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ハリーさん倫理学

 倫理とは、私たちのうちにある非理性的衝動を理性が制御するという仕事であり、この仕事を共同体的存在としての人間という次元で実行するのが政治という仕事に他ならない。
出典不明

 むかし昔、人びとが集まり、共同体を成し、善く生きることを目指す古代ギリシヤに、αρετή(アレテー)という概念が生まれました。
 日本語で、徳や卓越性と訳されるこの言葉。
 あらゆる存在者には存在者本来としての自然があり、その自然がなにものにも妨げられずに活動しているとき、その存在者は「善い」とされます。
 馬がもっとも馬らしく存在しているのは走るときであり、魚が魚らしく存在しているのは泳ぐときである。動物と異なり性格を有する人間がもっとも人間らしく存在しているのは、各々のアレテーを発揮しているときである。
 一本足打法の〝世界の王〟のアレテー、トルネード投法の〝ドクターK〟のアレテー、安打製造機の〝ハリー〟のアレテーetc…
 人は日ごとの必要のため自然に家を組成し、あらゆる自足の要件を満たしたあと、日ごとの必要を超える共同体として国家を形成しますが、その目的は人びとが「善く生きる」ためにあり、「かくて国家は自然によるものであり、人間は自然により国家的(ポリス的)動物である」というのはアリストテレスさんの有名なパンチライン。
 人間がどんなミツバチやアリよりも国家的であるのは、動物のなかで人間たけが言葉を用いて利害を表示し、そうした事柄を互いに共有することで共同体を作るからであり、その特性ゆえに人間は「ただ生きる」ことから「善く生きる」ことにいたる目標を実現しうると、ギリシア人は考えていました。
 ところが、現代はどうでしょうか? コロナ前の世界って、一体どんな感じだったけ?
 現代で「善い国家」とは、まず限りなく富を増大させ、経済成長を無限に続けることだという認識が、GDPといった現代語に現われているように思います。
 合理的な生産システムは先進国を大量消費社会にすることに成功し、グローバル化した多国籍企業は各国政府のコントロールをくぐり抜けて世界に富を分散し、国内での経済循環を不可能なものに破壊した挙句、先進諸国の経済成長に根本的な限界が見えはじめ、おやっ、これってもう、世界の仕組みが戦後体制を終えるのかな? なんて兆しが見えたところからの〜コロナだったような気がします。
 豊かになりすぎた国家は倫理的な規範を忘れ、暴力的に他国を支配し、領土や権益の拡張を目的としながら欲望の無際限の充足に狂う人びとの集団になっているのではないでしょうか。
 富は貨幣の発明とともに無限の自己増殖活動を開始し、人間の生の意味(徳に仕えるという本来の使命)を破壊しました。
 豊かさとは何でしょうか?
 もちろん、アレテーに従い活動するには経済的なゆとりが必要です。
 人間は動物としての存在を維持するため、衣食住を充実させなければなりませんが、生活必需品を生産するものは、デモクラシーを達成した古代ギリシヤにおいては奴隷であり、今でも人間の生において、誰かがこの部分を背負わなければならなりません。
 それが現代の言葉で言うところの「経済問題」なのです。
 しかし経済は、「善く生きる」ための必要条件にはなるが、経済が目的になると富の増殖は無際限となり、これまた反自然的な経済活動の始まりになります。
 ぶっちゃけ、私だって反自然的なインバウンド消費でもう少しグッズを売りさばきたい。
 しかしまたあのコロナ前の野蛮な世界に戻るのじゃ…
 「それは人間の生ではなく、巨大な欲望の力を備えた動物の生に他ならない、喝!」とギリシア人や張本さんなら言うことでしょう。
 経済活動は、つねに目的に仕えるための条件であり、「有徳な生のため」という制約を受けなければならなりません。
 人間の生において経済活動が目的となったとき、人間は無目的の目的という限界のない悪循環の中で破滅に至るでしょう。
 人間の善さとは、経済成長ではなく、有徳の生にある。
 経済は常に手段であり、決して目的たりえない。
 「善く生きる」という人間理性の本質は、倫理や政治、芸術や学問、人が心の健康を享受し、他者とまじわり、楽器を奏で、絵を描き、詩を朗読し、天体を観測し、宇宙の真理を観想するあらゆる〝表現活動〟にある。
 つまり一言でいって、「暇の過ごしかた」にこそ、人生の豊かさの意味があるのじゃないのかしら。
 ギリシア語のスコレー(暇の時間)とは、たんなる余暇ではなく、人間が精神活動や自己充実にあてる積極的な時間のことであり、人間の浄福の生は経済活動と相反するスコレー(これスクールの語源)にあり、衣食住に従事するわけでなく、生活の必要とは関わりもなく、1ミリもバエない「なんの役にもたたない」ことに従事することがギリシア語のムーシケーであり、この言葉はミュージックの語源になります。
 歌って、踊って、絵を描いて♪いったい私は何を言いたいのかしら。そうでした。サンデーモーニングからハリーが居なくなり、はじめてその存在の大きさを知ったのです! 正直、上原浩治ではパンチがなさすぎる。張本勲のアレテーは偉大だったのだ!

「あのときは1級上の先輩をひっぱたいたら相手が瀕死の状態になっちゃってね。(中略)どうにか助かりましたから良かったですよ」
張本勲
「これは本当の話なんだけど言っていいのか悪いのか。こっちは、匕首(あいくち)持って乗り込んで行ったんです」
張本勲
「江戸に行かしてくれ! 男はやっぱり江戸で勝負したいんだ!」
張本勲
サンデーモーニングという言論空間で「徳」「勇気」「正義」を実践する人間は自由人として平等であり、テレビ前で私的領域に従属する者は奴隷である。
出典不明

張本さんが見ません(見ます)ように🙏

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