見出し画像

『自由論』ワクチン打たんし、マスクもせんが、移動の自由を主張する意見をミルに聞いてミル

 本書の主題は、哲学的な意志の自由に関するものではなく、市民生活における自由、つまり個人に対して社会(世間)が正当に行使してよい権力の性質と限界である。

 本書の目的は、社会が強制や統制というやり方で個人を扱うときに用いる手段が(法的刑罰という物理的な力であれ、世論という精神的な強制であれ)その扱いを無条件で決めることのできる原理として、一つの非常に単純な原理を主張することである。

 その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである。

 市民社会の成員に対し、個人の意向に反して権力を行使しても正当でありうるのは、他の人々への危害を防止するという目的の場合だけであり、身体面であれ精神面であれ、本人にとってよいことだから、というのは十分な正当化にはならない。

 個人が社会に従わなければならない唯一の行為領域は、他の人々にかかわる行為領域であり、本人だけにかかわる領域では、本人の独立は、当然のことながら絶対的である。

 個人は、自分自身の身体と精神に対しては、主権者である。

 私は、あらゆる倫理的な問題に関する究極の判断基準は、効用であると考えている。この効用は、進歩していく存在としての人間にとって永久に変わることのない利益を根拠とする効用でなければならず、そのような利益に照らしてこそ、他人の利益にかかわる各個人の行為という点に限り、個人の自発性を外的な統制に従わせることが正当化されるのだ、と私は主張しておきたい。

 ※ここで「効用」という言葉が出てきたが、ミルの言う効用は、功利主義のことだと言ってよい。
 功利主義と言えば、ベンサムの「最大多数の最大幸福」を思い浮かべるだろう。
 しかしミルの思想は、例えば、ベルクソンがカントに挑戦したように、ベンサムの「幸福」という概念を、質と量で捉え直すことからはじまっている。

 カント(量)VSベルクソン(質)

 ミルの言う功利主義が理解できない限り、
 『自由論』を正確に考察することは不可能だろう。
 それなので、暫しテキストを『功利主義』に変える。


ミルの説く功利主義とは何か?

 快楽には質と量の違いがある、とミルは言う。
 ある快楽が他の快楽と比べて量的に多いということ以外に、われわれは何によりいっそう高い価値を持つのかと問われれば、答えは一つしかない。質的にである。

 質的な快楽とはずばり、一方の快楽を選ぶべきだとする道徳的義務の感情(良心)がかかった快楽である。

 そのような質的快楽は、自らの幸福を犠牲にして成り立つのだから、同じような環境だったら、優れた人は低レベルの人ほど幸福になれないという考えもあるが、そう考える人は、幸福と満足という二つの異なる観念を混同しているからである。

 低レベルのものだけを楽しいと感じられる人々は、欲求が満たされる可能性が高いのに対し、高次元の能力を備えた人々は、いつでも自分が追求している幸福は世の中の現状では不完全さを免れないと感じるものである。

 しかしこういう人々は、不完全さが忍耐の範囲に収まっているのであれば忍耐できるようになるし、彼らは不完全さの中で得られるようなものを少しもよいと思わないので、不完全さに気づかない人々をうらやましいとも思わないのである。

 満足した豚であるよりも、満足していない人間がよい。満足した愚者よりも、満足していないソクラテスがよい。

 ミルのエリート思考が多少鼻につくかもしれないが、十代でギリシャ語やラテン語を学ぶことを徹底した教育を受けた早熟の天才である。
 しかしこのベンサム派の貴公子は、二十歳の時に精神の危機に陥った。
 躁鬱状態の彼は、「最大多数の最大幸福」という道徳原理の批判をはじめることになる。

 最大幸福の原理によれば、究極の目的は、質と量のいずれの点においても、可能な限り苦痛を免れ、可能な限り快楽が豊富な生活状態を保つことである。

 しかし、「やせたソクラテス」のように正義や慈愛の目的を追求し、その結果として得られるような幸福のあり方を軽視するのは間違いだと、ミルは考えるようになった。

 行為の動機や結果としてもたらされる幸福については、量ではなく質的な考慮も必要なのではないか?

 そろそろ勘づく人もいるだろう。ミルを精神の危機から救ったのは、カント哲学だった(勝手な想像です)
 しかしそう考えてもおかしくないほど、ミルの道徳律はカントに似てくる。
 しかしミルは、父親やベンサムから徹底して叩き込まれた思想を、今さら全面否定するわけにもいかなかった。
 苦しまぎれのミル(勝手な想像です)は、『功利主義』の中でカントの『道徳形而上学言論』をまっこうから取り上げ、このように批判する。

 この人の思想体系は、これからも末永く、哲学史の中で画期的な地位を占め続けるだろう。カントは、道徳的義務の根拠である普遍的第一原理を、「汝の行為の準則がすべての理性的存在者に受け入れられるような仕方で行為せよ」と提示したが、このカントの定言命法こそ、質的な幸福の追求であり、このカントの道徳律こそ、まさに功利主義なのである(私の解釈が入っています)。

 個人が他の人々のために最善を尽くそうとすると、自分の幸福を全面的に犠牲にしなければならないのは、ただ世の中の仕組みが不完全だからであり、世の中が不完全な状態である限り、犠牲を払う心構えがあることは、人間に見出すことのできる最高の徳であり、このような覚悟は最悪の運命や偶然にも自分を屈服させることのない質的な幸福である。

