「ボルボの決断、私の決断」

ボルボは当初、トラックやバスを作る会社でした。その名残はかなり後まで残っていて、私が最初にボルボの車を買った当時、V70の初期型を買ったのですが、車検の時などに提供される代車がV850のような、ボルボ本来の車でした。V850の運転席に座ったとき「これってトラックだ」と感じたのは未だに覚えています。V850の頃まで、ボルボはトラックメーカーの発想で乗用車を作っていました。そのボルボが発想を一新して最初に作ったのがV70でした。それは、アメリカのフォードと提携して出来た車でした。


私が初めて買ったV70は長野オリンピック仕様にして売ったんだが売れ乗ったから値下げしますという代物でした。V70としては初期型だったので、しょっちゅう初期故障が起きました。


その後、ボルボは親会社を乗り換えました。ボルボ単体では世界の自動車市場で生き残れないからフォードの傘下に入ったのだが、フォードはボルボに「テンプレートを共通化しろ」と要求したのです。車のテンプレートというのは、要するに車としての基本的な設計を同じにしろ、と言うことです。見た目はフォードと違ってもいいが、車台やエンジンなど、主要部分はフォードと同じにしろ、と言うわけです。 ボルボにとって、それは我慢がならなかったのです。仮にもボルボは欧州ではいっぱしのメーカーでした。それがフォードと車台を同じにしろというのは、要するにアメリカの大衆車になれという事です。 こんな親会社には、付き合えない。 そう判断して、子会社のボルボが親会社を替えたのです。


ボルボが選んだのが、中国の新興自動車会社、浙江吉利控股集団(ジーリーホールディングス)でした。親会社が子会社を売っぱらうというのは良くあることですが、このときは子会社ボルボが親会社をすげ替えたのです。 浙江吉利控股集団(ジーリーホールディングス)は何故自分が親会社として選ばれたのか、よく分かっていました。だから浙江吉利控股集団の会長はボルボに対し、「中国市場で売れるような大型車を作ってくれ」とだけ言いました。後は任せたというわけです。 それでボルボはフォードのような大衆車メーカーの、意に沿わぬ要求を脱して、自由に自分たちの車を作り、中国資本を通じて世界に売れるようになりました。当然、ある程度の忖度はしました。それまで実に地味であったボルボのフロントグリルは、如何にも中国人が喜びそうな、京劇の舞台俳優のような勇ましい面つきになりました。BMWやアウディが中国市場を意識してやったのと同じ事です。しかし吉利(チーリー)の会長は、ボルボの基本設計は任せると言ったのです。


ボルボの売りは、安全です。ボルボの安全性を実現するには、フォードとテンプレートを同じにしてしまっては実現出来ませんでした。吉利(チーリー)の会長は、自社の車の安全度がボルボに及ばないことは分かっていましたから、自分の資本が及ぶ中で、ボルボは安全性に優れたブランドとして世界に売ると決めました。だから吉利(チーリー)の会長は、車体は大きくして貰いたいが、車台はボルボの安全設計の思想のままに作ってくれ、と言ったのです。 ボルボにとっては願っても無い話でした。


スウェーデンの一自動車メーカーが世界市場で一定の地位を占めるのは困難だ、どうしても大国の資本と提携しなくてはならない,しかしフォードは要するに安くたくさん売れる車を作れと要求してきたが、それはボルボとしては嫌だ。ところが中国の吉利の会長は中国での販売を全面的に支援し、かつ「中国で人気が出る大型の車を作ってくれ」と言っただけで、ボルボの誇りである安全設計は尊重してくれた。だからボルボは親会社をフォードから吉利に乗り換えたのです。


実は私自身が、かつて同じ経験をしました。私は東北大学に漢方内科が出来たときに、事実上その発足を焚きつけた人間です。しかし当初漢方内科は自立出来ず、親講座である老年内科に所属する寄付講座として発足しました。ところが老年内科の教授が交代すると言うときに、東北大学では老年内科の扱いを巡って揉め事が起きました。簡単に言うと、老年内科もその付属の漢方内科も、儲からないのです。それはどちらも外来中心の診療科だったからです。その頃から国は「大病院は入院中心、外来診療は開業医に」という利益誘導をしていて、大学病院の診療科なのに外来中心の老年内科、漢方内科、総合診療部などは制度的に不採算部門になりました。それで東北大は老年内科を初代教授の退官と共に付属研究所に移したのです。不採算部門のリストラです。


その時、私は漢方内科のトップでした。立場は准教授でしたが、教授は老年内科の教授が兼任していたのですから、事実上漢方内科は私がトップだったのです。 散々悩みました。そもそも漢方内科が東北大学に出来たのは、老年内科佐々木教授のご尽力があってこそでした。しかしその佐々木教授の退官と共に東北大は老年内科を付属研究所に島流しにしようとしている。その老年内科に漢方内科としてはついていくべきか否か。


島流しになった老年内科の二代目教授は「ついてくればお前を教授にする」と言いました。しかし当時漢方内科にいた二人の大学院生は、二人揃って「付属研究所に移るのであれば私たちは退学する」と言ったのです。


板挟みです。


部下のいない教授になるか、教授の道を諦めて漢方内科を東北大の本体に残すか。


結局、私は後者を選びました。自分が教授にならなくてもよい、漢方内科に未来を残せば、いずれ誰かが復興してくれるだろう。 そういう経緯で、私は教授を諦め、医学部本体に漢方内科を残すことにしました。当然私は教授にはなれなかったのですが、漢方内科という診療科は東北大学附属病院の常設の診療科になり、その時私を突き上げた大学院生の一人高山真先生が今は特命教授として漢方内科を引っ張ってくれています。


ボルボが親会社をフォードから無名の浙江吉利控股集団に替えたとき、おそらく誰かが・・・複数の誰かが・・・私と同じ決断をし、同じ運命を受け入れたのだろうと思います。それは、東北大学漢方内科にとってもボルボにとっても正解でした。だから私はボルボに一種の愛着を持っているのです。

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