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【短め読書記録】『教えてくれたのは、植物でした』西畠 清順 著

「プラントハンター」として知られる西畠さん。私が以前訪ねた小豆島で会ってきた、スペインから海を渡ってやってきた「千年オリーブ」の移植に関わった方であり、そんな縁から西畠さんの本は今迄『そらみみ植物園』など何冊か読みました。
が、こちらは過去に自分が読んだ本とはちょっと違うような印象を持ちました。植物に留まらず、自然、地球、さらには動物や人間についても冷静でありながら熱い視線でよく観察しておられるというか…そして、そこから実にまっとうな意見を述べていらっしゃる。「プラントハンター」というと、一攫千金だとかベンチャー感がついてくる気がするけど、そうじゃなく。ただ自分の考えを思いつくまま述べているんではなく、「これこういうことがあったから、今の自分はこういう考えをもつに至っている」との説明がちゃんとされていて、説得力もついてくるし共感できる部分も増えるのかなと。
とりわけ「環境保全は、正義感より愛から始めよう」は含蓄ある言葉じゃないかと。

一時期、名画にトマトをぶつけたりスープをぶっ掛けたりという過激な抗議をする環境活動家がニュースになりましたけど…自分、あれをものすごく冷めた目で見ていたんですよね。
おそらくポケットにはスマホを入れ、飛行機に鉄道、自動車で移動してる。そうやって現代文明の恩恵にどっぷり浸かっている身で、国や大企業を名指しで批判し早急な環境保全を訴えてるって、なんだか「自分のこと棚に上げて…」ってしか映らなくて、正直何言われたところでさっぱり入ってこないよと(正直な感想)。
確かに、一個人が旧石器時代に戻った生活をするよりも、国家や大企業が大々的に環境問題に取り組んだほうが成果つか効果は大きい。だからといって、自分は何の我慢も不便もNO的に変わらない生活している上に、先人の残した文化財を汚すという行為はもはや人類の文明への冒涜に踏み込んでしまっていて、余計に「偉そうなことを言えた身分か」と冷ややかな視線を向けられるばかりじゃないかと・・・そんなことにも気付かないのかな、この人たちは、、と思いながらニュース見てましたよね。あれは、本人たちが必死になるほど周囲の反応は冷たくなっていくってケースの見本市じゃなかったかなと(何気に酷評)。

花を美しいと思えるかどうかは自分次第、というのも重い言葉です。
自分自身が生きるか死ぬかの状態なときに、目の前に綺麗な花があったとしても、それを愛でる心の余裕があるものかどうか、と。これ、「衣食足りて礼節を知る」にも通じるものがあるのではないかと。
環境破壊の一つに大規模な森林伐採があり、これは無論木材等を欲しがる離れた先進国にも非はあるのだけれども、少しでも良い暮らしの為に・今日明日の生活の為にと木を伐り森林や草地を燃やして畑を開く途上国の人々の事情もあるのではないかと。先進国の人たちが「地球環境保全の為」といくら言ったところで、「目の前の生活の為には仕方ない」には勝てないに決まっている(断言)。
途上国で天災が起こると、現地住民が先進国から訪れた取材クルーに「あんたがたがこの洪水を起こしたんだ」等と怒りの言葉をぶつけたりする映像が流れたりするけれど、これももうどちらが悪いと責任を押しつけ合っているばかりなら不毛じゃないかと、やはり私はテレビへ向ける視線が冷めてしまうのです(困)。

西畠さんが、年長の植木屋の先輩から言われたという、
「清順君、君は坂本龍馬の何を知ってるの?清順君が憧れているのは、『竜馬がゆく』の中に出てくる坂本龍馬であって、本当の龍馬がそうかどうかは別の話なんだよ。勘違いしちゃダメだよ!」
これは大多数の自称歴史ファンにも向けられた言葉じゃないかと(辛辣)。
実際に現場を見届けたわけでもない人たちが、熱く語る。歴史史料に直にあたっていてすら、「歴史とは勝者の記録なり」、真実をありのままに書き残してあるという絶対的な保証などない。にもかかわらず、歴史小説や映画、漫画と現代エンタメに焼き直されたものに浸かりきって物を言っている人が正直多いってのが現実ですよね(さらに辛辣)。
後世でも確かに認められる「曲げようのない歴史的事実」もある一方で、現代のエンタメに焼き直され娯楽化したそれには、作家なり脚本家なりの主観や想像、脚色が大なり小なり入ります。ホント、真剣に「勘違いしちゃダメだよ!」案件です(とまらない辛辣)。

繰り返しとなりますが、この本では「こういう見方や意見もあるけれど、自分は自身のこういう体験から、こういう風に考える」と、順を追って丁寧に語られているというか。自身と周囲を冷静に分析した上で「読み手・聞き手に伝えよう」という確かな意志が、そこに在るのではと…。
過激な抗議は、「自分が正しい」「自分にこそ正義がある」、何なら「自分は正義の使者であり、正義のために戦う聖戦士」くらいの思いがあるからこそ出来るのだろうけど、自分以外の他者にもそれぞれに奉る「正義」があるということを見落としているというか見ようとしていなくて、だからこそ建設的かつ発展的な要素を生まない、泥仕合にも近い「正義と正義の戦い」になってしまうのが当世の実情じゃないかと(地味に辛辣)。
ほんと、「俺の話を聞け」という時には聞いてもらえる下地の準備が不可欠なのに、過激な環境活動家はその辺省略してただただ「工場や発電所の操業を止めろぉ、排気ガスを生む車は悪だぁ」みたいに大声で叫んでみて、あとは道路に座り込んだり文化施設で騒ぎを起こしたり、大衆の生活の妨害に走り、とかく「話題になろう」が先に立っているばかりにしか見えない・・・大困(なおも辛辣)

環境保全と人間は言うけど、これまでさんざん環境を壊してきたのも人間なのであり。かといって「自分じゃない、過去の・他の人間たちがしたこと」と他人事を決め込めるものでもなく。

正義感や危機感から動くよりも、愛によるほうが より大きな力になる、「愛の力は正義感を超える」、だから環境や自然を守りたいのならば先ずはそれらを好きになってもらうことであり、植物に対する愛情の量を増やすことが自分のすべきこと、と西畠さんは綴ります。
その通りだと思います。
経験に裏打ちされた言葉の強さ、それを改めて感じた本でもありました。

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