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『Provoke』清算

写真家による既存の美学や価値観、整序された制度に対する切り込みを目指した『Provoke』の活動を通じて得たものは、この時代の難攻不落構造の発見だった。
世界と私との直接的な出遇いから生じた技術的な〈アレ・ブレ・ボケ〉はまたたくまにファッションに変形され、『Provoke』がもっていた反抗的な姿勢は「反抗的な気分」として寛容に受け入れ、そのことによって逆に『Provoke』の反抗精神を骨ぬきにした。

 「国鉄の馬鹿げた観光キャンペーンDiscover Japanが大々的にくりひろげられた当初、ある友人が冗談まじりに 『Provoke』 もたいしたもんだね、国鉄までブレてるよ、と言ったことがある。冗談ではない、それはむしろ逆の証左なのだ。彼らはあらゆるものを骨ぬきにし、しかもその形だけは残すのだ。彼らが認めたその瞬間から、ぼくら自身が腐蝕しはじめるのだ。結果としての〈アレ・ブレ・ボケ〉はその時からぼくらの術に変わったのだ。多分ぼくは二度と写真による同人誌などには参加しないだろう。そうすることによって生じるある種の自己満足などはしょせんドラスティックな現実からの逃亡しか意味しないだろう。今厳然と存在するマス・メディアの制度的な視覚をどこからどのようにして蚕食し始めるか、それがわれわれに与えられた具体的かつ直接的なテーマなのだ」

豊かな大衆社会の中で芸術はファッション化され、商品化されていくという構造から逃れることができない。大衆社会に対する苛立ちはデュシャンに便器を美術館へ運ばせたが、既製品オブジェの非個性的な商品を逆手に模写した泉はそのままポップアートに昇華され、ポストモダニズムは近代の二元論を放棄し、カウンターカルチャーは逃走し、人為的な解体を推し進めて時に個人を解体したり歴史に復讐したり、匿名の作品の中にバンクシーは埋没し(その絶望的な試みは無世界性しか物語らない)内容が形式を規定するのではなく形式が内容を規定し、スキャンダルを利用しながら関心を引きつけるユーチューバーよろしく、芸術はムーブメントと無縁ではいられない。目に入れたくない芸術もどきの芸術ばかりの2024春、しかし1970年代に中平卓馬の考察は鋭かった。

 「周知の通り、資本主義社会は表現としての芸術を商品価値に還元し、芸術家を芸術という商品提供者に変形してしまった。そしてそれが可能であるためには芸術家が常に〈私性〉を保持していることが必須条件であった。社会によって、とりわけブルジョア階級によって命名され、そして自らもそれを確認した芸術家にはそのアイデンティティ(個人とその所有物)の堅持が強く要求される。あらゆる芸術家に要求される〈個性的であること〉は、実はこの社会のメカニズムに緊密に結びつき、それによって規定されたものである。だが、はたして個性的 であるということが、それ程までに価値あることであるのか?」

芸術が資本主義的大衆社会が描く“地獄絵図”から逃れることができないのなら、〈表現〉を捨て、〈記録〉することに徹する。これが中平卓馬の答えである。そのために“生きること”につきまとう「日付・場所・行為」をただ写す。現実の断片を寄せ集めることにより世界を再構成する。光学機器であるカメラにできることは、眼前に生起する現象をただそれだけのものとして記録することだけである。写真は世界の一部から現実の〈断片〉を盗み出し、それを際立たせて〈引用〉し、もう一度現実に送り返すことで現実に対し疑問符をなげかけることができるのではないか? 写真家は世界の中で自分にとってこれだけは真実だと確信する現実をいくつも積みあげることにより、世界の再構成を夢想するロマンティストである。カメラが否応なく現実を虚構化する点を逆手にとり、現実に対しその虚構をつきつけることで現実に亀裂を生じせめてゆくことができれば(もちろんそれは錯覚であるにしても)相対的には世界の方を虚構化することが可能なのではないか? それは自らが位置づけられた世界(絶望的な社会)の意味を見直し、すでに築き上げられてきたイメージをひとつひとつ疑い、もう一度“事物の側から”世界を構築することによって人間を世界から救出する努力だった。凄いぞ中平卓馬、最後にひとことどうぞ。

 写真は記録である。それは芸術であることをやめ、内なるものの表現であることをやめて、記録に徹する時、何ものかでありうる。

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