人を好きになることが怖かったあの頃

こんばんは。ざらあしです。

noteでは漫画やイラストしか掲載しておらず、noteなのにノートっぽく文章を載せたことが無かったのですが、なんだか書きたい気分だったので書いてみます。ほんとにとりとめもなく。


人を好きになると、どんな気分になりますか。

恋愛だけではなく、友人や職場の先輩、家族、ペットのことなど。誰に対しても、「好き」という気持ちは抱きますよね。

私は、人を好きになることが怖いです。

なぜなら、一度人を好きになってしまうと、そこから色んな雑念が生まれるからです。

人を好きになると、「この人からは嫌われたくない」とか、「嫌われたらどうしよう」という気持ちがまず生まれます。

運よくその人からも自分を好きだと思ってもらえて、楽しい日々を過ごせたとしても。

今度は「この人がいなくなってしまったらどうしよう」とか、「ある日突然事故に遭って会えなくなってしまったらどうしよう」という恐怖が生まれます。

そして、もっと時間が経って仲が深まってきたら。

「自分がこの人を傷つけてしまったらどうしよう」

という恐ろしさに付き纏われます。

不幸体質

どうしても不幸になりたいのか、どんなに幸せな状況であっても、常に「不安」を抱えているのです。幸せである今の状況を、あたかも「死亡フラグ」のように捉えてしまう節があるのです。

それは本当に意味のない不安。恐怖。

幸せであることが怖いという病。


幼い頃から、自分が幸せになりそうだった時こそ崖から誰かに押されて落とされるように、転落したことが多くあり。

そしてその崖の高さこそ、落ちる瞬間こそ、恐ろしいものであったことをよく覚えていて、その高さが身体に染みついているのです。

崖が高くなければ、死なずにすんだ。

あの「落ちる怖さ」を二度と味わいたくないという一心で、いつしか私は幸せという高い丘を目指さなくなりました。

幸せを手放しで喜べない

自分が幸せを目指さなくても、ひょんなことで手に入る幸せもあったりして。

それが正当な幸福であったとしても、まるで棚からボタモチのように「本当は自分は得るべきじゃないモノ」だとわざと認識し直し、崖の高さを調節するのです。

崖の高さが5mくらいなら、何とか傷は浅いかな、とか。
自分なんて幸せになっちゃいけないのだから、これ以上は得ちゃいけない、とか。

自分が傷付かないように幸せの高さを調節し、その幸せを無邪気にくれる人をわざと遠ざける。どうせ、追々、この人はきっと離れていく、そう自分で決めつけて、恐怖から逃げようとする。

人を好きになることが怖い。


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考えすぎだし、この考えは全く良いものじゃないと今は理解できています。

でもたまに、この病がぶり返すときがあります。

彼氏が私のマンションから帰るとき、交通事故に遭ってこのまま会えなくなるんじゃないかとか、駅でもっと良い人と運命的な出会いを果たすんじゃないだろうか、とか。

とりとめもなく、嫌な想像が浮かんできて、ひとり自室でわんわん泣いてしまったり。

こういうの完全にやばい女だなと思うので治したいんですが、完全には治りきっていないんだなぁと思ったり。

大分、マシにはなってきたんですけどね。
うまくいかない時もあるものですね。

大切な人を傷つける恐怖

あるとき、自分がそういう不安を抱えている、ということを、正直に彼氏に伝えたことがあります。

重い女だということがバレて嫌われたなら、私は一人になって幸せを失いますが、同時に付随するこの恐怖からも解放されるからです。

楽になりたいと思ったのです。
傷つきたくなくて、幸せの高さを調節しようとしたんですね。

案の定、彼氏には怒られました。信用してくれていないのか、とも言われ、彼を傷つけてしまいました。

私は自身を守ろうとして、大切な人を傷つけました。そうまでしたにも関わらず、結果、目当てである幸せの調節は全くうまくいきませんでした。


人を好きになる覚悟

人を好きになると、ある日突然その人を失う覚悟もしなくてはいけません。

この覚悟というものは、とてもエネルギーが必要です。

しかも、ずっと持ち続けていないといけない。
簡単に手放していいものではないのです。

この「大切な人を失う覚悟」が重すぎるから、ずっと持っていると苦しいから、それなら私は幸せを放棄する。昔はこんな考えをしていた訳です。

でも、覚悟をしっかり握って持つようになると、みるみる自分の腕の力が、大地を踏みしめる脚の力が強くなってきたのです。


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その人が消えても去っても、自分が好きであればそれでいい。
もっと言えば、相手が幸せであることを第一に考えていればいい。

その人にとって、私と一緒にいることが「幸せ」なのだとしたら、その人を幸せにするために私は存在していればいい。

その人が幸せそうに笑っていたら、何か知らないけど私も幸せ。

もうこれだけで良いのでは、と感じ始めた訳です。


そして、自分がその人を大切に思うなら、逃げずにしっかり、重い覚悟を持ち続けようと決めた訳です。

「おもし」を持っている訳ですから、幸せの崖から落ちる時は、「おもし」を持っていなかった時より、はるかに悲惨でしょうね。

それでも覚悟という「おもし」は持ち続けようと。

落ちても良いと思える位、相手を幸せにしようと。

あふれんばかりに幸せをくれる人を、どうにかして幸せにしてあげたいなぁと。

そんなことを、とりとめもな~~~く考えた夜でした。


多分、崖から落ちたとしても、今の私ならまた登って会いに行くだろうなぁと思います。


おわり。





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