見出し画像

フジコ・ヘミングかマルタ・アルゲリッチか

日本が生んだスーパースター、フジコ・ヘミングが亡くなった。

日本のメディアが生んだ、いや、NHKが生んだと言うべきかもしれない。

ここにクラオタが100人いたとして、フジコとアルゲリッチとどちらのソロ・リサイタルに行きたいかと問われれば、100人ともアルゲリッチに手を挙げるだろう。

何しろアルゲリッチはソロ・リサイタルをやらないピアニストなのだ。それだけでもフジコとは有り難みが違う。

フジコ・ヘミングとはいったい何だったのか。

私には一種の虚像に思えてならない。

津川雅彦のモノマネを長年していた松村邦洋がお礼にハムを贈ったら、「松ちゃん!これでいいか?」と松村のモノマネに寄せてきたというエピソードがある。

フジコも本来の自分から、メディアが作り上げたフジコ・ヘミング像にだんだん寄せていったのではないだろうか。

「NHKスペシャル」は「情熱大陸」よりはるかに“虚像効果”が強い。佐村河内守しかりである。

フジコのファンはフジコしか聴かない人が多かったのではないだろうか。
フジコもポリーニもシフも聴く。そんな人はほとんどいなかったのでは?

そういう意味では、フジコファンは比較対象を持たず、盲信しやすい人たちだったと言えるかもしれない。

波乱万丈の人生。
強烈なキャラクター。
何か凄そうな雰囲気。

その三題噺が「孤高の天才」を生み出した。

フジコは楽壇や論壇から黙殺されていたがゆえ、批評の対象を免れていた。
その結果、孤高のイメージはいっそう高まった。

日本のローカルアーティストを世界一流の芸術家のごとく祭り上げたNHKの功罪は如何に。

明治神宮の砂利を「御利益がある」と言って地方で売って歩くのと似ていると言ったら言い過ぎだろうか。

フジコの最期を描いたドキュメンタリーのラストで、彼女は病で弱りきった自らの手でピアノの蓋を閉じた。

それはまさに「ピアニストとしての生涯を終えた」瞬間に重なって見えたが、ディレクターの得意げな顔も一緒に見えて、私は嫌な気分になった。

フジコをありがたがるのは勝手だとしても、チケット代がべらぼうに高いのは不可解だ。楽壇の評価に見合った額ではない。

「幻の鶏が産む金の卵」という触れ込みで、1杯1000円の卵かけご飯を売るようなもの。
実際には300円の卵の方が美味しかったりしても、世間の人にとって大事なのはイメージである。

世間を知る大切さ。
相場を知る大切さ。
本物と人気者は違う、ということだ。

フジコ・ヘミング現象はクラシック界に限定された話ではなく、日本社会の色濃い闇を浮き彫りにしているように私には思えるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?