第二章 その他Ⅴ 129-139頁

道徳性の最高原理としての意志の自立

 意志の自律は意志の特性であり、意志はこの特性により自分自身に対して法則となる。

 理性的存在者の意志が自律の原理により制約されるということは、この原理のなかに現れる概念を分析するだけでは証明できない。この原理は綜合的命題だからである。

 すると我々は、客体の認識を超えて主体すなわち純粋な実践的理性の批判に進まねばならないだろう。必然的に命法するこの綜合的命題は、あくまでアプリオリに認識せられ得ねばならないからである。しかしこれはまだ本章でなすべき仕事ではない。

 それにしても、この自律の原理が道徳哲学における唯一の原理であるということは、道徳の諸概念を分析するだけで十分に説明できる。自律の原理は一個の定言的命法でなければならず、この命法が命令するのはまさにこの自律であるということは、かかる分析によって明らかにされている。


道徳性のあらゆる偽の源泉としての意志の他律

 意志が自分自身を規定すべき法則を求めるに当たり、意志が自分の本領から出て、意志の客体(目的)のうちにこれを求めようとすると、必ず他律が生じる。

 そうなると意志は、自分自身に自ら法則を与えるのではなく、客体が自分と意志との関係を介し法則を与えることになる。

 かかる関係は、「私は法則とは別の何か或るものを欲するが故に何か或ることを為すべきである」という仮言的命法を可能にするだけであり、これに反し、「私は何ものをも欲しないにせよ、なすべきことを為すべきである」と定言的命法は命じる。


他律を道徳性の根本概念と想定した場合にこの概念から生じえるすべての原理の分類

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 感情はその性質上、無限に程度の差を含ところから〔善・悪〕を判定すべき一定不変の標準を与えることができない…いずれにせよ私は他律に関する四個の原理の諸説を詳細に論じる労を省いてもよかろうと思うのである…むしろ我々の関心事はこれらの原理が道徳性の根拠としているのはいずれも意志の他律にほかならないことを知るにある…

 「もし我々がこの客体を欲するならば、しかじかの行為を為すべきである」という命法はけして道徳的に命令することはできない。

 絶対的に善であるような意志の原理は、定言的命法でなければならない。

 各自の善意志の格律が自分自身を普遍的法則となすに堪えるということ自体が唯一の法則なのである。

 このような綜合的命題がアプリオリにどうして可能か、ということはもはや道徳形而上学の限界内では解決のしようのない課題である。

 我々は本章で、この命題が真であることを我々の力で証明できるなど提言しなかった。我々はただ道徳性に関して一般的に通用している概念を展開することによって、意志の自律はこの概念と結びついていることを指摘したまでである。

 本章はあくまで分析的に終始しているが、道徳性が決して妄想の所産でないということは定言的命法および意志の自律が真であり、アプリオリな原理として必然的であるということから明白である。

 しかし道徳性が妄想の所産でないと言うためには、純粋実践理性の綜合的使用の可能であることが必要であるが、まずはこの理性能力そのものを批判したううでないと、かかる綜合的使用をすることは許されない。

 そこで最後の三章では、我々のかかる意図(理性能力の批判)にとって十分なだけの要網を述べねばならない。

 あーやばい。頭痛と吐気がしてきた。全部書き終えたら温泉行ってマッサージ行く🤓

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