玄宗皇帝、春望の裏側。

唐の玄宗皇帝。中国史好きの人以外はあまり知らないだろうが、老いてから楊貴妃にぞっこんになり、安史の乱を引き起こして長安を逃げ出す時に部下に迫られて楊貴妃をくびり殺さざるを得なかった話ぐらいは知ってる人もいるかも知らない。唐朝第7代皇帝だ。



夜なべ話をする。



唐王朝は4代まではなんとなくつつがなく行った。ところがこの4代皇帝の奥さんがとんでもなかった。最初の皇后は王(ワン)皇后。王ってのは中国人にたくさんある苗字だ。ところがこの4代目、武という女にぞっこんになった。この武がえらい女で、後宮で次第に競争相手を退けて、ついには王皇后まで追い落とし、自分が皇后になった。



そこまでなら中国史に良くある話。



やがて4代皇帝(どうでもいい人だから名前は忘れた)は死んだ。そしたら武皇后は当たり前だけど長男を皇帝にした。ところがこの長男が生意気だというので、長男を58日で排して次男を皇帝にした。次男は長男がそういう目に遭ったので母親にビクビクしながら暮らしていたけど、結局母親、つまり武皇太后はこの次男も皇帝から追い出してしまって、なんと自分が皇帝になった。つまり李家の唐王朝を滅ぼして武家の周という国を建てた。周と言ったら歴代中国王朝にとって神聖な、古代王朝のお手本と美化された国だ。武はこの周に匹敵するから自分の王朝は周だと言って武則天と称した。中国史最初で最後、ただ一人の女性皇帝だ。



武則天はなんでこういう無茶苦茶がやれたかというと、政治の天才、いや鬼だった。皇帝なんぞというものは、大抵庶民がどうだろうが気に掛けない。中国でも毎年毎年あっちに飢饉が起こり、こっちにイナゴの害があり、疫病が起こり、いろいろあった。こういうのは普通皇帝自らがどうこうするものじゃないというのが中国の常識だったのだが、武則天は違った。そういう民の苦悩を全て適切に処理した。だから武則天が後宮でどんな残酷な真似、卑怯な手を使おうと、国は静まっていたそうだ。



そう。武則天は残酷だった。ある時、甥と姪がひそひそ話をした。あのおばさんは酷すぎる、やり過ぎだ。そうしたらそれはたちまち武則天の耳に入った。武則天はただちに二人とも殺してしまった。そういうことに掛けて、武則天は一切ためらわなかった。



ところが、武則天は政治の天才だから、宰相はちゃんとしたのを付けた。老いた武則天は若いピチピチの双子イケメンに入れ上げた。近くに置いて、眼に入れても痛くないほどかわいがった。双子はもちろんつけあがった。ろくな身分でもないのに、武則天がかわいがることを良いことに、好き勝手、乱暴狼藉を重ねたが、当然武則天は何も言わない。ところがある時、この二人の美男子を宰相が叱責した。当然双子は武則天に言いつけた。そうしたら、実の甥と姪をあっさり殺した武則天が、溺愛する若い二人を宰相に謝りにいかせた。つまり武則天は政治をきちんとすると言う点だけは、徹底していた。



結局武則天を追い詰めたのは老いだった。武家というのはろくな連中がおらず、武則天を笠に着て乱暴狼藉し放題な奴ばかりだったので、武則天が後継者を決められないまま、本人が寝たきりになってしまった。その時を宰相はじっと待っていた。寝たきりになったとみるや、宰相は宮廷に乗り込み、まず双子を切って捨てた。そして寝たきりの武則天の枕元に立って、あの二人は無礼のことがあり、切って捨てました。今や世は皆李家を慕っております。願わくば帝位をお返しください、と言った。そりゃ寝たきりの武則天はもはやどうしようもない。仕方なく、一度排した次男を皇太子にすることに同意して、死んだ。武則天が死ぬとこれが皇帝に返り咲いた。



ところがこの皇帝というのは、ともかく一生周りが何か言うのをただただ「はい、はい」と言って生き延びた人だった。兄が皇帝を58日で廃されて自分が皇帝になれと言われたら「はい。はい」。お前皇帝から退けと言われたら「はい、はい」。昔皇帝だったのに皇太子になれと言われたら「はい、はい」。また皇帝になれと言われたら「はい、はい」。一生をそれでまっとうした。