 功利主義の基準となっている幸福は、行為者本人の幸福ではなく、その行為にかかわりのある人々全員の幸福であり、ナザレのイエスが説いた黄金律には、効用の論理の精神が完全な姿で示されている。自分がしてもらいたいように自分もすることと、自分を愛するように隣人を愛することは、功利主義の道徳が究極の理想とするところに他ならない。

 エピクロス派かストア派か? 生きんとする意志の肯定か否定か? 古代から脈々と繰り広げられてきた倫理的な問いが、ここでも悶々と繰り返されている。

 ミルが「効用」という言葉を使うとき、背景にはこのような思想がある。
 ようするに、ミルは「不満足なソクラテス」によって、師匠ベンサムの「最大多数の最大幸福」を、コペルニクス的に転回してみせたのだ。
 ミルの功利主義を理解した上で、そろそろ話を『自由論』に戻そう。


幸福の一要素としての個性の追求

 人間の自由にふさわしい領域は、意識という内面の世界であり、これが要求するのは、最も広い意味での良心の自由である。

 この原理は、何を好み何を目的にして生きるのかという点で自由を要求し、自分自身の性格に合った生活を作り上げ、そこから生じる結果を引き受け、自分のしたいことをする自由を要求する。

 この自由は、本人のすることを他の人々が愚行であるとか、常軌を逸しているとか、不適切だとか考えたとしても、彼らに害がおよんでいるのでない限り、彼らから妨害されないという自由である。

 どんな形であれ社会が権力によって本人を規制するよりも、本人の裁量に任せ、行為者本人の良心が空席となった裁判官の席に着き、他の人々の裁きに対してでなく、厳格に自分を裁くべきなのである。

 これらの自由が全般的に尊重されていない社会は、そこでの統治形態がどんなものであれ、自由ではない。

 自由の名に値する唯一の自由とは、他人の幸福を奪ったり、幸福を得ようとする他人の努力を妨害したりしない限り、自分自身のやり方で自分自身の幸福を追求する自由である。

 本人以外の人が自分に望ましいと思える生き方をたがいに認め合うことで、人類ははるかに大きな利益を得ることになるであろう。

 「俺はワクチン打たんし、マスクもせんが、移動の自由を主張する」

 例えば、このようなおっさんがわれわれの前に現れたとして、あなたはどのように対応するだろうか?
 最後に、ミルに聞いてミル。

 人間には、自分の好き嫌いを他人の行為の評価にまで広げてしまう普遍的傾向があり、自分たちの属する集団が社会の中で支配的な地位を占めるようになると、特にこの有害な傾向が顕著になる。
 人間の自由を奪うものは、社会の習慣や風習や空気であり、世論専制の社会的要因としては、文明化が進んでいく中で社会が画一化し、個人が集団に埋没してしまうことである。
 そのような社会では、世間とは関係なく、自分はこうしたい、こうありたいという願望は弱まり、自分の行動指針を世間一般の標準に合わせようとする傾向が強まり、世間一般の標準に同調しない人間は異様だと感じられ、そうした人間にも標準を押しつけようとするようになる。
 「最大多数の最大幸福」という多数者の専制が作りだす世論により個人は縛られ、自分で物事を判断する個人の行為が世論から外れると、彼は炎上する。
 多数者が真っ先に考えることは、自分を世論に合わすこと、他人の意見をいち早く自分のものにすることである。
 人間は、世間の判断が皆同じ意見であるとき、自分の意見も正しいと感じるような傾向がり、そのような意見を無謬性の想定と言う。
 人類はこれまで歴史の中で、自らの無謬性を得るために反対意見を排除し、ソクラテスやイエスのような真理を抹殺するという過ちを数々おかしてきた。
 無誤謬性の想定は自分で物事を判断する能力が優れているわけではない人に対し圧倒的な影響力をもっているが、周囲から浮くことを恐れずとっぴな行動ができる人間がいないことが、今の時代の最大の危機である。
 世間は、煙草を吸ったり、音楽を演奏したり、身体を鍛錬したり、勉強したりといったことに関しては、好みの多様性を認めないところはどこにもない(21世紀の日本は禁煙ファシズムですよミルさん)
 こうしたことが好きな人も嫌いな人も、それを抑え込むにはあまりにも人数が多いからであるが、ところが誰かがある人に対し、「皆がしていること」をしていない、と非難できる場合には、非難された側の人は、何か重大な道徳上の逸脱行為をしたかのよう酷評の標的にされてしまう。
 すべての人間を一つの鋳型にはめようとすべきでない理由として、人々の好みの多様性ということしかなかったとしても、これだけで十分な理由である。それぞれに異なっている人々は、自分の精神的発展のためにそれぞれ異なった条件を必要としている。だから、全員が同一の精神的な空気や環境の中で元気に生きていく、というのは無理な話である。
 平均的な人々からなる大衆の意見が、至るところで支配的な力になっているときに、そうした傾向と張り合いそれを是正するのは、卓越した思想を足場としている人々の際立った個性だろう。
 個性の侵害に対する何らかの抵抗が成功可能なのは、初期の段階に限られている。
 生活が一つの画一的な型にほとんどはまってしまう時点まで抵抗を先延ばしすると、その型からの逸脱はすべて不道徳とみなされる。人間は、多様性をしばらく見慣れないままでいると、すぐに、多様性を思い浮かべられなくなってしまうのである。・・・・・

 きりがないのでやめにしよう。
 明治時代、日本の知識人はこの本を熱心に読み、はじめて「自由」という言葉を知った。
 2021年の日本、はたして日本人は自由という言葉の意味を知っているのだろうか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?