見出し画像

体温と同じ水

地上42階、見下ろすように皇居が一望できる社員食堂。ここのランチは味がいいが、いつ来てもコーヒーがぬるい。冷めたコーヒーを飲むたびに、住所は忘れてしまったあの部屋をどうしようもなく思い出してしまう。

家賃58,000円。6帖の小さいリビングに1.5帖のキッチンとユニットバス。なんでも手に入ると夢見ていたその部屋は、古いお風呂みたいに熱さと冷たさが狭い箱に同居していた。

--*--

入りたい大学がたまたま東京にあるだけだよ
東京に行きたいわけじゃない

進路を決めるときに何度も言ったセリフ。親の反対を押し切って決めた第一志望。上京するなら国立しか受けさせない、と出された条件をぼくはクリアした。

東京の家賃相場は想像以上に高く、築浅物件なんて夢のまた夢。大学にギリギリ徒歩で通える最安の物件を見つけた。全部屋北向きの、古い階段しかない築35年のマンション。重く錆たスチール製の玄関扉は、昭和の空気を纏ってぼくの気分まで重くした。

そんな日の当たらない部屋を
明るくしてくれたのが彼女だった


東京に来て二度目の秋、文化祭。
3年から入るゼミの手伝いで彼女と同じシフトになった。彼女は学内でも目を引く存在だから顔だけは知っていた。同い年とは思えない大人びた雰囲気。瞳が大きい切れ長の目は、クールさと愛らしさを黄金比で混ぜたような不思議な魅力があった。

その彼女がぼくの隣で鉄板の焼きそばと格闘している。いつもの洗練された服装とは程遠いTシャツ姿に長い髪を団子に纏め、両手で大量の麺をかき混ぜている。それに合わせて揺れる後れ毛が気になって、ぼくはお釣りの小銭を何度も間違えそうになった。

「ソースがほっぺたについてるよ」
湯気が立ち上がる鉄板の前で最後の仕上げに入る彼女に声をかけた。

「いま手がはなせないの。拭いてくれる?」

鉄板から目を離さず言われたセリフにドキッとする。上気してピンク色になった彼女の頬に、そっと人差し指を這わせてソースをとった。驚いた彼女の両手が止まり、大きな瞳でぼくの顔と人差し指を交互に見る。ゴメンとうつむいて、ぼくは慌てて首にかけたタオルで指のソースを拭いた。

まさか彼女と付き合うことになるなんて
そのときは思ってもいなかったんだ

--*--

付き合い始めて1ヶ月。クリスマス仕様に飾られた学食で部屋に行きたいと突然言われた。恥ずかしがるぼくを「いいから、いいから」と言って手をひく彼女。2週間前に部屋の掃除をし、秘蔵のグラビア雑誌を泣く泣く捨てた自分のファインプレーを心の中で褒めたたえた。

並んで歩く道のりは夢みたいにフワフワしてて、寒空の中でつないだ手から伝わる彼女の体温だけがリアルだった。気が付けば部屋の前。彼女の細い腕には重すぎるドアを二人で開けて部屋に入る。「いいじゃん」彼女の笑顔にほっとした。


独り暮らしの部屋に彼女と二人きり。緊張して会話が止まる。壁掛け時計の音しか聞こえない6帖一間の静寂。

ぐうぅぅ~~

彼女のお腹がその静けさをかき消した。瞬間、二人で涙が出るほど笑い合う。「今日は寒いから、鍋…とか、一緒に食べる?」彼女は目だけでうんと言った。

近所のスーパーでじゃれ合うように買い物をした。ネギも豆腐も白菜も、豚肉までがキラキラ見える。世界で一番幸せだ!と叫びたい気持ちを必死にこらえた。少しでも長くここにいたくてゆっくり店内を歩く。
「一番列が長いレジに並ぼう」同じ気持ちの彼女の言葉が嬉しかった。


鍋を食べ終わると、夜は静かに進んでいた。小さいテーブルに並んで座るぼくたちに再び沈黙が訪れる。視界に入るだけで見ていない、テレビ番組の音だけが流れ続けていた。

なんて言えばいいのだろう? 自分の辞書にない言葉を探しても何も見つからない。沈黙に耐え切れなくなった口から、自分でも驚くほどベタな言葉が滑り落ちた。

「朝ごはんもいっしょに食べたい」

驚き、迷い、ほんの少しの安堵。 色んな感情が混ざった彼女の瞳が揺らめいて見えた。
「準備は大丈夫なの…?」

「食材はないけど、準備は…大丈夫」


--*--


「コーヒーいれたよ」

湯気のたつマグカップと茶碗を持ち、ぼくのルームウェアを着た彼女にドキドキする。ベッドにもたれ朝のワイドショーを並んで見た。むかし憧れたドラマみたいなシーンに口元がゆるむ。マグカップの湯気が消えるころ、彼女が残りのコーヒーをゴクゴクと飲み干した。

