純粋実践理性の動機について 152-184頁

 行為の道徳的価値の本質的なものは、道徳的法則が意志を直接規定するということにかかっている。

 もし意志規定が道徳的法則に適っていても、それが感情を介してだけ行われるならば、その行為は適法性をもちはするだろうが、しかし道徳性をもちはしないだろう。

 動機(心のばね)を或る人間の意志に主観的な規定根拠と解するならば、彼の意志の動機は道徳的法則以外のものであってはならないため、行為が単に法則の文字をなぞるだけでなく、法則の精神を体現すべきであるなら、その行為の客観的根拠は、常にそれだけで同時に主観的にも十分な規定根拠でなければならない。

 それだから道徳的法則を保全するためには、我々は道徳的法則以外の動機を求めてはならないし、そのようなことをしたら、永続きのしないまったくの偽善を生ぜしめるだけである。

 すると我々に残されている仕事といえば、「道徳的法則はどのようにして動機となるのか?」また、「動機になるものが道徳的法則であるとすれば、その規定根拠が欲求能力に及ぼす影響から生じる結果として、欲求能力にどのようなことが起きるか?」そのような事情を慎重に規定することだけである。

 道徳的法則はどうしてそれ自体だけで意志を直接規定する根拠となり得るのか? ということが人間理性にとって解決のできない問題であるのは、自由な意志がどうして可能か? という問題と同様である。

 すると我々がここでアプリオリに明示しなければならないのは、道徳的法則はどうしてそれ自体だけで動機となるのか? という理由ではなく、道徳的法則が動機である限りこの動機は我々の心に何を生ぜしめるか? ということになるだろう。

 我々は意志の規定根拠としての道徳的法則は、この法則が我々の傾向性を挫折せしめることによって、苦痛と呼ばれ得るような感情を惹きおこすことをアプリオリに洞察する。

 そして我々はここにアプリオリな概念に基づいて、快・不快の感情に対する認識の関係を規定し得た唯一の事例をもつ。

 一切の傾向性は相集まって、自己中心的な〔我執〕をなすのである。我執は、自愛、すなわち何ものにもまして自分自身を偏愛する身びいきの我執であるか、さもなければ自惚れの我執であるか、二者のうちいずれかである。

 前者は〔自己愛〕と呼ばれ、後者は〔独りよがり〕と呼ばれる。

 実践理性は、もっぱら自己愛を挫折せしめるか、道徳的法則に先立って我々の心に萌すような自己愛であれば、これを法則との一致という条件に制限する。そしてこの場合の自己愛は理性的自愛と呼ばれる。

 しかし実践理性はいまひとつの自愛、すなわち独りよがりを徹底的に打ちのめす。この偉がり(自己尊重)の念に発する一切の欲求(道徳的法則との一致に先立つ欲求)はすべて無効であり、正当な権能をいささかももつものではない。

 道徳的法則は、知性的原因性としての自由の形式であるから、この法則は我々のうちにある主観的な対立物としてのこれらの傾向性に反対し、独りよがりを貶めると同時に、実にそれ自身が尊敬の対象となるのである。

 それだから道徳的法則に対する尊敬は、経験的起源をもたないような、知性的根拠によって生じるような感情であり、この感情は我々がまったくアプリオリに認識し得ると同時にその必然性を洞察し得る唯一の感情である。

 感性的存在者としての我々の自然的本性の在りようは、欲求能力の実質(傾向性の対象)が頭をもたげると、パトローギッシュに規定された自己がとうてい普遍的立法たるに堪えない様々な要求を持ち出して、まず第一にこれを充たされねばならない根源的欲求として認めさせようとする。

 我々の意志の主観的規定根拠を、客観的規定根拠たらしめようとするかかる性向は、自愛と名づけられてよい。

 またこの自愛が、自分を立法的であるとして自分自身を無条件的な実践的原理に仕立てようとするならば、そのような自愛は独りよがりと呼ばれてよい。

 ところが道徳的法則(それのみが真に客観的であるところの法則)は、自愛が最高の実践的原理に及ぼす影響をすべて排除し、自愛の影響力という主観的条件を指示するところの独りよがりを徹底的に挫折せしめ、我々を謙仰(知性において自分自身の無価値を認める)ならしめるのである。

 〔謙仰〕の感情は、我々の意志の規定根拠である限り、それ自体で〔尊敬〕の感情を喚起し、積極的に道徳的法則の根拠となる。

 それだからこの謙仰の感情は、また道徳的法則に対する尊敬の感情でもあり、道徳的感情と名づけられてよい。

 道徳的感情はまったく理性によって生ぜしめられたものであり、かかる感情は行為の判定に役立つものではなく、ただ行為者が道徳的法則を自分の格律たらしめるための動機として役立つでけである。

