第一章 道徳に関する普通の理性認識から哲学的な理性認識への移り行き 22-50頁

善意志

 我々の住む世界や世界の外においても、無制限に善と見なされ得るものは〔善意志〕のほかにまったく考えることができない。

 知力、才気、判断力、精神的才能(勇気、果断、目的遂行における堅忍不抜等)が色々な点で善いものであり、望ましいものであることは疑いないが、しかしこれを使用する我々の意志が善でないと、上記の特性は極めて悪性で有害なものになり兼ねない。

 この事情は幸運の賜についてもまったく同様であり、権力、富、名誉、健康、更に身の上の安泰や現在の境遇に対する満足感をも含め、およそ〔幸福〕の名の下に総括されるところのものは人をして得意ならしめるが、しかしこれらの賜物を〔合目的〕たらしめるような〔善意志〕がないと、彼をしばしば放漫にするのである。

 この〔善意志〕は、それが成就するところのものによって善なのではなく、また何によらず所期の目的を達成するに役立つから善なのではない。〔善意志〕は、実に意欲そのものによってのみ、それ自体として善なのである。

 理性は、意志の対象を実現したり、我々の欲望を充足することにかけては意志を指導する力をもたない(むしろ人間に植えつけられている自然本能のほうが確実にこの目的を達成するであろう)。

 理性の使命は何かの意図を達成する手段としてではなく、それ自体善であるような意志を生ぜしめることでなければならない。

 そしてこのことのためにこそ理性が是非とも必要なのであり、それだからこそ意志は(完全でないにせよ)人間にとって最高の善でなければならなず、更にこの意志は、諸他いっさいの善を成就せしめる条件でなければならない。

 〔善意志〕の概念は、健全な自然的語性〔常識〕にすでに具わっているのであるから、いま改めててはたから教えられるまでもなく、ただ啓発を必要とするだけである。このような〔善意志〕の概念は、我々の行為を挙げてその全価値を評価してみても常に最高であり、諸他いっさいの善を成立せしめる条件をなすものである。

 そこでこの〔善意志〕の概念を展開するために、ここに〔義務〕の概念を取り上げてみたいと思うのである。

義務

 例えば、時価の鮨屋の大将が、お得意に対し五千円、一見さんに対し六千円で料金を請求したとする。するとこの大将は義務の法則に基づきこのような行動をしているとはとうてい考えられず、自分の利益をおもんぱかりこのような行動を起こすのである。それだからこのような行為は義務に基づくものでもなければ、客に対し心を傾けているために生じたものでもなく、まったく私利をはかろうとする意図から為されたにすぎない。

 〔義務〕は行為者が直接その行為へ心を傾けていることであり、何か別の心的傾向に促されてそうせざるを得ないような行為のことではない。

 鮨屋の大将の行為は利己的な意図から生じたものであり(もちろんこの例え話では、商売上の良し悪し話はぬきである)少なくとも客を公平に扱うという義務に基づく行為ではない。

 第二命題はこうである、ー義務に基づく行為の道徳的価値は、その行為によって達成せられる意図にあるのではなく、その行為を規定するところの〔格律〕にある。

 我々が行為に際してもつ様々な意図は、その行為に無条件的な道徳的価値を与えるものでは決してなく、行為の道徳的価値は意志の規定原理のなか以外どこにも見出され得ない。

 意志は、そのアプリオリな形式的原理とアポステリオリな実質的動機との中間にあり、いわば岐路に立っているのである。そこで意志からいっさいの実質的原理を除き去れば、行為は義務に基づき為されることになり、従って意志は、意欲一般の形式的原理によって規定されざるを得なくなるのである。

 第三命題は上記の両命題から生じる結論である、ー〔義務〕とは〔道徳的法則〕に対する〔尊敬〕の念に基づき為すところの行為の必然性である。

 私の行為の結果であるところの対象には〔傾向性〕をもつことはできるが、かかる対象は意志そのもののはたらきではないから、これに〔尊敬〕を致すことはできない。

 私は、私の〔傾向性〕に奉仕するのではなくこれに打ち克つところのもの、少なくとも対象を選択する際の目算から〔傾向性〕を完全に排除するところのもの、すなわち、まったく他をまつところのない法則自体だけが尊敬の対象であり得るし命令となり得るのである。

