記録の儀礼の外部へ(とりあえずのスポーツ人類学入門第2回)
スポーツと記録
スポーツにおいて記録とは何でしょうか?
競技の成績あるいは結果。これがスポーツの記録で私たちの大好物です。私たちが毎日触れているスポーツとは、実のところ、このような競技記録についての情報の束であると言えます。この記録情報だけでスポーツ好きな人なら一喜一憂し、気分を良くしたり、悪くしたりすることができるでしょう。
スポーツの歴史について重要な本をいくつも書いたアレン・グットマンという人は、近代スポーツを規定するに当たって--つまりそれ以前の前近代的なスポーツ(*スポーツ人類学で伝統スポーツ/民族スポーツと概念化されている身体運動)との差異を見出すことにおいて--この記録という概念を重視しました。事実、彼の代表的な本のタイトルは"From Ritual to Record: The Nature of Modern Sport"(『儀礼から記録へ--近代スポーツの性質』)というものでした。
グットマンの打ち出したスポーツの近代化論は、そのわかりやすさもあって大変広く知られています。その後の多くの研究者は彼の近代化論を議論の出発点として、近代スポーツとは何かを考えることになります。
ところで"The Anthropology of Sport: Bodies, Borders, Biopolitics"(『スポーツ人類学:グローバリゼーションと身体』)の著者であるベズニエ、ブロウネル、カーターらはこの記録について、近代以前にもそうした記録作成はあったという他の研究者の主張も踏まえながら、グットマンの議論を補完して次のように述べます。
続けて、ドイツ生まれでデンマークを中心に活躍するスポーツ研究者・ヘニング・アイヒベルクの見解を次のように紹介しています。
私は、近代社会を生きる私たちが、依然として儀礼的コミュニケーション(かつてそれは近代化とともに必要なくなったとされた)を必要としており、スポーツもまたそのような儀礼的コミュニケーションの典型的な実践であるということを理解するためにも、この「記録の儀礼」という視点を持っておくことは重要だと思います。
オリンピックに代表される今日のスポーツ界は、こうした記録の達成と更新を最大の価値と考える人々の集合体であると言えます。以前、私もこの記録の生成過程についてマラソンの世界記録を事例に論じたことがあります(小木曽航平(2021)「スポーツする身体の人類学」『文化人類学研究』21: 12-36)。
記録の外部
あるスポーツの進化やあるアスリートの強さは、競技成績の記録化と数量化、そしてアーカイブ化、また、それらを伝えるメディアといった記録作成装置によって権威を付与されていきます。このシステムがなければ、今日のようなスポーツのグローバル化はあり得なかったでしょう。
しかしながら、そのようなあるスポーツの進化やアスリートの強さは記録というものの客観性や透明性が当然持ち得るはずの安定性を欠く場合があります。あるスポーツが面白いとか、あるアスリートが強い/速いなどという判断は、その根拠であり得るはずの記録(数字)を無視して語られたりもします。
例えば、もしもあの選手が今も生きていたら、現在の世界記録よりもっと速かったに違いないとか、あるいは、数字上で言えば物足らないように見えて、あの選手はそれ以上の働きをしていると言ってみたりすることはあるでしょう。
私たちは、どれだけ客観的な記録や数字を目の前に出されても、そうそう単純には誰それが強いとか、あるいは弱いとか決めつけません。そこにはスポーツの強さや勝負についての多様な解釈が存在しているし、むしろそのような強さの偶然性にこそ、人は何がしかを見出しているのかも知れません。このようなスポーツ記録に対する物語化や転倒、スポーツにおける強さの不確定性について考えるとき、人類学者の久保明教の議論はとても参考になります(久保明教(2018)『機械カニバリズム』講談社)。
もしかしたら、記録という近代スポーツが/を生み出し、近代スポーツを成立させているイデオロギーの外部に出現するものに目を向けることで、スポーツの別の輪郭がはっきりと見えてくるのかも知れません。予測可能性を裏切る偶然性が、勝敗による単純な力の序列化を超えた、深い経験の位相をもたらすこともあるはずです。スポーツ人類学では、スポーツにおける勝負や競争の意味をその深い経験の位相で考えてみる必要があるのではないでしょうか。
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