 〔尊敬〕は常に人格だけに関係し、決して〔物件〕に関係するものでない。物件は、我々のうちに傾向性を呼び起こしこそすれ、尊敬の感情を喚起することはできない。また対象が動物(例えば犬猫などのペット)であれば愛着を、あるいはまた大洋や火山であれば恐怖を呼び起こしはするだろうが、決して尊敬の感情を喚起することはできないだろう。

 道徳的法則を承認することは、実践理性の活動を客観的根拠に基づいて意識することであるが、しかしこの活動はパトローギッシュな原因に妨げられるという理由で、そのはたらきを行為において表示することができない。

 それだから道徳的法則が主観の独りよがりを貶しめることによって傾向性の妨害作用を減殺する限り、道徳的法則に対する尊敬は感情に及ぼす間接的な作用であり、従ってこの尊敬は行為者の法則を尊奉せしめる動機であり、法則と一致する行状を規定する格律の根拠にほかならない。

 この動機の概念から関心の概念が発生するが、道徳的に善なる意志においては法則そのものが動機でなければならないため、道徳的関心は感性に関わりのない純粋実践理性の関心である。

 ところで格律の概念も、やはり関心の概念に基づいていており、格律は、法則の尊奉に対する関心に基づいている場合にのみ、道徳的に純粋なのである。

 これら三個の概念〔動機〕〔関心〕〔格律〕は、かかる存在者の自然的本性が制限されていて、存在者の内的性質に基づく障碍が、存在者の前に立ちふさがっているところから、行為するにはなんらかの動機を必要という事実を前提しているため、有限的な理性的存在者にしか適用されない。

 道徳的法則に尊奉を命じる実践理性の声は、不逞きわまる犯罪者をも戦慄せしめ、彼をして道徳的法則の前からひそかに姿を隠さざるを得なくする。

 尊敬の感情は実践的なものにのみ関係し、この感情は快楽にも苦痛にも数えられ得ないが、それにも拘らず法則の尊奉に対する関心を生み出す。

 我々はこのような関心を道徳的関心と名づける。そもそも道徳的法則に対してかかる関心を懐く能力が、取りも直さず道徳的感情だからである。

 ところで「何ものにもまして神を愛し、君の隣人を君自身のごとくに愛せよ」という命令の可能性は、上述の趣旨と実によく一致するのである。

 神に対する愛は、神は感官の対象ではないから、傾向性(パトローギッシュな感性的動因による愛)としては不可能である。

 また隣人に対する愛は、命令され得るものではないから、他者の命令のままに何びとかを愛するということは、人間の能力の能くし得るところではない。

 するとおよそ法則の核心にかんがみて愛と言えるものは、実践的愛だけである。神を愛するとは、実践的愛という意味において神の命令を進んで果たすことであり、また隣人を愛するとは、彼に対する一切の義務を履行することである。

 我々は福音書の道徳説について、何も信心ぶるわけでなく心底からこう言ってよい。

 福音書は、何よりもまず道徳的原理の純粋性によって、人間の善き行状を彼等の目の前に提示せられた義務の規律に服せしめ、人間の独りよがりと自己愛とに謙仰という制限を設けたのである。

 義務は有限的な存在者に、およそすべての点で道徳的に完全無欠であるという夢想に耽ることを許すものではない。

 義務よ! 君の崇高にして偉大なる名よ。この名を帯びる君は、媚び諂って諸人に好かれるものを何ひとつ持合わせていないのに、ひたすら服従を要求する。

 義務は自らのうちに独自の法廷をもち、道徳的理念に従い対象の価値を表示する言句はこのような起源に由来する。

 一切の被創造物のなかで、我々が欲するままに処理し得る物は〔手段として〕使用され得るが、ただ道徳的法則の主体である人間だけは〔目的自体〕である。

 人間は自由による自律の故に神聖であり、かかる自律の故に、いかなる意志も、理性的存在者の自立に一致するための条件に制限されているのである。

 理性的存在者は、決して手段としてのみ使用せられるものではなく、同時にそれ自身目的として使用せられねばならない。この世界における理性的存在者を神の意志による被創造者と見なすならば、我々がかかる条件を神の意志に帰するのはしごく当然である。このような条件は、理性的存在者の人格性に基づくものであり、このことによってのみ理性的存在者は目的自体となるのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?