもあるのだと。
前述のアーユルヴェーダや東洋医学じゃないけれど、昔から廃れず続いてきたものには続いてきただけの理由があるんだと思わされます。西洋医学は確かに優れたところも多いが、治せない病気や症状が今でも色々あるわけじゃないかと。そういう「西洋医が手に負えない症状」が、伝統医学で軽くなり、更には消え去ってしまうこともままある。
で、ここでも思うのは、「医療界においても、やはり人気つか花形の分野とそうでない分野というのが存在してしまう」という件。それこそ天才外科医的なのとか、遺伝子治療とか…温泉療法は古いし地味だしってことになるんだろうなと。
あと、やはり日本人は温泉に慣れすぎてて「温泉に浸かる=治療行動」とまでは考えられないというのも事実かなとは思います。いやいや、これこそバリバリ温故知新で行っていいんじゃないでしょうか。私は全力で応援したい。

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このように、世界そして日本の「その土地ならでは」感のある研究について色々と知ることが出来、「研究の不公平」的な現場を見た思いもしました。
以上は自分が気になって繰り返し読んだところから主に書いており、実際はもっと他にも紹介されてます。

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