第二章 通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移り行きⅡ 64-98頁

 ここからカントは〔命法〕という概念を持ち出す、ー実践的規則は、有限的な理性的存在者に対し(理念だけが唯一の規定根拠ではないため)命法『べし!』により客観的強制を表現する。〔命法〕は客観的に妥当するものであり、主観的原則としての〔格律〕とは異なる。

 およそ命法は、定言的に命令するか、それとも仮言的に命令するか、二つのうちのいずれかである。

 〔仮言的命法〕は、我々が行為そのものとは別に欲している何か或るものを得るための手段としての可能的行為を必然的であるとして提示する命法である。

 〔定言的命法〕は、行為を何か他の目的に関係させずにそれ自体だけで必然的であるとして提示する命法である。

 およそ一切の命法はなんらかの点で善であるような意志の原理に従い行為を規定する方式であり、①行為が何か或る別のものを得るための手段としてのみ善であるなら〔仮言的命法〕であり、②行為がいかなる意図にもかかわりなくそれ自体善であるとして提示されるなら〔定言的命法〕である。

 ここからカントは命法の原理を更に三通りに分けるが、以前そのことを文章化している為それをもって71-75頁を省略したい。

 〔熟練の命法〕〔怜悧の命法〕〔道徳性の命法〕についてはこちらから。

 我々はこの三通りの命法が意志に課するところの強制をどう考えたらよいか?

 〔熟練の命法〕と〔怜悧の命法〕がどうして可能か、という問題について言えば、この二通りの命法は行為者の意欲に関して分析的命題である。

 〔熟練の命法〕で目的を達成しようとする人は、彼が使用することができ目的達成に欠くことのできない手段を欲する。すると彼の行為から生じることのなかには手段の使用ということがすでに考えられているし、命法は目的を実現するに必要な行為の概念を、目的を実現しようとする意欲の概念から引き出す。

 〔怜悧の命法〕で目的を達成しようとする人も前述した熟練の命法と同様に目的達成のため彼が自由に使用できる最上の手段を欲するが、彼の目的〔幸福〕という概念に属する要素はすべて経験的であり、彼は何が自分を真に〔幸福〕たらしめるかということを原理に従い明確に規定することができない。するとこの命法は厳密に言えば命令ではなく勧告と見なされるべきである。

 上述の両命法はいずれも分析的であり、かかる命法の可能を説明することは少しも困難でないが、これに反し〔道徳性の命法〕はどうして可能か、という課題こそ我々が解決を必要とする唯一の問題である。

 我々は〔定言的命法〕の可能をあくまでアプリオリに究明しなければならないだろう。アプリオリな定言的命法だけが実践的法則であり綜合的命題であり、この種の命題の可能を洞察する困難は理論的認識においてはもとより実践的認識における困難もまたこれに劣るものではない。

 私が〔定言的命法〕なるものを思い浮かべると、定言的命法が法則のほかに含むところのものは、格律はこの法則に一致せねばならないという必然性だけであり、定言的命法が本来提示するところのものは、ー行為の格律は法則に一致すべきである。

 それだから定言的命法はただ一つあり、その命題はー「君は、君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」

 そこでこの唯一の命法から〔義務〕に関する一切の命法を導来し得るならば、義務の概念によって我々が何を考えているのかということを示すことができるであろう。

 義務の普遍的命法はこう言い現わすことができるであろう、君の行為の格律が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」

 義務の分類と例 87-91頁
 1.自分自身に対する内的完全義務の例(自殺すること)
 2.他人に対する外的完全義務の例(借金すること)
 3.自分自身に対する内的不完全義務の例(才能を発揮しないこと)
 4.他人に対する外的不完全義務の例(人助けをしないこと)

 我々が義務に違反するたびに自分自身を反省してみると、我々は自分自身の意志のうちに法則と傾向性の矛盾を見出すことになるだろう。

 理性の指示に傾向性が反抗すると、この原理は普遍性から一般的妥当性に変じる。すると法則(客観的原理)と格律(主観的原理)とは途中で出会うことになり、我々がこれら両原理の間に立って公正な判断を下すとしたら、このことは我々が定言的命法の妥当性を実際に承認しているということを証示するものである。

 するとこれまでのところで少なくとも、次のことが明らかにされた。すなわち、ー義務が我々の行為に対して重要な意義と立法権とを含んで然るべき概念であるとすれば、義務は定言的命法においてのみ表示され得るものであるということをもって一切の義務に妥当する原理を含む定言的命法の内容を明示し、またこれを明確に説明した、ということである。

 次に我々はこの命法が実際に成立する(一切の動機に関わりなくそれ自体だけで絶対に命令するような実践的法則が存するということ)をアプリオリに証明する当たり、次の一事に留意する必要がある。

 それはこの原理の実在性を、ー人間の本性の特殊な性質から導来しようなどと考えてはならない。感情や傾向性から導来されたものは我々に格律を与えはするが法則を与えることはできない。義務はすべての理性的存在者に対して例外なく妥当せねばならない。

 ようするに、経験的なものはすべて道徳の原理に付け合わされた添え物であり、原理たるに堪えないばかりでなく、道徳そのものの純正をも損じるのである。道徳にあって絶対に善なる意志の価値は、行為の原理がすべての経験の提供する偶然的根拠に基づく影響から離脱しているところにある。

 すると問題はこういうことになる、ー「すべての理性的存在者が自己の格律を普遍的法則として用うべきことを、彼等自身が欲し得るような格律に従い、常に彼等の行為を判定することは、彼等にとって必然的法則であるのか」

 もしこのことが必然的法則であるなら、この法則はすでに理性的存在者一般の意志の概念にアプリオリに結びついていなければならない。

 だがこの結びつきを発見するためには、我々は嫌でも一歩を踏み出す必要がある。それは、形而上学への一歩である。とはいえ我々が一歩を踏み入れる形而上学の領域は、思弁哲学の領域とは異なるもの、すなわち、道徳の形而上学である。

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