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鬼滅の刃劇場版を見る前に…

こぐれや視点のまえがき

突然ですが皆さんは「天狗」という存在が実在すると思いますか?

現代の人達なら大多数の方が「いない」と答えるでしょう。それは、この鬼滅の刃を含め様々な漫画やアニメにも反映されてると思っております。

鬼滅の刃では、主人公達の敵対する存在として「鬼」というものが登場します。彼らは個々に特殊な能力を使って主人公達を苦しめながらも、倒されていきます。

そして、主人公の師匠として【天狗面】をつけた「鱗滝左近次」というキャラが居ます。ここで疑問…、なぜ鬼という存在はいるのに【天狗】という存在ではなく【天狗のお面を着けた人】として登場させたのか?漫画というストーリー上そんなぶっ飛んだ設定があってもいいはずだ。

それは、その時代の人達が「そんな存在などいる訳がない」と思っているからだと自分は考察します。鬼滅の刃の時代設定は、大正。主人公一家は山奥に住み、都会(東京・浅草)は大正浪漫の雰囲気漂う表現がされている。浅草では人々は楽しそうに街を歩いている、しかし、そんな中で主人公は初めて敵のボスと対峙する。不穏な気配を感じた主人公がボスを追いかけると危険を察知したボスは偶然すれ違った家族の父親を「鬼」へと変化させてしまった。当然、妻や子供は突然の出来事にパニックになっているのだが、彼女ら「鬼」という存在を知らない為に何が起こっているのかわからないのだ。それもそのはず、ボスを含め強い「鬼」達は程度の差こそあれ普通の人々に溶け込んでいるからだ。

もちろん、作品中では低級の「鬼」は皆が想像するビジュアルをしているが、基本神隠しの様に人を食べるため作品中の一般人からの認知率も低い、同時に「鬼」を狩る「鬼殺隊」の存在もあまり知られていない。

この時点で、どれだけ人々の中に非凡な存在などいないという気持ちがあるのかが分かると思う。当然、「鱗滝左近次」が天狗ではなく天狗面をつけた人として登場してしまうのもうなずける。

信仰の今と昔

私が携わっている「迦葉山弥勒寺」では、約500年前に「天狗の生まれ変わり」と名乗る非凡な高僧が現れたという伝説が残っている。その伝説を知ってか知らずか数々の戦国大名がその力にあやかろうと祈願に来たと聞きます。当時の人々は冗談抜きで本気で、神の存在を信じていたが故に、天狗の生まれ変わりという存在が現れたと思っている。当時の戦国大名は織田信長を除き本気で神の祟りを恐れて、寺や神社を攻撃したりはしなかったそうです。

イエスキリストにしても当時の民が救いを求め救世主を願ったから現れたとも考えられる。

「天狗の生まれ変わり」が現れてから500年の間に神や非凡な者に対する信仰心の薄れは否めない。それは先程も述べた様々な作品にも現れている。

分かりやすい作品として「ゲゲゲの鬼太郎」野沢雅子さんが鬼太郎を演じてた頃を知ってる人に質問です。

Q、2020年現在、鬼太郎にSOSを出す際はどうすればいいでしょうか?

A、LINEで妖怪ポストのアカウントに依頼

こんなにも時代は変わっているのには、自分もびっくりしました。作品中で、猫娘は妖怪という存在が薄れてほとんどの依頼が妖怪とは無関係と愚痴をこぼす程で2019年に放送されたシーズンも妖怪という存在が薄れて現代のブラックな一面を妖怪で風刺するという作風でした。

妖怪繋がりで「妖怪ウォッチ」は、人々は妖怪というものは見えずウォッチをつけた少年だけが妖怪が見え、妖怪の起こす「仕業」に対処していく。

「地獄少女」という作品は、インターネットを通じて妖怪と契約して勧善懲悪をしていくというもの。

時代というか、近代化するにつれて信仰心の薄れが漫画やアニメに表れていると思いました。

想像の成分も多いですが、神仏を扱う仕事をしているとこんなに違った視点で考えることができるのかと驚いております。そして、これから神様の依り代を広めていく者として改めて考えされられる機会として今回の劇場版鬼滅の刃を楽しみたいと思います。

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