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成人の日のお祝いに

成人のみなさまおめでとうございます

コロナ禍で中止とかいうときもあっただろうけど、今年は開催できた方なのかな?

オミクロン禍ではあるようだけど、少なくとも地元では無事開催できたのか、三連休最終日(冬休み最終日でもある)、家族との時間はそこそこに事務所にやってきた(3児ワンオペの機会も多かった冬休み、発狂するほどのようなこともなかったけども、ひとりはあのプリントどこ~ひとりは、ラーメン食べたい・お茶ちょうだい、ひとりは朝ごはん希望も、こだわりはロールパンにチーズのせてケチャップでっていう指定だがチーズがないので、りんごジャムでいいかというと、まあいい、という具合だったので、ラーメンづくりは兄に指示しながら、プリント探したり、とかいう感じで、お茶は運ぶから自分でいれる、ということに、っていうあと)

中学校の前を通ると、晴れ着の女子たちが校門の前で、先生らしき人にご挨拶、なのかな?中学校の卒業生???転勤までのスパンが長いと、教え子が卒業後も晴れ姿を見せに来てくれるということかな?いいねー

素晴らしいな~と、ひとり、22年前の自分の成人式を思い出す

転校生にとっての成人式、とは


無名人インタビューで、転勤族だったことを語っている

九州地方に生まれて、山口・広島・千葉・静岡・東京と転々と移り住み、入学した学校と卒業した学校が異なるのは当たり前で過ごし、高校こそ静岡で一貫したけども、父は単身赴任をしていて、大学進学はひとり暮らしとともに、地元の消滅

実家に帰っても知人はいないという環境で、このとき住民票も独立していた

ひとり暮らし先に住民票があるから、そこから、成人式の案内が来る

でも、大学進学のために初めて住んだ街に知人もいない

そういう案内無視して、行きたいところに行ってもいい説もあったけど、結局は、案内どおり、ひとりで参加した

晴れ着の記念撮影こそは実家で済んでいたので、スーツでひとりで参加する

ひとりでお祝いしてもらう

周りは、いわゆる成人式の晴れ着姿があふれ、やはり懐かしい再会が多いのか、同窓会っぽい盛り上がり

そもそも参加しないっていう話も聞くけども、行ってよかった、市にお祝いしてもらってよかったな、と思う

内容はあまり覚えていないけど、なんか祝福された印象だけは残る

ひとりで参加する20歳のメンタルに我ながら惚れ惚れする

そういうことを振り返る自転車での移動中、オープンカーで成人数名が、いわゆるハコノリ?して暴走していた

一般道なのに追い越ししているのとか、普通に違法ではないだろうか?

スピードも怖いほどだったが、パレードのつもりなのかな?

わからないけども

おめでとー

という気分にはなった

この春成人年齢が18歳に引き下げられる法改正がある

20歳成人最後の世代である(ひょっとすると、成人式自体はこれからも20歳に行うものかもしれないけど)

目に余る悪行を擁護する気にはならないけども、生まれてきたこと、いろいろあったであろう20年を経て、成人を迎えられたということは、本当に素晴らしくめでたいことである

そんな派手なことをしなくたって、親に記念の成人祝い写真を撮ってもらい(これがきっかけでスタジオアリス文化に通じた気がする)、地味だけど祝福される中(当時は、祖母も健在で、お祝いのメッセージをもらっただけで嬉しかったし、叔父叔母にも見守られるというだけで、自己肯定感は満たされたのかもしれない)、成人として新たに生きていく上での最低限の自信を持てたりする

ひとり出かけて、お祝い品もいただいて、静かに帰る

それだけだったと思うけど、私はたしかに祝福されたのだった

20歳、大学2年生・・・その年の終わり、21歳の冬に、司法試験を目指そうと思いついたように記憶している

とってもどうしたものか、情報収集くらいから始めるものの、なかなか

ロースクールのことなどしばらく知らなかったから、他学部からの挑戦はそれだけで不利だった

とはいえ、受験生5万人時代に向かうという、予備校が最も繁盛して、広告も熱心だったと振り返る(当時はそういう意識はできていない)

