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「すずめの戸締まり」アニー賞ノミネートおめでとう考察

※画像は公式サイトより

新海誠監督映画「すずめの戸締まり」が「アニー賞」にノミネートされました。それを記念して、この映画に対するいくつかの批判に対し、20回ほど本作品を詳しく鑑賞した私が、多少冗談も交えて”新しい見解”を述べます。ネタバレを含みますので、まだ本作品を鑑賞されていない方はご注意ください


〇祝「アニー賞」に複数部門でノミネート!


災いの出て来る扉。そこからは災いが出て来て地震を引き起こす。全国にある「後ろ戸」を閉めて地震を防いでゆくロードムービー。東日本大震災をベースにした長編映画、新海誠監督の「すずめの戸締まり」が権威あるアニー賞にノミネートされました。

映画というエンターテイメントに、東日本大震災を埋め込んだ賛否両論あるこの映画。私は日本にとって極めて重要な映画と感じ、映画館で3回、Blu-rayでかれこれ20回近く鑑賞しています。そこまで見ると、映画の深いところの意図がたくさん伝わって来ます。

だからこそ思うのですが、この作品がアニメーション映画のアカデミーともいわれる「アニー賞」に複数部門でノミネートされた事は喜ばしい事です。東日本大震災を風化させないこの映画。受賞すればあの大災害を世界の映画界に刻み込むことになります。必ず世界に認められ受賞してほしいと願っています。

〇よくある映画への批判・厳選5つ

ところで、この作品は賞賛の傍ら、いくつかの批判があります。代表的なものを厳選してリストアップしてみます。

  1. 「後ろ戸」を戸締まりするため、走ってでは行けなさそうな遠いところまで走ってゆくシーンが多く、すずめの体力が無限大

  2. 主人公の女子高校生「すずめ」が、もう一人の主人公の大学生「草太」に一目惚れして命を懸けて行動するのが不自然

  3. 東日本大震災という日本人にとって重要かつ凄惨な事柄をエンターテイメント枠で使用しているうえに、リアルに表現しすぎてトラウマになる

  4. 猫の姿をした神様である「ダイジン」に対する救いがない

  5. スナックで仕事したり、家出をするということが教育上よくない

だいたいこんなところでしょうか。これに対して、Bru-rayに穴が開くほど本作品を見た私が答えてみます。

1.すずめの体力が無限大

遠くにある「開いた後ろ戸」を戸締まりするために、すずめが遠いところまで駆けてゆくシーンが結構あります。これは、運動誘発性喘息を持つ私にとっても確かにその通りではあります。ですが、私は30歳代のころ、まだ喘息になっていない時期に、看護師をしていました。そして、日勤の仕事が終わった後も、仮眠のない夜勤が終わった後も、1日16㎞~30㎞のランニングを8年間欠かさずしていました。30代のおっさんでもそれくらいできるのだから、若いすずめがちょっと遠くまで走っただけで、体力が無限大とは言えないでしょう。地震から日本を守るのならば、そのくらいの体力はないといけません。すずめの体力は普通です。環さんに自転車こいでもらっている様ではまだまだです。

2.「すずめ」が草太に一目惚れしたのが不自然という批判

すずめは冒頭のシーンで、草太に会い一目惚れをしたかの様に表現されています。廃墟で「イケメンの人~」と言っていることからも分かります。しかも中盤では「草太さんのいない世界が私は怖い」と言っています。確かに、一目惚れだけでそこまで思いつめ、最終的には命を懸けて草太を助け出しますのは不自然かもしれません。しかし、一目惚れが原因で草太を椅子から人間に戻そうと命を懸けたわけではありません。「草太さんのいない世界が私は怖い」というまでに、すずめは椅子になった草太と数々の苦難を乗り越えています。その過程の中で、すずめは椅子になった草太に思いを寄せていったのです。つまり、絆は姿や形に関係なく生まれるという事を言っているわけです。その証拠に、草太が人間の姿に戻った瞬間、すずめは草太を一瞥するだけで、その向こうで倒れているダイジンに駆け寄って介抱しています。元の姿に戻ってよかったね、と言った描写は一切ありません。従って「たとえ相手が椅子であろうと、共に過ごした時間が重要である場合、絆が生まれる」という事が表現されているわけです。なお、新海監督は「すずめは幼少時に常世で草太に会っている」ことに言及しています。しかしそれは、すずめにとって草太は美しい常世の一部であったことを意味しているのであり、冒頭ですずめが草太を見て「きれい」といったのは草太が美しい常世のイメージと重なったからだと考えられます。草太に一目惚れした原因の一つにはなったかもしれませんが、命を懸けて草太を助けに行く動機は別のところにあるのです。恋愛は見た目ではないのです。

