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拙作における刀剣の話

繰り返しから入りますが、拙作中には実在人物を実際の名で出すことはありません。
人物に限らず、場所や物品も名前を変えたり、断定口調を避けるというか、特定するような言い方はしないというか、含みを持たせるくらいの表現にしています。
『妖しい刀剣』(東郷 隆 著)を読みまして、名刀には伝説があり、さらには欲しがった武士たちの駆け引き――それは時に謀殺にまでなることもあり――の繰り返しの歴史でもあった、というのを実感…。。
ただ、自分はそこまでの波乱万丈だったりロマンだったりドロドロだったりを求めていないので、拙作に登場する刀剣は、やはり出自も経過も幾分「ふんわり」している印象であり(墓穴)。名刀の所有権を争う、とか無いもんな・・・(遠くを見る目)
拙作の中でも刀剣が重要な役割を演じてくるのが、近世日本風伝奇FT『扶桑奇伝』(これから拙作語り書きます;)と、『六花繚乱ヘキサムライ』(過去記事参照)の時代劇版・『六花稗史』であります。

『扶桑奇伝』における刀剣

拙作『扶桑奇伝』に登場する刀剣で一番役目が重いのが、宝剣・サヅチ。扶桑国に存在する最強の刀剣だが、使い手の心身を極度に消耗させるため「諸刃の剣」状態。地上の猛き蛇神が天から降り来た神に討たれ、その精神ココロが刀剣となって残ったといわれ、尾張大社に祀られている…となっている。
さすが三昔くらい前に考えた話だ。ここまで見れば、もう元ネタはハッキリしている(自爆)。そのまんま、スサノオノミコトがヤマタノオロチを討伐した際にその尾から出た草薙剣である(さらに爆)。熱田神宮が尾張大社と名前を変えてあるのだ…(もっと爆)。ご存知の方も多いだろうが、天つ国系の神々とその末裔、天皇家にまつわるところは伊勢・鹿島・香取・明治などのように「神宮」で、かれらに国譲りをした国つ神系の出雲・諏訪などは「大社」。しかし拙作中では尾張と出雲とで逆になっていて(どうしてそうしようと思ったかが自分でもよく分からないのだけど;)、同じく「神宝」と呼ばれる神々ゆかりの宝物を奉るが、伊勢と出雲は最高祀官が初代国王の子孫なので「大宮おおみや」、尾張は初代最高祀官が初代国王の戦友ではあるが王家と姻戚関係を結ばずにきたので「大社おおやしろ」…という風に一応説明を付けている(汗)

他に『奇伝』本編より300年ほど前に王位をかけて兄妹が国を二分して争った内乱の時代があり、その頃には既に存在していたという王家の二振の刀が、短い(短刀・懐刀)鈴懸すずけと長い(打刀うちがたな…いや平安末期はまだ「太刀を佩く」時代だったと思うねんけど…墓穴)常盤木ときわぎ
この二振が『奇伝』本編にも登場し、鈴懸は王女・巴が持っているのだが、王子が持つべき常盤木の所在は不明で、巴も「(私に兄弟は居ないので)今も父がお持ちかと思うけれど」、更に見たことは無いと言う。しかし、この常盤木、意外というか予想通りというかな人が持っていて、終盤ふっと「あ、そういえばこの刀の名って…」と思い出すのだ(嗚呼)。。

『奇伝』本編のみでは…

・当初からの連れである三位さんみは刀剣も使えるが、長兵、中でも槍が得意で、彼の槍先に刻まれた銘が「奥正すみただ」。物言わぬ得物えもの(武器)が、「俺も力を貸すぜ」と意志を見せた場面がある。

拙作『扶桑奇伝』「陰謀」章より。

・有名な腕利き刀工として、相模さがみ宗定むねさだが登場する。正宗を意識してるのは明白(自爆)。
当代の宗定、本名・守由もりよしは、旅の同士でもある女剣士・愛鶴まなづる(現実的に無理なのは承知だが、彼女自身も刀工としての技量を身に着けている;)の父である刀工・包光かねみつの良き友であり競争相手という存在で、彼女の亡父が「自分が世を去った後に、争乱の時代がやってくる。だが、戦を終わらせるために立ち上がる者たちがある。彼らのために働けるような刀を打って、残して逝きたい」と最後に仕上げた刀を預かっていた。
当初は人間の兵士相手に戦っていた彼らだが、途中からその裏に非人間・「災禍さいか」の存在が見えてきて、「災禍」は普通の武器では傷ひとつ付けられなかったりする。しかし人外であっても愛鶴の持つ刀剣ならダメージを負わせることが出来ていたのだった。
当代の宗定は、彼女が争乱に身を投じて父の名が銘として入った「包光」の一振を削るように戦ってきたことを見取り、「最後の包光」を彼女へと手渡すのである。

・神と人間との訣別にかかる最終決戦へと向かい、『奇伝』本編の主人公・兵衛ひょうえは尾張大社の最高祀官から宝剣・サヅチを託される。
敵に強大なダメージを与えられる最強の剣だが、同時に自身のHP・MPを削られるような戦いになったのだろうと思う(その喩えな…でも間違ってはいない;)
長い旅路を共に戦い抜いた、様々な能力を持ち合わせた同士たちが在ってこそ、彼もまた使命を果たし生還することとなるのである。

『六花稗史』における刀剣

この物語においても「普通の刀では妖霊(妖怪悪霊)は斬れない」路線を踏襲し、過去の妖霊狩ようれいがりは主に「毒をもって毒を制す」妖刀などを武器として戦っていた。ただし、虎部の始祖・敦実あつざねは後に自身の妻となる巫女・いつきの「御守り」を付けた刀で妖怪を無に帰し、それは「聖を凶邪にぶつける」ものだろうと。他にも武器を使わず呪力で対抗する文部あやべのような存在もある。