 〔義務〕に基づく行為は〔傾向性〕の影響と共に意志のいかなる対象をも排除すべきであるとすれば、その場合意志を規定するものとして意志に残されているところのものは、客観的には法則だけであり、また主観的にはこの実践的法則に対する純粋な〔尊敬〕の感情だけであり、従って一切の傾向を廃してかかる法則に服従するところの〔格律〕である。

 無条件的な〔最高善〕は、およそ理性的存在者の意志においてのみ見出され得る。我々が道徳的善と称するところの極めて卓越せる善の条件をなすものは、行為から期待される結果ではなく、法則自体の表象にほかならない。かかる表象はそれが意志の規定根拠である限り、言うまでもなく理性的存在者においてのみ生じるのである。またこの卓越せる善は、法則の表象に従い行為するところの〔人格〕そのもののうちに現在しているのだから、今さら行為の結果を当てにする必要はないのである。

※尊敬にたいする訳注
 ・尊敬という語の意味するところは、私の意志が、私の完成に及ぼすはたらきの影響を介さないで直接、法則に服従するという意識にほかならない。
 ・意志が法則により直接規定されるという意識を尊敬と呼び、このような感情ははたからの影響を感受して生じた感情ではなく、理性による理念が作り出した感情である。
 ・人格に対する尊敬は、本来は法則(例えば誠実等の)に対する尊敬にほかならず、人格は我々にかかる法則の実例を提供するのである。いわゆる道徳的関心の本質をなすものは、すべて法則に対する尊敬にほかならない。

 ところで、意志が無条件的に善と称せられるためには〔道徳的法則〕の表象が、かかる表象から期待される結果を考慮することなく意志を規定せねばならないというのなら、一体その法則とはどのようなものであればよいのだろうか?

 私はすでに意志から一切の衝動を排除したのであるから、意志に残されているのは行為の普遍的合法性一般でしかない。

 するとこの普遍的合法性だけが意志を規定する唯一の原理になるわけであり、それは、ー私の格律が普遍的法則になるべきことを私もまた欲し得るように行動し、それ以外の行動をとるべきでない、ということである。

 普通の人間理性〔常識〕が実践的に判断する場合にはこの見解と完全に一致するし、また常に上記の原理は念願におかれるのである。

 それだから私の意欲が道徳的に善であるために私は何を為すべきか? という問いに答えるためには鋭利な知力を必用とするものはでなく、私はこう自問するだけで足りるのである、ー君は、君の格律が普遍的立法となることを欲し得るか、と。

 こうして我々は普通の人間理性〔常識〕による道徳的認識において、この認識の原理に到達した。誠実、善良、賢明、有徳であるためには我々は何を為すべきか、ということを知るには何も哲学を必要としないのである。

 我々は、理論的判定能力が常識から離れるという大胆な振舞いを起こすと、自己矛盾の混乱に陥ることを『純粋理性批判』でみた。

 ところが実践的なことにかけては〔常識〕が法則から感性的な動機を排除すると、その判定力はたちまち正確にはたらき始め、その長所を遺憾なく発揮するのである。

 行為の価値を決定する場合に〔常識〕の判定が正鵠を射ることは、哲学者のそれよりも(哲学者の判断は理論理性による的外れな省察に惑わされているおそれがあるため)いっそう確実であるとさえ言えるのである。

 普通の人間理性は、格別なんらかの思弁的要求に迫られたというわけではなく、まったく実践的な理由に促されるままに自分の本領から出て実践哲学の領域へ一歩を踏み入れる。それは〔常識〕がこの領域で、実践哲学の原理が欲望に基づく格律に対置されることにより、この原理を正しく規定原理にすることに関し、必要な知識と明確な指示とを得るためである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?