その「はい、はい」皇帝の奥さんが韋(い)と言う人だった。韋は武則天のスモールバージョンであった。武則天のやったことをみていたので、女はあそこまで出来るのか、丁度自分の夫は「はい、はい」皇帝だから、こいつを廃して今度は韋氏の王朝を建てようとした。



そこで立ち上がったのが若き日の玄宗である。政治を憂う仲間を集め、宮廷に乗り込み、韋皇后やその一味を一網打尽に切って捨てた。玄宗は李家だから、彼が皇帝に着いたことで久しぶりに唐王朝は正当な李家の王朝に戻ったわけだ。



玄宗の政治は精力的だった。律令(法制度)の整備をし、科挙を重んじて才能あるものが抜擢されるように仕組みを整えた。開元の治と呼ばれて玄宗は中興の祖となった。



その玄宗の悲劇は長生きしすぎたことだった。何飲んでたか知らんが色々秘薬を飲み、60近くなって、つまり今の私の歳ぐらいになって楊貴妃というべっぴんにぞっこんになった。その後は政治なんかほったらかし。毎日楊貴妃と良いことやってた。



丁度その折、玄宗が政治をほったらかしていた時に、北方遊牧民族が騒ぎだした。唐には節度使という職務があった。これは一種の監察で、地方の長官の政治を監督して廻る職務だった。ところが辺境が騒がしく、地方長官と軍の司令官と節度使が三つ巴というのはややこしくなった。それで辺境では、節度使が全部兼ねて良いと言うことにした。まあ、やばいことの始まりだ。政治を行う長官と、軍の将軍と、それらを感得するはずの節度使が一つになった、つまり全権を掌握した。



それでも一人が一箇所の節度使だったらまだ良かった。しかしここで安禄山が出てくる。安禄山は雑種のソグドだ。ソグドってのは行商の民で、そもそも何処の出身というものでない。行商民だから、自然にマルチリンガルになる。その安禄山が節度使になった。節度使になった安禄山は玄宗皇帝と楊貴妃の機嫌を取れるだけ取った。ある時宮廷にまかり出た安禄山に玄宗が、安、そのべんべんたる太鼓腹には、何が入っておるのだと聞いたら、彼は恭しく答えた。「ただ赤心のみ」。



赤心というのは忠誠心だが、もちろん彼の太鼓腹には別のものが入っていた。安禄山は遂に三省の節度使を兼ねた。三省の節度使が動かせる軍隊だけでもすごい武力だが、さらにマルチリンガルの安禄山は本来敵であるはずの遊牧民まで味方に着けた。何しろ通訳が要らないんだから強い。そこで彼は兵を挙げた。玄宗老ゆ。君側の奸、つまり楊貴妃を除くと。



三省の節度使の軍を配下に収めた上北方民族まで味方に付けた安禄山の前に、弛緩しきった唐軍はひとたまりも無かった。玄宗は長安を逃げ出し、四川に落ち延びた。しかし最初の宿で小休止した時、部隊は動こうとしない。その不埒な女を殺せというのだ。さもなければ皇帝も切ると。遂に玄宗は愛し抜いた楊貴妃を殺して良いと許さざるを得なかった。



安禄山らは一時長安を占領した。その時杜甫が詠った有名な詩がこれである。


「春望」


國破山河在
城春草木深
感時花濺淚
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金

白頭掻更短

渾欲不勝簪




その後四川に落ち延びた老玄宗の代わりに長男が立ち、事実上の皇帝として安史の乱に立ち向かった。安禄山は高度肥満で、糖尿病であったらしい。やがて気が狂い、周囲を皆殺しにし始めたので部下に殺された。結局玄宗の長男が唐を再興した。杜甫は一時安禄山の捕虜になったので「裏切ったのではないか?」と嫌疑を掛けられたが、「春望」を詠った詩人が国を裏切るはずがないという弁明が聞き入られて許された。



まあ、夜なべ話はこれでおしまい。この辺の中国史は、特に面白い場面の一つだ。















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