3.日本大震災をエンターテイメント枠でリアルに表現している

人間の記憶というものは良くも悪くも薄れてゆくものです。東日本大震災の被災者の方は、今でも震災が昨日の事の様であるがごとく忘れることのできない記憶となっていると思います。実際、震災から10年経った今でも復興は道半ばです。忘れられるわけはないと言えると思います。しかし、日本全体でみたらどうでしょう。東日本大震災の事を思い生活している人は時間の経過とともに少なくなり、記憶は薄れてゆくのではないでしょうか。それに対して「東日本大震災を風化させない」ためにドキュメンタリー番組を作ったり、特設WEBサイトやSNSを作ったとして、一体何人の人が利用するでしょうか。そういったメディアのコンテンツの人口密度は低いのです。一方、エンターテイメントという枠は広くかつ人口密度も高い領域です。そこに震災を織り込んだことによって、「東日本大震災を風化させない」ことに成功しているのではないでしょうか。震災の描写がリアルすぎるというのは、確かにその通りだと思います。2024年1.1に起こった能登大地震のとき、みんなのスマートフォンが警告音を鳴らし、一体が騒然としました。この時の状況に映画の表現が酷似していました。新海作品はリアリティの中にファンタジーを織り込むところところが特徴でもあり長所でもあります。リアリティのあまりトラウマを思い出した方がいるというのは、新海作品の長所が悪い風に働いてしまったものかと思います。制作側が最初から配慮するべき点であったという判断は否めません。ただし、それくらいのリアリティを持っているからこそ「東日本大震災を風化させない」だけの力を持った作品になっているともいえます。とは言え、PTSDのトリガーになってしまうのは新海監督も望んでいない事なので、今後の映画作りの課題となるでしょう。

4.ダイジンに救いがない

すずめと仲良くなるために無邪気にすずめと草太を翻弄するダイジンは、すずめの手によって要石の役目を逃れました。ダイジンは映画の序盤から中盤にかけて、すずめらの敵であるかのように描写されていますが、実はすずめの味方で、単純にすずめのことが好きなだけです。そんなダイジンはすずめに「うちの子になる?」と言われたにもかかわらず、最終的にはすずめの手によって要石になり、また長年ミミズを抑える役割を担うことになります。そうするとダイジンはあまりにも可哀そうであると言えそうです。人間のために地震を抑え続ける人身御供となるものの苦しみが如何なるものか表現されておらず、ダイジンに救いがないというのももっともな意見です。しかし、人身御供になる苦しみは草太の体験として描かれています。そしてそんな辛い要石の役割を、無邪気なダイジンに押し付け、誰もその苦しみを顧みません。これはあえてそのように表現しているのです。つまり、ある種の現実を批判しているのです。人を守るために苦しみに耐えていても、その苦しみについて多くの人が考えないという事は実はざらにあります。例えば、人は牛や豚や鳥を繁殖させて食料にしていますが、どれだけの人が家畜動物たちが生まれてから人間の食料になるまでの苦しみを悼んで食事をするでしょうか。すずめの戸締まりはそのような残酷な現実を、ダイジンを通して視聴者に突き付けているのです。

