結婚のシステムが変わればという想像。
結婚して20年は経とうかという年齢になって、改めて結婚てなんぞ?と首を傾げたくなることがあります。
職場にいる結婚したいけど収入のことを考えると出来ないと悩む男性。
婚活がうまくいかないと悩む女性。
結婚ってそんないいもんかなあ…というのは、結婚している側の意見なのでしょうね。うん、たぶんきっとそうだ。例えば子供の将来について子供と共に考える時、親の視点から見れば自分と同じ轍は踏まないで欲しいという思いから、あれこれと口を挟むこともあったりする。
けれど、それは子供に伝えながらも心の中心にあるのは、「こんな事を言っても理解できるわけがない。それが証拠には自分も子供と同じ年頃の時は誰かに似たような事を言われても上手く噛み砕けなかったではないか」、「自分で経験してみて初めて理解できる事というのがあるのだ」と思っている。
それでも我が子の事となれば口煩いのも承知の上で、きっと身にならないであろう話をしなければならない時もある。あくまで「これはお母さんがそう思うというだけのことだから、参考までに聞いてほしい。そして最後の答えは自分で出すしかない」というスタンスを崩さないように気をつけてはいるけれど、はっきり言って子供などは台風のようなお客さんであると今は思っている。影も形もなかったものが誕生し、私の世界の中心に居座り、そして近い将来去ってゆく。願わくば子供と共に歩めるパートナーを見つけ、息災でやって欲しいと思っているけれど、ところで結婚相手だけが人生のパートナーだろうかと、ふと思う。
自分の隣に20年以上もいる赤の他人である旦那は私のパートナーだろうかと。
そう考えたら蹴飛ばしたくならなくもないので、そこから頭を切り離して考えてみた。
職場の後輩達ならどうだろうかと。子供にする身にならない意見と等しく、私は結婚はした側なのでどうしても結婚ってそんないいものかなという頭は拭えないけれど。
要は私共のような〝これまでの人〟にカテゴライズされる立場の者ではなく、まさしく〝これからの人〟に属する人達のことになるのだけれど、これだけセクシャルの多様化が進んでいる現代で、これまで通りの婚姻制度には無理があるのではないかと。
制度でも法律でも先人達の積み重ねの果て編み出されたルールなわけだから、一概に否定してしまえないものがあるのは承知の上だけど、一方でやはり時代に合わせて変わっていくべきものもあるとも思う。
例えば子育てという意味合いにおいては、どんなに価値観の変動があろうと産めるのが母体だけである以上、出産に適した年齢の存在は否めない。
産まれてくる命にはそれを無条件で守る存在が必要だし、資金も必要。
それだけを考えるならば現在の婚姻制度が最も適した制度とも言えるのだろう。けれどその辺りを税金による社会保障などで補うことが出来れば、こんなにも無理のある婚姻制度を維持してゆく必要もないのではないかと思う。
子はかすがいと言いながらも、子の存在如何に関わらず夫婦関係が破綻してしまう方が多いのも否定出来ない現実としてある。
どうしてこのような事が起こるのかを考えてみた時に、そこに礼節が欠けてしまうことがあるのではないかと考えざるを得ない。
夫婦など所詮は他人。
礼節や他人という言い方が冷淡に過ぎるならば、他者と言い換えても良いかもしれない。結論から言えば他者に対しての気遣いや思い遣りが欠けてくれば人間関係などいとも容易く破綻するということ。これは人が生きてゆく上でも必要な社会生活にも当てはまることだと言える。学校や職場などでも〝身勝手な人〟であったり、〝自分本位な人〟がいると周囲までモチベーションが下がることはままある。
家庭も1つの人間関係である以上は同じなのではないかなと。血の繋がりがあろうとなかろうと、家族でいるための努力を放棄する人が出てくるだけで呆気なく瓦解する。まして夫婦などは元々が他人だったのだから、双方の歩み寄りなくして維持するほうが難しい。私は夫婦は重き荷を背負いて遠き道をゆくが如しだと、徳川家康の名言をパクりつつも思う。