「コーヒーのいっき飲みが好きなの??」
「好きなわけじゃないよ。冷めたコーヒーが嫌いなだけ。飲んでると分からない? コーヒーが冷める瞬間。体温と同じになったときなのかな? 」

よく分からなかったが、へぇと頷いた。彼女の話に耳を傾けながら、ぼくは茶碗のコーヒーをゆっくりと飲んだ。

とても温かい冬だった
あんなに温かい冬とはもう二度と出逢えない、そんな気がする

--*--

春になりゼミの活動が本格的になると、遅くまで学校に残ることが増えた。彼女が部屋に泊まる回数も増え、週1が2になり、いつしか泊まらない日の方が珍しくなる。3食とも一緒の食事を何にするか悩んだり、深夜まで友達と飲んで怒られることさえ楽しかった。一人分しか干せない洗濯ハンガー、一つしかないマグカップと洗面台のコップ。足りないものだらけだった小さな部屋は、幸せでいっぱいだった。

『3年の夏からが勝負だぞ 』
憧れの総合商社に入社した、ゼミOBの言葉通りにバイトと英会話学校に明け暮れた夏休み。彼女と会えない日が続いたので、せめてもの罪滅ぼしにと自転車をプレゼントした。この部屋と学校の往復専用。「ここにも来やすくなるね。あなたのほうが最近部屋にいないけどさ」と嫌味を言いながらも彼女は嬉しそうだった。

その年の夏は驚くほど突然に終わり、急に朝晩の冷え込みが厳しくなった。一面に広がる稲穂の色で徐々に深まる秋を感じる地元とはまったく違う。「東京は季節が変わるスピードまで速いんだね」と東京育ちの彼女に聞いたことを覚えている。

その頃、文化祭の実行委員長に選ばれたぼくは、連日目の回る忙しさだった。部屋で待つ彼女に「先に食べてて」とLINEを送る日が増える。「がんばってね」という彼女の返信に気が付かないほど大学中を走り回っていた。部屋に帰っても授業の課題に英語の勉強、常に何かに追われている日々。ぼくに気を使い彼女は部屋のテレビをイヤホンで見ることが増えた。音をだしていいよ、と声をかけても彼女は優しい目をして首を横に振るだけ。

いま思えば
彼女の目は優しさより淋しい色が濃かった気がする。あのとき、それに気づいていれば…。『一緒にテレビ見ていい?』と隣に座ったならば、彼女の笑顔が見れたのだろうか? 解答用紙をなくした問題を頭の中で繰り返すのは、年をとったせいかもしれない。

--*--

文化祭まで1週間をきった、ある日。
その日は、早く帰ると約束してたが教授に呼ばれ遅くなってしまった。希望していた商社のインターン募集枠の話。ぼくを推したいという教授の言葉に舞い上がり、話し込んでしまう。部屋で待つ彼女に「あと30分だけ」とメッセージを数回送ったが、3回目以降は既読マークがつかなかった。


牛丼屋のテイクアウトを持って、そっと重い玄関を開ける。まだ寝るには早い時間だが、彼女はベッドで壁向きに横になっていた。「ごはん買ってきたよ」という言葉にも、振り向いてくれる気配はない。

卵を取りに開けた冷蔵庫の前でぼくは固まった。ネギに豆腐に白菜、豚肉。鍋の具材が揃っている。開けっ放しの冷蔵庫から漏れる冷気が、部屋の温度をわずかだけ下げる。

「ごめん、明日は必ず早く帰るから…」
彼女の背中に語りかけた言葉は、音もなく床に落ちた。

--*--

翌朝、コーヒーをいれてくれた彼女がテーブルを挟んで正面に座った。

「出てくね」
急な言葉に眠気が一気に醒める。
リップをひいた彼女の口元はきつくとじられていた。
「ごめん! きのうのことは本当にあやまるから…」

「きのうのことだけじゃないの!」
初めて聞く彼女の大声にぼくの体がビクっと反応する。

「前から考えてたの。少しづつあなたの気持ちが冷めていくのが、ほんとうにさみしかった」
そんなことはない、キミへの気持ちは冷めてないと力説する。

「あなたのあたたかいは、私にとっては冷たいよ…」

いくね、と言う彼女を玄関まで追いかけた。
「もしかして…  ほかに好きな人ができた?」

ぼくに背を向け、玄関の照明を見上げた彼女の声が微かに震えた気がした。
「どうしてそんなこと言うかなぁ…」

サヨナラ

押し開けたドアから出ていく彼女は、ぼくを振り返らない。

ガッチャン

耳にこびりつく嫌な音が、部屋中に響いた。

--*--

どれくらい時間が経っただろう。
力ない指でPCを開く。賃貸サイトで6万円以下にチェックを付け、こだわり検索に「静かに閉まるドア」と入れた。

検索結果は0件

ペアのマグカップには、冷え切ったコーヒーがなみなみと残っていた。



*『東京嫌い(2020)』収録作品

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?