なぜ、スポーツを人類学するのか(とりあえずのスポーツ人類学入門第1回)
どれほど続くか分からないですが、私自身が考えるスポーツ人類学について、とりあえずのものを書き留めていきたいと思います。今回はそのためのまえがきとして、そもそもなぜスポーツの”社会学”やスポーツの”歴史”ではなくて、”人類学”なのか?という点にフォーカスしてみます。
近代スポーツの両義性
スポーツは近代の産物である。
このことはよく知られた理解ですが、一方で、この見通しが、スポーツの持ち得るいくつかの興味深い側面を見落としてしまう可能性があるのも事実です。例えば、暴力性、偶然性、霊性などです。
スポーツの近代化はN.エリアスの文明化理論やA.グットマンの七つの特徴-平等性、官僚化、専門化、合理化、質量化、記録への固執、世俗主義-で語られることが常ですが、上に挙げた三つの側面-暴力性、偶然性、霊性-は、そのようなスポーツの文明化/近代化論で捨象されたり、後景化されるものと言えます。そして、あくまでスポーツは文明化/近代化された世俗の活動とされ、学術的にもその範囲内で議論されます。
ただし、要点は、暴力性、偶然性、霊性といったいわゆる理性を逸脱していく超越的な出来事がスポーツから消え去ったわけではないことです。より突っ込んで言えば、これらは現代のスポーツシーンにおいて巧妙に飼い慣らされているだけで、常にそのすぐ側にあるということです。私がスポーツを熱心に見てきたのは、そうした超越的なもの(神的で暴力的なものと言い換えてもいいです)、あるいは魔術的な世界、とでもいうイメージをそこに見ていたからだと思います。
難しいことを言わなくても、現代において、神なんて大それた異名が屈託もなく使われるのは、スポーツの世界ぐらいではないでしょう?バスケの神様(マイケル・ジョーダン)、サッカーの神様(ディエゴ・マラドーナ)。最近では、村”神”様。しかし、こうした異名はときにリアルな実践を伴うものでもあって、事実、マラドーナは本当に神として崇められています。
このようなスポーツの超越的な側面あるいは非合理的な部分を考えていく上で、人類学が蓄積してきた理論や視点はとても相性がいいのです。それはなぜなのでしょうか。
それはなにより人類学(あるいは民族学)が、レヴィ=ストロースのいう「野性の思考」についての学問であり、異なる他者の合理性に真摯に向き合ってきたからです。ここでの他者はまず非西洋人(未開社会)として現れました。彼らは近代化した”私たち”とは異なる考えや行動をとっている。例えば、その最たる例は神話や呪術、つまり西洋近代から見れば非合理的な思考や実践でした。しかし、それらを劣ったものとみなさず、そこにある秩序や論理を見出し、”私たち”の近代を捉え直すこと。それが人類学の大きな目的の一つでした。
人類学が明らかにしてきた近代社会とは異なる社会において、暴力性、偶然性、霊性といったものは時として積極的に却られるものではなく、むしろ恐れ多くも敬うべき世界の構成要素としてリアリティを保っています。しかし、超越的で非合理的なものに対するリアリティは、近代化を遂げたと考える私たち日本人には、すでに説得力を失っているものかも知れません。
私たち近代人が愛してやまないスポーツの世界は、確かにエリアスやグットマンが指摘するように優れて近代的な側面を持っており、その平等性の追求は凄まじいものがあります。厳格に定められたルールの下、公平な競争を行う。だからこそ、スポーツの価値とインテグリティは保たれる。そして、そのような平等原則の中での公正な競争をあらゆる面で行っていくことが、私たちの社会をより良く発展させるベストな方法である(西洋人がスポーツを通して植民地の人々を市民化したことを思い出してください)。しかし、本当にそうでしょうか?
上の引用は、人類学者のD.グレーバーが「規則のユートピア」という視点から、人が官僚制(これもまた近代社会を特徴づける制度)とゲームにのめりこんでしまう理由について考察する箇所です。
確かにルールを持つゲームの単純明快さは私たちにある種の中毒症状をもたらしてくれます。ルールに則ってプレイすれば、予想される成果を必ず得られるのですから。ただ、同時にグレーバーは、ルールのあるゲーム(形式の実行)とルールそれ自体を創発しもするプレイ(形式の生成)との差異を指摘します。
そして、このグレーバーの議論で、私が最も共感したのがプレイの破壊的な側面についての言及です。インドの科学哲学者であるシブ・ビスナバサンを引いたあと、グレーバーは次のように述べます。
そして、次のようにいうのです。
ゲーム、規則(ルール)、官僚制、プレイ。これらは、近代以降のスポーツの両義性と、そしてまたスポーツの社会的価値を理解する上で重要なキーワードとなります。
ゲームの近代、プレイの未来
冒頭に述べたような近代化したスポーツが後景化した暴力性、偶然性、霊性。それらはゲームをしててもなお、そのちょっとした隙間から顔を覗かせるプレイの破壊的な創造力の現れではないでしょうか。合理的な遊びの中に非合理的な遊びが潜んでいる。そのプレイへの恐怖を平等性、官僚化、専門化、合理化、質量化、記録への固執、世俗主義で封じ込める。私たち近代人(そう呼んでよければ)はバリ人が熱狂するようなディープ・プレイを好まないように仕向けられている。
他方で、私たちはスポーツやアスリートにプレイの創造性を求めます。常識では考えられない出来事や存在をそこに期待しています。実際、それまで安定していたスポーツの秩序に風穴を開けるような異質な他者が現れることがあります。近年でいえば、キャスター・セメンヤやエリウッド・キプチョゲ、そして大谷翔平などは、その瞬間、ゲームのルールを一変せざるを得ないような他者としての可能性を持った存在ではないでしょうか。スポーツの歴史とは一方ではこうした異質な他者の到来とそれによるルールの創造と破壊。そのような歴史でもあるはずです。
C.ギアーツのバリの闘鶏についての優れたモノグラフをはじめとして、人類学の知見の中には、近代のスポーツが押し込めたかに見える恐るべきプレイの側面について考えるのに適した、素晴らしい材料がたくさんあります。と同時に私たちの住む身近な世界には、破壊的なプレイに魅了された人々がたくさんいます。プレイが未だ十分に飼い慣らされたとは言えないスポーツやゲームが実はまだ存在しているのです。
スポーツを人類学することによって得られることがあるとすれば、スポーツがもつ両義性の、ゲームではなくそのプレイの側面について考察を深め、人間にとってスポーツをすることが持つ意味を社会学や歴史学とは異なる視点から引き出してみることを可能にする点ではないでしょうか。このために、私たちはスポーツがここまで影響力を持った背景に、スポーツの矛盾した両義性-ゲームとプレイ-が存在していることを理解する必要があると思います。
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