卒業に必要な単位はとっていたし、大学4年生の秋には、教育実習も行って、教職の選択肢も残してあった(といっても、それ自体狭き門だったようで、現実的ではなかったけども)

半年限りの入門コースでマスターするのだという気合が入っていた(通常1年以上コースだったりする)

卒業論文を残しつつも、受験勉強を始めると、しかし、とにかく果てしない道のりだった

まず、短答式試験の問題を読むことすらしんどい
当時の旧司法試験では、短答式(マークテスト)は、60問(憲法民法刑法がそれぞれ20問)で、合格ラインは45点前後、3時間半の間に解くから、1問につき3~4分しかない

A4の丸々1頁にも及ぶパズル的な問題もあったりして、読むだけで時間が過ぎていくし、読んでもさっぱり答えの方向さえわからないこともある

30点台から伸びないという時期も長かった

膨大な試験範囲を何回も繰り返し網羅して初めて、点数が伸びるという世界だった

大学を卒業したときには、司法試験に合格したい、という夢こそあったが、夢しかない、まだ若かった親(今思えば40代だった?!)に頼りながら、何者でもなかった(ただし、先生のアドバイスで、大学院生の身分だけは手に入れていた・・・後に中退する)

大学を卒業して早速司法試験を受けて、その日の内に惨敗を知る

それは想定内ではあったから、いよいよ改めて受験生としてのチャレンジを尽くそうと、その日の気持ちは燃えていたと思う

しかし

人生には想定外のことが起こる

だいたいが、いつも転勤の辞令も唐突で、転校を重ねたことだって想定外ではあったけども、遠く離れて暮らしていても、いつも見守って応援してくれていた大好きなおばあちゃんの、余命宣告が伝えられる、なんてのは、まさしく想定外だった

いつまでも元気でいてくれるだろうと信じて疑わなかったおばあちゃんには、合格報告までは会いにいかないくらいのつもりで、司法試験に挑戦しようと決意していた

試験(短答試験は旧試験では「母の日」が定番である。本当に過酷な試験は、7月の暑い日にある論文試験だけども、その入口にさえ立つのが苦労するレベルであっ)が終わって、本当にすぐあとのことだと思う

病院に行って、緊急検査入院が必要だという話になって、母も駆けつけていった

医者のいうことは信じたくなかったけども、悔しいほどに的確だった

応急的に手術すると手を施せなくて、とりあえず日々の暮らしの支障を取り除くための措置は済んで、それ自体は成功、一瞬は元気な日々が戻っていた

予備校には通っていたけども、おばあちゃんにも会いに行く
そんな風に1年弱を過ごすことになって、受験生としては身が入りきっていなかったのもそのとおりである

言い訳めいた話にしかならないが、予備校には真面目に通うも、まったく伸びない

分厚い闇の壁の中で、突き抜けるものもなかった

一時的に元気になった祖母が上京して、ディズニーシーに行く、なんてこともした

だから、医者の余命宣告は嘘なのだと思いたかった

でも、年明けにガクンと変わる

ついに近所にお出かけするのもきつく、今やほとんどの方が亡くなってしまったけども、当時は健在だったきょうだいたちが日のあたるお縁に集まって、毎日お茶会をして過ごし、なんと穏やかに美しく輝く日々だったろう

それでも、ついに、貧血がひどくなって、そういう日も終わりを向かえる

入院することになってしまった

もう戻ってこれないこともなんとなく覚悟が広まっていた(今は逆に在宅での終末期医療とかなのかな)