夫婦で持つ荷の量はそれこそ其々の家庭に寄って異なるのだろうけれど、全く荷のない家庭などはおそらくは、ない。
問題はその荷を背負うのが片方だけになると背負う側は疲弊してしまうことにある。得てして荷を背負わない側は荷があることにすら気がつかないという現象も多く見受けられるので、どうしてこのような事が起こってしまうのだろう…と考えてみれば、夫婦は他人同士が家庭を作ろうと試みる共同作業であるという事実を忘れて、己の事を全て包容して然るべき関係性であると勘違いすることから起こるのではないかという結論に辿り着いてしまった。
確かに家庭でまで気を遣っていたのでは心身ともに安まる暇もない。他人同士とは言え、ある程度の許容なくしてはそれこそ夫婦になる意味などないとも言える。
ではどうするか。
全くの他人にはない包容を含めながら、夫婦と言えども他者なのだという認識を無くさず、自分から歩み寄ることを放棄すればいつ壊れてもおかしくはないのだと自覚を持っている為には。
結婚を一度きりのものにはしないと言うのはどうだろう。
何度でも再婚する人でも最初から「この人とはいずれ離婚しよう」などと考えて結婚する人はいないか、或いは少ないはず。多くの人が生涯一度きりと思って結婚するはず。そういった固定概念があるからこそ互いに許容出来ない事案が増え続け、この人はもう自分のものであると勘違いし、甘えに走る要因となる。では初めから結婚などは三、四回して当たり前という意識で臨んでみるべきではないかと思う。そうすれば共白髪まで一緒にいる可能性がある存在ではあるけれど、相手は自分のものではないと認識して過ごすことになる。
まず20歳辺りから35歳の間までに好きな数の人とプレ婚姻届を出し、其々と結婚生活をしてみる。35歳にもなればいかに未成熟な人格であったとしてもそろそろ残りの生涯を共にしたいと思う相手を見定めることは可能だと思われるので、その辺りで意志の擦り合わせを各自行い、正式な婚姻届に切り替える。その間に授かった子供があれば行政からの社会保障を資金とし、正式な結婚相手とともに育てる。この時点でプレ婚姻は解消され、やっと1on1での夫婦になるのであればいいのに。メインとして働くのが男の役目であるとか、家庭の事は女がメインでやるのだとかの定石は既に崩壊しているのだから、男女問わず働いて社会保障の為の税金を納めればいいのだ。役15年間のプレ婚姻生活の中で、この人は何かあった時にどう言った対応をするのかを互いに公平に見定められるだろうし、15年も相手が自分の所有物ではないと意識した生活をしていれば、流石に正式な結婚をしたところで〝重き荷〟を相手だけに持たせるようなことはあるまい。一般的に男は多くの畑に己の種を蒔きたがる本能があり、女は己の畑に蒔く種はより優秀なオスの種を望む本能があると聞く。であるならば、どちらの本能も満たされるし、かつ、プレ婚姻の中で礼節を欠いた間柄にはなりにくいのではないか。
無論こんな想像は現時点では荒唐無稽だとは思う。
理論だけで感情が動こうはずもなければ、人には悋気というものがある。そして悪い事に恋愛中の人間などは脳内で勝手に分泌されるホルモンのせいで、脳髄まで角のない豆腐のような状態になる。おかげで私自身は黒歴史として葬りたい失態の数々を晒しており、昔のことを思い出せば己に対して羞恥と赤面と後悔のフルコンボを達成している。出来れば都合の悪い過去を忘れる能力が欲しい。この脳内ホルモンが分泌されている間は多幸感に満たされるけれど、分泌されなくなれば失恋という名の痛手とを負って苦しみ、慣れれば分泌されるホルモンが興奮剤から麻酔のように擦り変わる。これが愛は四年で終わると言われる所以だという。興奮剤から麻酔に変わった際に互いに他者であるという礼節を欠いていた場合、安寧にはなり得ないのだから私達は一体どれだけこのホルモンの奴隷なのかと思うことがしばしばある。
これからの人達はそんなものに振り回されるシステムを改良して、共白髪まで生きられるパートナーを見つけられる世の中になって欲しいと思う。
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