5.スナックや家出の表現が教育上良くない

こういう批判がありますが、映倫の評価を受けているはずなので問題ないでしょう。誰が「すずめの戸締まり」を見てスナックで働こうと思うでしょうか。また、スナックのシーンが教育上良くないとする根拠も不明で、何も風俗やキャバクラの様な明らかに成人の性的サービスを描いているわけじゃないんだし。スナックのシーンを非難するのはスナックに対するある種偏見もあるかもしれません。あとは、家出が教育上良くないというのも同じで、「すずめの戸締まり」に触発されて家出をして事件に巻き込まれる人がいるのでしょうか。そもそも、すずめは「草太さんを元に戻す」ために旅しているという事を隠すための言い訳として家出をしたと言っているだけです。また、すずめは「環さんには早く彼氏でもつくってほしい」と言って、自分から家を出ていくというより、環さんを家から出すような発想で話しています。家出を触発するような表現はないというのが私の見解です。

〇私が思う「すずめの戸締まり」の批判論点

Bru-rayにはもともと穴が開いていますが、さらに穴が開くほどこの映画を見た私も、多少の批判はあります。それは、表現が弱すぎて新海監督の本意が伝わりにくいシーンがあるというところです。

一つ目は、初めて見る後ろ戸のシーンです。床が水たまりになっていました。すずめはローファーのまま足首まで水につかって後ろ戸を開けに行きます。これについて新海監督は「たとえ水があっても、扉に惹かれる思いの方が強い」というようなことを仰っています。それならば、もう少し水に足をつけるのを躊躇う描写があった方がよかったと思います。足を入れかけてやめる、というような動作を加えないと視聴者にはすずめの気持ちが伝わらないと思いました。しかも、水たまりがあるおかげですずめも草太も水で全身が濡れてしまいます。その後にすずめの自宅に2人があがるシーンがありますので、びしょびしょのまま家に入った?と思わせてしまいます。初めての後ろ戸のシーンは、技術的に非常に難しいものを使用しているとのことでしたので、水にぬれた件は私はちょっともう一工夫してほしいと思いました。

二つ目は「キスで目覚める」です。すずめは旅館の娘に「眠っている彼氏にキスをしたら目が覚める」と言っています。これは、要石になったすずめの椅子にキスをしたときに、草太が元の姿に戻るというクライマックスのシーンの伏線です。キスで目覚めるというアイディアはとても良いのですが、すずめは最後のシーンまでに何度も椅子になった草太にキスをしています。その為、クライマックスのキスのシーンが軽いものに見えてしまうのです。そもそも、キスをしたら目覚めるという情報は、恋愛上手な同じ女子高生の軽い一言から発せられたものです。神話を土台にしている本作ならば、キスをすると目覚めるというところについて、もう少し重い伏線を貼ってほしかったと思います。

三つ目はダイジンを介抱する時に泣いているシーンが短すぎることです。すずめはこれまで敵だと思っていたダイジンが味方であったとクライマックスのシーンで知ります。そのダイジンが草太を要石から人間に戻すのに力尽きて、すずめが介抱します。その時に、すずめは涙を浮かべます。ダイジンに対する慈しみと憐れみを同時に表現しているシーンです。このシーンは一瞬で終り、すぐに最後のミミズとの対戦にうつります。そのため、すずめがダイジンに対して感じている感謝や「うちの子になる?」と言ったことを実現できなかった辛さが十分に伝わりません。これがダイジンに対する救いがないと言われる原因かも知れません。映画の総時間的に短くしなければならなかったのかもしれませんが、他のあまり重要でないシーンをカットしてでもここはもう少し長くした方がよかったと思います。例えば、東京の後ろ戸が開いた時、すずめは2回ミミズの上から落ちます。しかし、これは別に1回で良かったのではないかと思います。2回目をカットして、すずめとダイジンとの別れのシーンに費やしていればもっと愛情深い映画になったと思います。

〇最後に「すずめの戸締まり」に対する私の評価

この映画にはいろいろな評価があると思いますが、私としては20回も見てしまう大好きな映画であることからも、極めて高い評価をしています。だからこそ新海監督には「アニー賞」をぜひ受賞してほしいですし、それをとるに値する映画だと思います。新海監督の作品はすべて見ています。その中でも、自分の描きたいものを捨て、お客さんがみたいと思うものを描くというスタイルをとった本作に、相応の世界的評価があるように祈っています。


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