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生誕の瞬間からうちの娘は我が強かったというだけの話

こんばんは、こぐままです🌙
もうすく、わが娘こぐまさんの2歳の誕生日です。
今ではTwitterで
気の強いaggressive
心疾患Heart disease
女児Girl
会Association
AHGA 会長として名をはせるようになったわがまま娘です←
会長は、生誕のその瞬間から実は我が強かったんだよ、というnoteです(笑)
それ以上でもそれ以下でもない(壮大なネタバレ)🤣

①生まれてくるまでのこと

自己紹介のnoteでも簡単につづりましたが、そもそも生きて生まれてこれるかどうかということがかなりあやしかった妊娠中期。
「安定期ってなんだっけ?」と不安定なままその時期を過ごしました…💦

妊娠14週に大量出血し、わけがわからないまますぐに受診、そこで胎児水腫の可能性を指摘され、すぐに今もお世話になる大学病院に転院、妊娠17週で羊水検査。
ちょうどクリスマスぐらいだったなぁ🎄
クリスマスに何してんだろう…ってお腹にぶっとくて長い針を刺されながら思った記憶(遠い目)
この羊水検査につきあってくれた看護師さんがすごく明るい人で結構深刻な検査しているにもかかわらず、こちらも明るい気分で過ごすことができた。いまでもめちゃくちゃ感謝している。
ちなみに、この後もご縁あって自分の担当看護師になり、そしてこぐまさんを取り上げてくれた。取り上げてくれたのが彼女で本当によかった。本当にありがとうございます、Mさん!!

このころは仕事をしながら「こぐまちゃんは、生きてるのかな」しか考えられなくて、仕事をして、楽器を吹いているときだけが何も考えずにいられた。しんどかったなぁ。

そして妊娠20週(正確には実は19週6日)にあたる1月半ば、ターナー症候群という染色体異常と、先天性心疾患を指摘された。
「どうする?妊娠を継続する?」
この質問には即答した。「うん」って。全然悩まなかった。だってこの子、生きているもの。
14週の段階で「生きて生まれてこれる確率は5%ぐらい」って言われて、生きているもの。
20週の段階で「生存率は30%ぐらい」って言われて、生存率上がっているんだもの。
何より、やっと私たち夫婦のところに来てくれたんだもの。
**
途中で悲しい想いをするかもしれない、それでも私達はこの子と最後まで一緒にいたい。
**
そういうことで妊娠継続を決めてからは一気に気が楽になり、2月ぐらいにはやっと友だちに「妊娠してるねん」って言えるようになった。

ここにはいろんな判断があると思う。あくまで私たちの場合です。
前もどこかで書いたけど、「正解はない」。強いて言うなら「パートナーと話し合って二人で決めた結果」が正解だと、個人的には感じてます。

②で、産休に入って

2月ぐらいに吹っ切れて、3月4月と仕事に明け暮れつつその間にも大学病院まで妊婦健診と胎児エコーに通った。
3月ぐらいには「この子は大丈夫な気がする」と漠然としたよくわからない安心感があった。本当によくわからない、根拠は全くない←

4月下旬になって産休に入った。出産予定日は5月末だったからギリギリまで働いてた(笑)

5月GW、夫婦でゆっくりすごす最後の休暇だし旅行に行くか!とめちゃくちゃ近場の宿をとった🧳
ちょうど妊婦健診が朝入ってて、その足で旅行に行こう🚘ってそんなスケジュールだったんだけどここでまた事件が起こるわけで。

私の血圧がめちゃくちゃ高い。🤔

140??うん??見たことないぞ。
いや、嘘ついた。見たことはある。確か高血圧のばあちゃんがこんな数字だった。
いやいや私低血圧で朝起きれないのを言い訳に30うん年間生きてるんでっせ、ということで診察室で発したのが
「先生この血圧計壊れてますよ」というあほ極まりないセリフだった。

担当のM先生はものすごく冷静に
壊れているのはあなたの体です。尿たんぱくもどえらいことになってる。うん、これは妊娠高血圧症候群ですね。」
と一息でいった。そして「今から入院ね」と。

「今から旅行行くんですけど( ˙ㅿ˙ )ポカーン」(まったく状況が理解できていないこぐまま)
M先生「死にたいの?」(実際にはもっとちゃんと説明してくれたけど眼光がそういってた)

はいおわったー!夫婦でゆっくり過ごすGWの旅散ったー!! \(^o^)/

ということでとても天気の良かった2018年GW、初日からこけた私は管理入院と相成りました。
そして産婦人科のM先生、その節は大変失礼いたしました…。

③管理入院にて

ということで旅行をキャンセルし、実家の母に連絡し入院することを伝えた。
ちなみにそのときに実家の母は「こぐまちゃんは!?こぐまちゃんは大丈夫なの!?」とひとしきり騒ぎ、「大丈夫じゃないのは私の体でしてこぐまは元気にしております」とわかると
「あ、なんや!じゃ、いいや!がんばってね!^^」と非情にも終話するということをし、たびたびネタにされている。
ちなみに母の名誉のため言っておくと母はその足で大阪の病院まで来てくれた。母の顔を見て安心して泣いた。

