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健康教と生政治

古代ギリシア人は、われわれが 「生」という言葉で理解しているものを表現するため、「ゾーエー」と 「ビオス」という意味的に区別される二つの語を使用していた。
ゾーエーのほうはおよそ生あるものすべて (動物、人間、 神々) に共通の「生きている」というたんなる事実を表現していたのにたいし、ビオスのほうは人間に固有の「生き方」を意味していた。
アガンベンによると、古代ギリシア語でこのように「生」を表現するのに用いられていた「ゾーエー」と「ビオス」という語は、近代ヨーロッパの諸言語のなかで、しだいに日常的に使用される語から消え去っていったという。
近代における政治の特徴をなしているのは、ゾーエーがポリスに包含されるようになったという事実そのものではなく、もともとは政治的共同体の欄外=余白に位置していた「剥き出しの生」の空間がしだいに政治の空間そのものと一致するようになり、ビオスとゾーエーのあいだの区別が定かでなくなり、政治権力はいつの場合にも「剥き出しの生」の圏域を生の形式のコンテクストから分離するところに基礎を置いているということである。
また、カール・シュミットは「政治神学」のなかで「主権」について論じ、「主権者とは例外状態にかんして決定をくだす者を言う」と定義したが、そこで言われる「例外状態」とは、通常の状況にあっては多種多様な社会的生の形式に結びついているように見える剥き出しの生が、政治権力の窮極の基礎であるかぎりで明確に問いに付される状態のことにほかならない。
こうしてアガンベンは、いまや政治は生政治になってしまったというミシェル・フーコーの「知への意志」における診断を実質的に正確だと受けとめる。
近代においてゾーエーがポリスの領域に侵入してくるというより、政治はゾーエー、すなわち人々の生物学的な意味における剥き出しの生そのものの管理をみずからの統治行為の中心に置くようになった。
そのようにして人々の生物学的な意味における生そのものをみずからの統治行為の中心に置くようになった政治を、フーコーは「生政治」と名づけたのである。

私たちが証人となっているこの変容は、純然たる保健衛生上の恐怖を創設することによって、また一種の「健康教」を創設することによって働いている。
ブルジョワ民主主義の伝統においては権利であった市民の健康が、人々の気づかぬうちに、いかなる対価を払っても果たすべき法的宗教的義務へと顚倒してしまっている。
新宗教である健康教と、例外状態を用いる国家権力との接合から帰結する統治装置を、私たちは「バイオセキュリティ」と呼ぶことができる。
おそらくこれは西洋史上、最も効果的な統治装置である。じつのところ、経験によって示されたのは、ひとたび健康への脅威が問題になれば、人間たちは自由の制限を受け容れる用意があるらしいということである。
この法の宙吊りは市民からも、そしてとりわけ代議機関からも何の異議申し立ても受けずに実行されている。
この大変の法的政治的装置にあたるのが例外状態であり、宗教的装置にあたるのが科学であるとして、この変容は社会的諸関係という面では実効性をデジタル・テクノロジーに委ねた。
いまや明白だが、このテクノロジーは人間関係の新たな構造を定義づける「社会的距離確保」と一体化している。
人間関係は、物理的にそこにいるということをあらゆる機会において可能な限り避けなければならなくなり、すでに事実上しばしば起こっていたことだが、人間関係はますます効果的、ますます浸透的になっていくデジタル諸装置を通じて展開されなければならなくなる。
社会的諸関係の新たな形式は「接続」であって、接続しない者はあらゆる関係から排除され、周縁へと断罪される傾向にある。
この国を麻痺させたパニックの波がはっきり示している第一のことは、私たちの社会はもはや「剥き出しの生」以外の何も信じていないということである。
例外化措置の原因としてのテロは枯渇してしまったが、その代わりにエピデミックの発明が、あらゆる限界を超えて例外化措置を拡大する理想的口実を提供できるというわけである。
近代政治は徹頭徹尾生政治であって、そこに最終的に賭かっているのは生物学的なものとしての生命であり、今回、新たになっている事実は、健康がいかなる対価を払っても果たすべき法的義務になるということである。
ありとあらゆる政治的活動を端的に除去する生きかたを公共の健康の名において受け容れ
させる統治テクノロジーを作りあげることにおいて、イタリアはいま前衛であり、イタリアでは、健康への脅威が問題になるや否や、人々は反発もせずに自由の制限を受け容れている。
ブルジョワ民主主義においては、すべての市民は「健康権」をもっていたが、この権利がいまや、人々の気づかぬうちに、いかなる対価を払っても果たすべき、健康への法的義務へと顚倒してしまっている。
科学と医学がこの機能を果たすことができたのは、厳密な科学としてではなく一種の宗教として働いたからであり、剥き出しの生がその神にあたる。
この分割は当然のことながら抽象だが、強力な抽象である。
ウイルスがはっきり示したのは、人間たちがこの抽象を信じており、自分たちの生の通常のありかた、社会的諸関係、政治的・宗教的な信念、さらには友人関係や愛までをもこの抽象に捧げてしまったということである。
ご存じのとおり近代医学は二十世紀半ばごろに、蘇生諸装置を通じてこの抽象を実現した。
この諸装置によって、人体を純然たる植物的生命状態で長きにわたって維持できるようになった。
人工的な呼吸と血循環をおこなう機械と、恒温性を維持するテクノロジーとによって、人体は生と死のあいだに際限なく宙吊りにされている。
心配なのは現在のことだけではなく、もっと心配なのはこの後のことである。
それは諸政府がこれまで実現に成功してこなかった実験、すなわち、学校、大学、あらゆる公共の場において、物理的にそこにいるということの代わりにデジタル諸装置が置かれ、物理的にそこにいるということのほうは私的圏域に、家の壁の内側にしかるべき対策を施しつつ隔離されたままとされる、という実験である。
つまり、問題になっているのは、あらゆる公共空間の純然たる廃止である。

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