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沖縄への想い・遺骨のない死者を弔う 


終戦記念日と沖縄戦終結の日
本年も終戦記念日がやってくる。先の大戦が終結した日の8月15日を終戦記念日として、全ての日本人が戦没者を追悼する日のことである。
それは国家的行事として、戦争の犠牲者をしのび、平和への想いを新たにする。政府の要人の挨拶の内容は定型的だという批判があるとしても、現在の日本の社会のあり方の原点が第二次世界大戦の反省に立つことを表していると云える。
当時沖縄は本土への攻撃を守る捨て石として軍部に利用され、多大の損害を被った。沖縄戦終結の日は終戦記念日より早く6月23日とされる。
沖縄の地は我々日本人にとって、昔も今も、特別な地域である。太平洋戦争末期に、本土の多くの人々が戦争に駆り出され、沖縄に住む一般の人々も巻き込んだ結果、大勢の人々が戦死した。現在は米軍基地が沖縄に集中し、日本の社会問題のひとつとなっている。
沖縄戦の死者数は米軍兵士も含めて20万人、そのうち日本軍人が9万人強、一般人が9万人強で、特に沖縄在住の一般人は4人に一人が犠牲になったという。
沖縄戦の終結は第32軍の牛島司令官の自決した6月23日とされ、沖縄慰霊の日とされたその日には毎年戦没者追悼式が行なわれる。

沖縄戦に駆り出された肉親
自分の祖父は本土の新聞記者であったが、兵士の一人として徴兵され、沖縄の戦地に赴き、そして6月20日に戦死した。戦後遺骨の代わりに1枚の紙切れとなって帰ってきたという。
沖縄のどこかで、今も眠り続けるその遺骨を、その息子は、そして自分は、これまで何故探しに行こうとしなかったのだろうか?探し当てることが不可能に近いことを無意識のうちに知っていたとしても、遺骨収集の行動を起こさなかったことは死者に対して罪になるだろうか? 
終戦後はまだ幼かった息子が成人して仕事を持ち、やがて家庭も持って一心に働いてきた。沖縄に関する重いニュースや話題などを目にしたはずだが、沖縄の地へ足を踏み入れることはなかった。沖縄の戦没者慰霊の日が毎年やってきたが、ある年、息子はそのことに気が付いて愕然としたという。もっと早い時期に父が戦死した沖縄へ行くべきではなかったか?

遺骨のない死者を弔う
肉親を偲ぶ拠り所は骨以外にはないのだろうか? 当時3歳であった息子は、戦争に赴いた父親の記憶が、かすかな父のイメージを除いては、ほとんどない。
骨が身近にない限り、死者を偲ぶことはできないのだろうか?故人に対する想いは、骨とは無関係のはずだ。死者を弔うのに遺骨が必要だとしたら、自分の死んだ肉親を弔うことができないことになる。
そんなはずはない。通常であれば、死者は火葬される。その残った骨の一部が遺骨として弔いの対象となり、残りの骨は合法的に処理される。これはおかしいではないか?火葬の結果残った骨全部を遺骨として弔うべきではないのか?何故選別した一部だけが「遺骨」なのか? 人々は自分も含めてこのことに目を瞑ったまま生きているような気がする。
息子は父の遺骨がないままそのことに思いを巡らせるが、結局は父を弔うスタンスが見出せないのだ。


摩文仁の丘
そんな複雑な想いを背負ったまま戦後数十年を経て家族を連れて沖縄の地を訪れた。
糸満市摩文仁の平和記念公園の平和の礎で、沖縄戦で亡くなった大勢の人々の中から父の名前を見出した。平和祈念資料館で、「沖縄戦への道」、「鉄の暴風」、「地獄の戦場」、「沖縄戦の証言」、「太平洋の要石」などの展示を見て、沖縄戦を追体験したような気になった。県別の記念碑をめぐり、戦後間もなく、散乱していた遺骨が住民の手によって収められたのが始まりという魂魄の搭にも立ち寄った。ひめゆりの搭も見た。
だが、息子は父の慰霊をした、という感覚はそれほど感じられなかった。観光地のように巡った所は、あまりにもきれいすぎたからかも知れない。これは、戦後78年という時の流れの中で、「鉄の暴風」による地獄のような戦場の跡が少しずつ今の姿に変貌し、復興していった結果だが、それとあいまって、戦争によって破壊された生活と環境、近しい人の悲惨な死、など、なまなましい戦争の爪痕の記憶が風化していくことと無関係ではあるまい。また、世代も交代し、戦争を次の世代へ語り継ぐことも簡単ではない。

沖縄全戦没者追悼式において一人の高校生が「平和の歌」を朗読した。そのなかで「私は過去から学び そして未来へと語り継いでいきたい おばあの涙を 沖縄の想いを」と述べている。
このニュースを見たとき、人々の想いは確実に次の世代にバトンタッチされるのだ、と安堵するのだった。

戦死した肉親を弔う
その後訪れた軍の地下トンネル壕は当時の様子が色濃く残っていた。階段を下り、指令室の小部屋などがある回廊を巡った。その中で、外部に通じる分岐点で「兵士たちはこの先の出口から戦闘に向かったが、その多くはここへ帰ってくることはなかった。」という説明文があった。
その場所には、当時悲壮な覚悟でここを通って出陣した兵士たちの想念が今もしみ込んでいた。・・・息子の嗚咽が止まらなかった。・・・兵士の中に父がいたのかどうかは分からないが、やっと父に出会えたような気がした、と語ってくれた。
それを聞いたとき、息子は父親の慰霊をすることが立派に出来たのだ、と思った。遺骨がなくても、死者を弔うことは可能なのだ。

平和への想い
家族全員で再び摩文仁の丘に立った。きれいに整備された平和記念公園は、とても戦場だったとは思えない。地獄のような野原がこのように変わったのだが、人々の平和を希求する想いがこの場所に込められている、と云えるのだろうか?
平和とは、平凡な毎日が繰り返されて日々が過ぎていく、あたりまえの生活を送ることなのだ。
 
「敵基地攻撃能力」に代表される軍事力の強化や、沖縄諸島の要塞化が進行中の日本の現状が、平和記念公園に込められた人々の平和への想いを抑え込んでいるのではなかろうか? 日本は平和とは反対の方向へ向かっているようだ。
平和への想いを戦争に向けてはいけない。人々の平和への想いを変えてはいけない。
ここに、ひとつだけ、絶対に変わらないものがあった。沖縄の海はどこまでも青く、深く、美しいのだった。
当時は米軍の戦艦で海が埋め尽くされたという。美しい沖縄の海を汚したのは我々人類なのだ。
人々の平和を希求する想いは、現在のこの海のように、いつまでも変わらないものであってほしいと思うのだった。


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