第二章 通俗的な道徳哲学から道徳形而上学への移り行きⅠ 51-64頁

 或る行為が、それ自体としては義務にかなっているにせよ、その行為の格律が道徳的根拠と義務の表象に基づいているという事例を経験によって立証することは不可能である。

 なぜなら、道徳的価値は行為そのものより、むしろ行為を規定する内的原理が問題となり、行為は我々に見えるが、しかしその行為の内的原理のほうは見るわけにはいかない。

 ※例えば、街角で募金する人の行為の内的原理が傾向性からか義務からかは我々には見えない(もっとも義務からの厳格な命令なら募金という行為を表象することはないと思うが…)

 我々が義務の法則に対して懐く尊敬を心に確保できるのは、次に示すような信念にほかならない、ー広大な意義をもつ道徳的法則は、すべての理性的存在者に絶対的に妥当せねばならないということは否認できるものではない。理性はこれまで実例を示さなかったような行為を、経験に関わりなくそれ自体だけで何が為さるべきかを命令するという信念である。

 福音書のなかの聖なる人も自分自身についてこのように言う、「汝等は何故に汝等に見えるものを善と言うのか、汝等に見えぬ神ひとりの他に善の原型なし」(ルカ・一八章18-19)

 ところで我々は、最高善としての神の概念をどこから得たのだろうか、ほかならぬ〔理念〕から得たのである。

 上述したところから次のことが明らかになる、ー①道徳的概念はすべての起源と所在とをアプリオリに理性のなかにもっている。②道徳的概念は経験的認識から抽象され得るものではない。③道徳的概念がこのように純粋であるということこそ概念が尊厳を保有する所以であり、我々に対する実践的原理となる。④我々がこれらの概念に経験的なものを付加するにつれ、その純粋な影響力と行為の無限の価値とは減損される。

 さらに道徳哲学は思弁哲学と異なり、理性的存在者一般に例外なく妥当すべきであるとする建前から法則を理性的存在者一般という普遍的概念から導来する。

 こういう次第で、我々はまず第一に道徳哲学を人間学から独立させて(道徳哲学を人間に適用するには人間学を必要とするが)これを形而上学(純粋哲学)として余すところなく論述する。

 道徳は、純粋哲学として道徳形而上学をもたないと、理性の実践的使用において(またとりわけ道徳教育において)道徳を純正な原理の上に確立することも、またこれによって純粋な道徳的心意を生ぜしめ、世界において可能な最高善を促進するためかかる心意を深く人心に植えつけることもできないであろう。

 我々は、前章で普通の道徳的判定から段階を追って哲学的判定に進むということした。

 本章では、実例を頼りに模索するのでなければ進み得ないような通俗哲学から形而上学へと自然的段階に従い進み行くため、我々は実践的理性能力を規定する普遍的原理から出発し、かかる能力から義務の概念が発生するところまでこの能力を追求し、かつ明確に叙述せねばならない。

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