第三章 道徳形而上学から純粋実践理性批判への移り行き 140-177頁

自由の概念は意志の自律を解明する鍵である

 意志は有限的な理性的存在者に属する一種の原因性であり〔自由〕はこの種の原因性、すなわちこれらの存在者を外的に規定する原因(自然法則)に関わりなく作用し得るという特性である。

 それだから意志の自由が前提されれば、自由の概念を分析するだけで、そこから道徳性がその原理ともども出てくることになる。しかし道徳性の原理は、「絶対に善なる意志はその意志の格律が普遍的法則と見なされるところの自分自身を常に自らの内に含んでいる」という綜合的命題である。

 ここで「絶対に善なる意志」という概念をいくら分析してみたところで、その格律のもつ特性は決して見出されない。

 このような綜合的命題は、二つの認識が双方を含む第三の認識と結びつけられることによってのみ可能である。

 かかる第三の認識を与えるのが〔自由〕の積極的概念であるが、しかしこの第三のものは物理的原因の場合と異なり、感性界の性質を帯びることはできない。

 我々はこの第三のものの理念をアプリオリにもっているが、しかし我々はそれがなんであるかをここではまだ示すわけにいかない。

 また自由の概念を実践理性から演繹することや、この演繹と共に定言的命法の可能を説明することも、こけではまだその段階に立ち到っていない。これらのことを成就するには、まだ多少の準備を必要とするのである。


自由はすべての理性的存在者の意志の特性として前提されねばならない

 我々は自由を、理性的存在者の活動に属するものとして証明せねばならない。そこで私はこう言おう、ー自由の理念のもとでしか行為し得ないような存在者は、まさにそのことの故に実践的見地においては実際に自由である。

 自由と不可分離的に結びついている法則がかかる存在者に妥当するのは、かたかも彼の意志がそれ自体として自由である言明されているかのようである。

 そこで私はこう主張する、ーおよそ意志を有する限りの理性的存在者は自由の理念のもとでのみ行為するのである。

 理性的存在者の意志は自由の理念のもとでのみ彼自身の意志であり得る。


道徳性の諸理念に付帯する関心について

 我々は道徳性の明確な概念をけっきょく自由の理念に返したが、ここに一種の循環論証が現れて、我々がこれから抜け出ることはできそうもないということを素直に告白してせざるを得ない。

 我々が自由の理念を根底においたのは道徳的法則のためであったが、すると道徳的法則に対しその根拠を示すことが不可能になり、そこで差し当たり道徳的法則を原理(自由)を欲求するものとして想定した。すると〔意志の自由〕と〔意志が自らに道徳的法則を与える〕こと(両者が互いに交換概念をなす)の論理展開には不完全性がある。

 しかし我々には循環論証から抜け出すための一つの方策が残されている。すなわち、ーもし我々が自由によって自分自身をアプリオリに作用する原因と考えるなら、我が自分自身を行為によって生じた結果と見なす場合とは異なる立場がとれるのではなかろうか、という問題を機究明してみることである。

 ところで次のような見解に達するには、極く普通の悟性〔常識〕が「感じ」と呼ぶところのものによって、なんら考察を必要としない。すなわち、ー我々に現れるようなすべての表象が、我々に対象を認識させるのは、これらの対象が我々を触発するにほかならないが、しかしその場合にこれらの対象自体がどのようなものであるかは、我々には知られない。従ってこの種の表象に関しては、たとえ悟性がいかに厳密な注意を払い判明ならしめようとしても、我々はこれによって現象の認識に達し得るだけであって、決して物自体を認識し得るものでない。

 このような区別がいったん立てられると、当然の結果として、現象の背後に何か別の或るもの、すなわち物自体のあることを認容し想定せざるを得ない。しかし我々が知り得るはこれらの物自体が我々を触発する仕方だけである。我々は物自体にこれ以上接近できるわけではないし、また物自体がなんであるかを知り得るものではない。

 それにしてもこのことは感性界と可想界との間のあらましの区別を示すに違いない。人間が知り得ることは、自らの本性の現れであるところの現象と、自らの意識が物自体により触発せられる仕方によって得られるものであることは言うまでもない。それにも拘らず人間は現象から合成されたところの性質が自らの性質であるということだけでは満足できず、この性質を越えてその根底に存する何か別の或るものを想定せずにはいられないのである。

