第二章 通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移り行きⅢ 98-112頁

 実践哲学において我々が問題とするのは、生起するものの根拠を突きとめることではなく、生起すべきものの法則を確認することである。

 それだから実践哲学においては、或るものがなぜ我々に気に入るのか入らないのか? 快・不快の感情は何に基づくのか? この感情や傾向からなぜ格律が生じるのか? 等という理由を考究する必要はなく(このような事情はすべて経験的心理学に属する)我々がいま問題にしているのは、客観的ー実践的法則であり、意志が理性によって規定される限りにおける意志が自分自身にもつところの関係である。

 意志が自己規定の客観的根拠として用いるところのものは〔目的〕である。この目的が理性によってのみ与えられるなら、その目的は理性的存在者に等しく妥当せねばならない。これに反し単に行為を可能ならしめる根拠だけを含むものは行為の結果として生じるところの目的に対して〔手段〕と呼ばれる。

 或る理性的存在者が彼の行為の結果として任意に設置した目的はすべて相対的なものにすぎず、目的に価値を与えるものは目的が主観の欲求能力に対してもつところの関係にほかならない。このような価値はすべての理性的存在者に妥当するような必然的原理(実践的法則)を与えることはできず、およそ相対的目的は仮言的命法の根拠を成すにすぎない。

 ところで、ここに或るものが存在する。そしてそのものの現実的存在自体が絶対的価値を有し、またそのものは目的自体として一定の法則の根拠となり得ると仮定するならば、このもののうちには実践的法則の根拠は存するであろう。

 そこで私はこう言う、ー人間ばかりでなく、およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する。すなわち意志が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、自分自身ならびに他の理性的存在者たちに対してなされる行為において、いついかなる場合にも同時に目的とみなされねばならない。

 傾向の対象はいずれも相対的価値しかもたず、これまで存在していた傾向と傾向に基づく欲望がいったん存在しなくなると、傾向の対象は途端に無価値になるだろう。傾向は欲望の根源ではあるが、それが希求するに値いするような絶対的価値をもつものではない。むしろ一切の傾向を脱却することこそ、一般に理性的存在者の誰もが懐くところの念願でなければならない。

 ところで存在するもののなかには、現実的存在が我々の〔意志〕に依存するのではなく〔自然〕に依存しているものがある。このような仕方で存在するものが理性をもたない場合には〔手段〕としての相対的価値をもつだけであり、その故〔物件〕と呼ばれる。

 これに反して理性的存在者は〔人格〕と呼ばれる。なぜなら理性的存在者の本性は、この存在者をすでに目的自体として(たんに手段として使用することを許さず)一切の主我的な意志を制限するからである。

 それだから客観的な目的として理性的存在者があり、最高の実践的原理が存在すべき(人間の意志に関し定言的命法が存在すべき)であるならば、それは何びとにとっても必然的に目的となるところのものの表象を意志の客観的原理としていなければならず、この原理の根拠は理性的存在者は目的自体として存在するというところにある。

 すると実践的命法は、次のようになものになるであろう、ー「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつまでもいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」

 次に我々はこのことが実際に行われているかどうかを調べてみたい。

 ※87-91頁にある四個の実例に対する解答、以下104-107頁迄省略。

 理性的存在者一般の本性を目的自体とする原理(各人の自由を制限する最高の条件)は経験から得られるものではない。

 実践的立法の根拠は、第一原理「君は、君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって同時に欲し得るような格律に従ってのみ行為せよ」に従い客観的には規則という形式に存し、主観的には目的に存する。この目的の主体は目的自体として各々の理性的存在者にほかならず第二原理「君の行為の格律が君の意志によって、あたかも普遍的自然法則となるかのように行為せよ」に従うことで、ここから意志の第三原理が生じる。そしてこの原理が、取りも直さず意志と実践理性とを一致させる最高の条件である。

 すなわち、ー普遍的に立法する意志として各々の理性的存在者の意志という理念、である。

 このようにして意志は、自分自身に法則を与える立法者と見なされねばならないような仕方で服従し(訳もなく法則に服従するのではなく)つまり意志は、自分自身が普遍的立法者であればこそ自ら法則に服従するのである。

 義務に基づく意欲において一切の感心が排除されることは、この定言的命法を仮言的命法から区別する表識であるが、このことは原理の第三方式、ー普遍的に立法する意識としての各々の理性的存在者の意志という理念においてなされているのである。

 実際、我々がこうして意志というものを考えてみると、たとえ法則に従っているような意志でも、なんらかの関心を介しこの法則と結びついているかも知れないのである。

 しかしそれ自体が立法者であるような意志であれば、その限りにおいていかなる関心にも依存するものではない。

 それだから各人の意志こそ、すべてその格律を通じて普遍的に立法する意志にほかならないという原理は、定言的命法としてまことに適切であろう。

 道徳性の原理を見出そうとして、我々がこれまで傾けてきた努力の跡をみると、かかる努力が水泡に帰せざるを得なかったことは少しも不思議ではない。

 我々は人間が義務により法則と結びつけられていることを知っていたが、我々は人間が彼自身の立法ではあるが、しかし普遍的であるような立法にのみ服従するものであるということ、彼自身の意志ではあるが、しかし自然の目的に従い普遍的に立法する意志のままに行動するよりほかないということに気づかなかったのである。

 我々は、意志が訳もなく法則に服従していると考えていたために、この法則はなんらかの関心を伴わなければならないことになった。しかしそのような法則は彼自身の意志から発生したものではなくて、彼の意志が合法的に何か他の或るものに強要され、或る仕方で行為せざるを得なかったからである。

 このような必然的な推論があるので、義務の最高の根拠を見出そうとする一切の努力はすべて失敗に帰し、再び取り返しがつかなくなったのである。

 これによって諸人が得たところのものは、義務ではなく、或る種の関心に基づく行為の必然性にすぎなかった。そうなると命法は常に条件付きのものにならざるを得なかったし、それだから道徳的命令たるに堪えなかったのである。私はこの原則を、意志の〔自律〕の原理と呼びたい。そしてこの原理はすべて〔他律〕のなかに算え入れるような一切の原理と対立するのである。

 ※この文章から次の文章への飛躍の仕方が何度読んでも謎だ…或いはこの箇所は129-139頁の諸々に結合しているのかもしれない…今回は、ここまで!


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