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表現から記録へ

1969年5月13日、左翼学生の総本山である東大駒場キャンパスに乗り込んだ三島由紀夫と学生たちのアウラを断片的にモンタージュし、複製したドキュメンタリー『三島由紀夫VS東大全共闘』を昨晩見返した。
その映画の中で、全共闘随一の論客と言われる人物(アングラ演劇団の指導者)が三島と討論を交わす場面があるのだが、その時の会話を要約しよう。
 「イメージを事物で乗り越える時、そこに空間が生まれる。しかし、われわれは苦しいから、事物にイメージを与える。その最初の形態が、事物を武器に変えることである。われわれと事物の間にあるのは何かということから、僕はもう一度やっていきたい」
やっぱりかと思った。
この語り口から分るように、60年安保の“政治運動”は、68年全共闘で“芸術運動”へすり替わっていることに気がつく。
もちろん、近代芸術の形式は“政治的敗北”と対で社会に現われた。
19世紀のフランスで詩、音楽、小説、絵画、芸術が驚くほど花開いたのは、革命後に出現したブルジョワ社会に対する作家の内なる反抗心からだった。
この系譜をたどるとそこにジャン=ジャック・ルソーがいるのだが、その弟子たち(例えばスタンダール、例えばドラクロワ)は社会に居場所をもたない個人の“魂の親密さ”の明晰な研究者となり、ブルジョワ社会が押しつけてくる固有の画一主義に向けて反抗し、後にロマン主義と名付けられる近代最初の芸術形式をつくりだした。

前置きがながくなったが、中平卓馬や森山大道が68年に発刊した《プロヴォーク》とは、あの時代の政治的に敗北した写真家たちによる“ロマン主義的反抗”である。
彼らは全共闘の論客のように「世界の事物を人間側のイメージで擬人化」し、写真で世界を人間的に染色した。
それがこの時代のヒューマニズムであり、芸術は自らの心像空間を拡張し、主観的な美で世界を染めあげる運動である。
なぜなら現実は権力による弾圧でずたぼろだから・・・
敗者に残されたロマン主義的イメージの拡張が〈アレ・ブレ・ボケ〉であり、この時代の表現物は、人間側のイメージが事物に先行しているのだ。
《プロヴォーク》は“思想のための挑発的資料”と釘を打ち刊行された。
「政治と芸術の間隙をどう埋めるか、われわれはそれを原理的に解決することに関心をもちません。なぜなら言葉による性急な解決には必ず嘘がまじるはずですから。なによりもそれは歴史を生きることによってしか導き出されないはずですから。言葉がリアリティを失い、宙に舞う現在、ぼくたち写真家にできることは、言葉ではとうてい捉えることのできない現実の断片を視覚化してゆき、言葉に対し、思想に対し、いくつかの資料を提供してゆくことではないでしょうか。…」
しかし70年代に入り、資本主義の勝利はあきらかになった。連合赤軍の新左翼運動は大阪万博に回収された。経済は高度に加速し、都市空間は大きく変貌し、豊かな大衆社会がやってきた。ゲバラは死に、サルトルは廃業し、《プロヴォーク》はファッション化した(今やプロヴォークカメラなんてiPhoneアプリまである)レディ・メイドという形式は芸術の意味論的な操作により芸術家を廃業させた(それが現代アートである)さて、写真はどうするか?
中平卓馬は68年以降の変化の本質を、政治的に、経済的に、文化的に、鋭く感知した批評家でもある。
それだから、73年に刊行された『なぜ、植物図鑑か』の中で「イメージを捨てること」を宣言したのだ。
これは一人の人間によるスタンダールからフローベールへ、ドラクロアからミレーへ、ロマン主義者から写実主義者への転向、変身、事物のとらえ方のコペルニクス的展開、革命である。
『なぜ、植物図鑑か』以来、中原は写真による「表現」を捨て、徹底して「記録」することに拘るようになるのだが、この記録という概念はとても意味深いのでまた改めてまとめる。
視点を「日付・場所・行為」にだけ限定し、イメージを放棄し、事物を事物の側から写す試みは〈アレ・ブレ・ボケ〉よりよっぽどラディカルであり、じつは《プロヴォーク》より後期中原卓馬こそ前衛なのではないか。

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