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限りある時間の中で、誰の笑顔を見にいくか。誰と生き、誰と泣くか。

(あぁ、楽しいなぁ。)と思う瞬間が最近増えた。

新卒の会社にいた頃、1日の内の感情がジェットコースターのように、何度も浮いたり沈んだりした。年齢もあったかもしれないけれど、対ひとだった職業だったから、そこにはいつも「精一杯」しかありえなくて、「正解」はなかった。

誰かが示した「正解」で大失敗するときもあるし、自分の「精一杯」で大成功して、1時間くらい泣けた日もあった。

共通解がそうだから、よく職員同士ぶつかった。

でも、自分が苦手のことを他の職員があっという間に片づけていたり、逆も然りで、顔を突き合わせる時は、言葉にはしないけれど、いつもお互いへの尊敬が根底にあった。

「そんな風にはふるまえない」と泣かれた時も、「そのやり方は許せない!」と罵声を浴びせられた日もあったけれど、全員が何に必死かがわかっていたから、慌てることも、悲しくなることもない。

(その真意はどこだ?)

といつも考えていた。相手が(言い過ぎた、、)と落ち込む日もなんとなくわかって、そんな日はくだらないことを話題にしながら、夜更かししたりして、次の日ちょっと後悔したりして。

≪友人たちと食卓を囲むのが何よりの幸せ≫

そんな毎日のおかげで、助け合いが自然に起こりあう環境は、人柄でも家柄でもなくて、環境なんだとわかった。

それが原体験だから、奪い合いや騙し合いが続く世界が終わらないことはないと信じている。

そういう世界に苦しんでいるときの自分は、「今」そこにいるだけ。分け合って、主張し合って、っていう、そういうやりとりができる空間に、間柄の中に、「今」いないだけ。そう思えるようになった。

誰かがその中で泣いていたら、顔を上げて息を吸ったタイミングで手招きをしたいし、「そこにいていいの?」と聞いてみて、「嫌だ」と言われたら、一緒にその場から逃げる、抜ける策を考えたい。

私がしてもらったように、私もその子を信じたい。

誰の笑顔を見にいくか。誰と生き、誰と泣くか。

考えて行き着いた地点から、一歩踏み出し始めた。

≪この距離感で時間を共有することを大切にしている≫

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