 それだから人間は知覚と感覚とに関しては感性界に属するが、しかし純粋に能動的と思われるもの(感官を触発せずに直接意識に達するもの)に関しては悟性界(可想界)に属するものであることを認めざるを得ない。だが人間は、可想界についてはそれ以上のことを知らないのである。

 反省的な人ならば、自分に対して現れる限りの一切の物について必ずこのような結論を下すに違いない。また極く普通の常識でも、恐らくこの結論に達するであろう。

 常識は感官の対象の背後にやはり何か我々に見えないもの、それ自体だけではたらくものを思い設けている。ところが常識は、この見えないものをすぐにまた感性化(直観の対象にしようとするので)このものをまたしても損なってしまい、そしてこういうことをするから常識は少しも賢くならないのである。

 ところが人間は、自分自身が悟性とは異なる一種の能力、理性をもっていることを知っている。理性は理念と呼ばれる概念によって純粋な自発性を顕示し、感性が悟性に供給する一切のものを遥かに超出するのである。さらに理性は感性界と悟性界とを区別し、こうすることによって悟性そのものの認識能力に制限を指示し、理性の最も重要な仕事がここにあることを証示するのである。

 このようなわけで理性的存在者は叡智者としては自分自身を感性界に属するものとしてではなく、悟性界に属するものと見なさざるを得ない。理性的存在者は二つの立場をもっていて、それぞれの立場から自分自身を観察することができるのである。それだから理性的存在者は、ー①感性界に属する限りでは自然法則に従っている(他律)②可想界に属するものとしては理性に根拠をもつような法則に服従している。

 人間は理性的存在者、すなわち可想界に属する存在者としては、彼自身の意志の原因性を、けっきょくは自由の理念のもとでしか考えることができない。

 ところで自律の概念は自由の概念と不可分離的に結びついているし、また道徳的性の原理は自律の概念とこれまた不可分離敵に結びついている。そして道徳性の原理が、この理念において理性的存在者のすべての行為の根拠に置かれているのは、あたかも自然法則がすべての経験の根拠に存するのとまったく同じである。

 さきに我々は自由から自律を推論し、更に自律から道徳的法則を推進した。その際この推論に循環論証が潜んでいるかのような懸念を懐いたが、今やこの懸念はすっかり除かれた。

 すなわち、ー我々が自分自身を自由であると考える場合には、我々は悟性界の成員としてこの世界に身を置き、意志の自由を、それから結果するところの道徳性と共に認識する。また我々が自分自身を義務に従うものと考える場合には、我々は自分自身を感性界に属してはいるが、しかしまた同時に悟性界にも属するものと見なしている、ということである。


定言的命法はどうして可能か

 理性的存在者は叡智者としては悟性界に属する作用原因としての彼の原因性を意志と呼ぶ。しかしまた他面では、この同じ理性的存在者は自分が感性界の一員であることを認めており、感性界での彼の行為は上記の原因性(意志による現象)にすぎず、かかる行為がどうして可能であるかということは、我々に知られないこの原因性からは理解され得ない云々…

 それだから私は感性界に属する存在者であるにせよ、他方では叡智者として悟性界の法則に従うものであること、自由の理念においてこの法則を含むところの理性に従い、意志の自律に従うものであることを知るであろう。こういうわけで悟性界の法則は私にとって命法と見なされ、またこの原理に一致する行為は義務と見なされねばならないのである。

 それだから定言的命法は、ー自由の理念が私を可想界の成員たらしめることによって可能となる。


すべての実践哲学の究極の限界について

 実践理性批判に省略


結び

 理性を自然に関して思弁的に使用すると、世界にはなんらかの最高原因がなければならないという絶対的必然性に到達する。また理性を自由に関して実践的に使用しても、理性的存在者の行為を規定する法則の絶対的必然性に到達する。

 理性の満足は先へ先へと延ばされ、無条件的に必然的なものを求めて止まないが、この無条件的に必然的なものを自分に理解させるための手段を欠いても、なおもこのものを想定してせざるを得ない。

 そこで理性は、このような前提(無条件的に必然的なもの)と折り合えるような概念を発見できれば、それでじゃうぶん幸せなのである。

 ※カントはこの章にあげられる命題を後に『実践理性批判』で究明する。

 おわり

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