ぽーいと放り込まれたのはMFICU。なんか仰々しい名前である…。妊娠高血圧症候群の怖さがいまいちわかってなかった過去の私は「そんなに大ごとなのかしら」と思っていた。
いやだって自覚症状全くなかったんだもの!足が象さんみたいになってる🐘ぐらいで頭痛もめまいも全くなかったの。
あと、自分の体力への過信が多分すごかった←

ちなみにMFICUは分娩室(LDRだった)の目の前の部屋。
昼夜問わず妊婦さんが陣痛に苦しむ叫び声が聞こえ、初産の私、超ビビる。
結構マジでビビる。超怖い:( ;´꒳`;):
ちなみに後で痛感する。叫び声を上げられるだけの元気があって素晴らしいと。

こぐまさんは妊娠37週、正産期を迎える5月10日に誘発分娩をしようということになった。

④あてくち、自分の誕生日ぐらい自分で決めましてよ。

入院中は暇を極めてた。なんたって動けない。一応毎日の日課としてお腹のこぐまさんに読み聞かせをしにデイルームに出かけるぐらいが関の山。あとはベットの上。
5月9日の夜に準備をするというので、5月8日の夜の読み聞かせをしている時にふと
「こぐまちゃん、明後日やっと会えるね。楽に生んであげたいから、もう降りる準備しておいてね」
と声をかけたのだ。今でも覚えている、おばけのバーバパパを読み終えた後だった。

異変に気が付いたのは、その夜中。5月9日の1時半ごろだった。
「生理痛かな」
そんな軽い痛みが下腹部を襲った。そして二度寝しかけ…
「いやいやいやおかしいやろ!!」というセルフ突っ込みで起きた。
これはマジ。隣のベッドの人ごめんなさい。
すぐにナースコールをし、診察室に連れてこられた際に破水した。

2時18分(これは何でこんな具体的に覚えているかというと自分の誕生日とたまたま同じ数字だったからだ)、クマこさんに電話をするも出ず(なんたってまだ生まれると思ってなかったもので)、たまたま家のソファーを粗大ゴミに出すということで来ていた実家の母に電話した。

クマこさんは寝て~30分もしていないその足で車を運転し、「今までで一番事故るんじゃないか」と思いながらもすぐに来てくれた。
いつ生まれても大丈夫なようにLDRで待機。
バースプランとかそういうのは全くないところだったので、「生まれた瞬間に第九の4楽章のどっぺるフーガを流す」というのは夢のまた夢になってしまった、そんなことをしゃべりながら過ごしていたが、時がたつにつれ無言になる私。
陣痛を、なめてた…正直めちゃくちゃ痛かった。次の陣痛が来るのがわかって「怖い」とないた。後半は声も上げられずに椅子にしがみついていた。

夕方までかかるだろうと言われて「え、これあと10時間以上耐えるの?」と絶望的だったが、朝になって「あれ?めっちゃお産進んでる」と言われたところからスピード出産…。
スピード出産過ぎて下から「誰が取り上げるの?!」「小児科の先生呼んできて!」といろんな声が聞こえ、そして
5月9日 9時2分 2000g 40.5㎝の こぐまさんが爆誕しました。

すごく、すごくか細く、そして高い産声が「ニャー」って聞こえて一瞬自分が生んだのは果たして猫であったかと思うぐらいだったけど、すぐに処置をされて20分後ぐらいに自分のところに運ばれてきたこぐまさんは、まぎれもなく生きて出てきたわが子で…

「生きて、であえたね。ありがとう。おめでとう」

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⑤あれから2年

カンガルーケア的なものをさせてもらってから即隣室のNICUに搬送されたこぐまさん。とてつもない疲労感の中で毎日搾乳し、NICUに通った日々。
一回目の手術、付き添い入院、在宅酸素の手配、大地震、一か月後検診、退院…

思い返すだけでも怒涛の産前産後だった。でもとても大切な時間だった。
そこでお世話になった看護師さん、お医者様、今でも関係が続いている。本当にありがたいことである。

3回の手術をし、根治術は現状限りなく厳しいと言われている娘。
発達もゆっくりだし、ずっと投薬と医療ケアは必要だろう。

それでもこうやって振り返って思えばなんと強い子だろう。
今生きてくれていることのなんと尊いことだろう。

ちなみに、「この子は絶対に自分で誕生日を決めたかったんだ」、家族全員そう思っている。

いつも見てくださってありがとうございます!サポートいただいたらこぐまさんの絵本やお出かけ費用にさせてもらいます!!在宅酸素でたくさんお出かけ、病児でも楽しく暮らすをモットーに頑張ります(^^♪