棟梁・六花覇慧りっか はるさとの時代に、彼と家臣の六家とが力を合わせ、呪術の家・文部が主導し取りまとめる形で「雪華鍔」を作った。「雪華鍔」は「持主の剣槍となり甲冑となる」呪力をもち、持ち運ぶ武具がなくなるという画期的なものだった。
戦隊ものでいう変身アイテムである(ここでその表現…orz)
折しも他氏族に攻められ、妖霊狩は滅亡するが、覇慧公は自身と家臣の親族らが逃げ延びる時間を稼ぐべく自ら追手を引きつけ、他氏族の目の前で最期を遂げる。六花氏の始祖から使い続けられてきた妖刀・切霞せっかも、彼と運命を共にし地上から消えた。
このような棟梁なればこそ、天狗・長元坊ちょうげんぼうと狸・さくは遺命を奉じ、時機を見計らって実行に移したのであろうと。
余談だが、この切霞という名は「しかと見えざるもの・掴めぬものを斬る」という意味以外に「雪華」ともかけてある。。

「雪華鍔」は当時の文部惣領の姉が「たとえ我が身・我が命を犠牲にしても、この鍔と文部の後継者とは守り抜かねばならぬ」と必死の思いで鍔を収めた箱を抱え、幼い少年の手を引いて逃げた。そして雪華鍔の箱は当代惣領の子息で後継者、つまり彼女の甥・章蔵しょうぞうへと託される。
素姓を隠し各地を転々としながら暮らした章蔵も、やがて結婚、子息の誕生、子息の結婚と新たな家族が増え、孫をもうけ祖父となった。
彼が十歳になった孫娘・ふみを伴って山へと入った時、孫娘が何もない山中で立ち止まって、何かを凝視する。
「どうした?」
と尋ねれば、
「ここに石の階段があるの」
その言葉に章蔵も目を凝らすと、確かに山上へと続く、人為的に作られた石の階段が見える。
階段を上った先の庵には、妖霊狩再興の棟梁として選ばれ、幼い頃より学問と武術の才を磨き育てられた、覇慧公の曾孫にあたる少年・春吉はるよしが居た。

拙作『六花稗史 巻ノ一』附 より。

章蔵は春吉の養い親である天狗・長元坊と狸・さく乃の意志を受けて、春吉(六花覇君りっか はるよし)を連れて山を下り、新たな棟梁となる若き主君へと伯母から託された各家の雪華鍔を手渡し、そこから再興への歩みが本格化するのである。

各家の者達の中には、家伝の「あやかし得物えもの(妖怪や霊のチカラが込められた武器)」を持って逃げた者が複数あったはずだが、無事に逃げおおせた者ばかりではなく、それなりの数の得物が失われてしまったようである。
そんな中で生き残り現役を続けているのが、武部たけべの妖刀・「闇火風あんかふう」と、犬部いぬべの仕込み刀・「末黎林まつれいりん」。

武部力之進りきのしんが闇火風を継承し使い手となっていることから、当代の棟梁・覇君は武部家の鍔を、若年ながら武術の鍛錬を積み資質もある子息の格之進かくのしんに預ける。
武部家では人知れず、人助けの妖霊討伐を続けていた。
闇火風を携えて逃げ延びた武部拓之進ひろのしんには男児がなく、長女・とみが受け継ぐが、この刀は意志をもち、女を自身の使い手として認めない。しかし妖怪に襲われた医師・伊織いおりを助けるために彼女は妖刀を抜いて化物を斬り、刀の柄を握っていた両手に火傷のような大怪我をする。伊織は彼女の使命を共に背負う決意で、負傷した彼女の手当をし、やがて二人は結婚、子息・力之進が生まれる。力之進には闇火風が牙むく事はなく、彼はこっそりひっそりと各地の妖霊討伐をしていたが、あるとき神社を襲う鬼を見付けて戦いを挑み、打ち倒す。そこには鬼に命を狙われていた巫女姫が居り、姫は「私もお連れ下さい」と願い出て、彼はそれを受けて連れて帰る。これが力之進の妻・格之進の母となる「玉依姫たまよりひめ(※ここでは日本神話に登場する女神の名ではなく、巫女の別称)」・まいである。

家臣の一・犬部家は諜報係すなわち忍者であり、妖刀・末黎林を加工し杖に仕込んだ。その末黎林は犬部奉献いぬべ よしたけへと引き継がれ、彼が所持している。ちなみに、犬部の雪華鍔のほうも彼が持って使っており、まだ子息・和希かずきの手には渡っていないが、和希の成年が近づいて忍として一人前となれば所有権は移ると思われる。
犬部の過去や内情に関しては、これから巻ノ四で描く予定のところであり…
しかしながら、加工されても噛みつかなかったようだし、末黎林は妖刀としては大人しいのかもしれない。。

こちらに関しては、過去の自作語り記事も参照いただければ……
(過去の拙作語りに、闇火風と末黎林は共に地獄の名、と書いてあります。。)

『扶桑奇伝』中で、甲斐かいの村でひっそり暮らしていた幼児時代の兵衛にとっての「もう一人の母」・あおいや、前述の刀工・宗定も言うように、
「刀剣はその凛とした美しさとは裏腹な、生あるものを傷つけ、その命を断ち切る残酷な宿命を帯びている」。
これが、私自身の刀剣に対するイメージであり、拙作のあちこちに見え隠れする思想でもあると思います。
何かの本で見た言葉が元になっているような気はするけれど、今となってはもう分からない(困)

…という具合に、私自身は拙作の中で、こういう位置づけと役割とで刀剣を描いてます。。

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