近所だったので、お縁に集まっていたきょうだいたちは、病院に顔を出す

入院している夜もさびしくないように、誰かが必ず泊まりこんでいた

東京から駆けつけていた母も可能な限りは付き添いつつ、やるだけのことはやったし、といって東京に戻ってきていた

また母の日が近づいてきた春

受験生にとっては直前期といわれる最もハードな季節になっていたけども、入院しているおばあちゃんに会いに行きたくて、母と喧嘩して家出した体で会いにいった

夜行列車に乗っていったのだった

とても天気がよくて暖かな日、タクシーで病院に向かう

2泊ほど病院にも泊まった

まだ起き上がれたり、いろいろとしゃべることもできた

何するでもなく、一緒に過ごす時間が何より大切で、ま、しかし、受験生としてはどうなのだろう

そんなことはわかっているけど、どうしようもない

逃げというものでもなく、それだけ、司法試験がさすが難関過ぎて、比較にもならず、迷うことなく、受験生らしさよりも、祖母との時間が優先された

その判断に今も後悔はない(そんな環境ながらめげずに努力を尽くし、結果を出す、なんていう美談もあるだろうけど、現実はそういうギリギリのラインでの勝負にもほどとおい世界もあるものよ)

意外に元気かも、と思って、ちょうど1ヶ月後に迫りそうだったのもあって、東京に帰り、さあ受験勉強だ・・・と思ったのも束の間、2週間後くらいに、病床の祖母からの電話がある

東京の母(祖母にとっての末娘)に会いに来て欲しいと本人がいう

明るい声で、答えるけども、母は泣いている

もういよいよなのかもしれない

旧司法試験時代の受験生のGWなんて、最後の仕上げの大詰めなのに、私は母と一緒に九州に行くことにした

いつ帰れるかわからない計画で向かう

世はGWで飛行機も何かと難しい

新幹線でさえ、深夜の到着になりかねない

奇跡的に、深夜バスが2席空いているというので、一晩かけて九州入りする

翌朝になって、無事再会して、会話もできる
ほっと一安心をして、当面また、病院の泊まり番を交代でやろうという話をしながら、まだそういう日が続くと信じていた

でも、末娘も呼びつけて、会えたし、安心したのか、よく晴れた暖かい日曜日を選んだのか、思いがけず早く翌朝に祖母は亡くなった

緊急の電話をもらって、みんなが駆け集まる

日曜日だったから、遅れて医師がやってくる

みんなに囲まれながら、死の宣告を受ける

大好きな祖母を亡くして、すっかり喪の時間を過ごすこととなった

受験生だったことを思い出し、初七日法要を終えて東京に戻り、母に付き添ってもらいながら、受験会場に行って、何かして、全く成長のない結果にショックもなく、祖母を喪失した人生のスタートから始めることになった

祖母のことが大好きなのは、母もまた母を慕っていたからだ

母は21歳で転勤族と結婚して、ずっと離れて暮らしていた

毎日のように電話をしていた仲で、意外に日常生活を共有しているところもあったようだけど、お互いに支え合っていたところもあったのかな

母にとっての母の喪失というものを娘の立場で共有していく
ずっと泣いていた日々、とも違ったけども、やっぱり喪失の日々というのは何かイレギュラーではあった

私には、受験生の立場があるはずなのに、やはり身が入らない

すっかり、仲間もいなくて孤立した状態で、何をどうしたら現状を打破できるのかもわからない迷走の時期に入っていく

もしかしたら、祖母のこととは関係なく陥りがちなことかもしれない

何の成果も出せていないが、コストは発生していく

単なる引きこもりスレスレ・・・
でも、一周忌には少し早いタイミングで、お墓参りができたのが良かったのか、再起していく

あっという間に、三振していくのだけど、少し頑張った分の手応えを得てみる

それにしても、客観的には、何も果たしていたので、大学の恩師には厳しい意見をいただき、それがかえって奮起となった

逃げ道としての、「大学院生」(教育学部)の身分を捨て(退学)、いよいよ追い詰められた状況で、気合を入れ直していく

親の応援も仕切り直しだ

悔しくもありがたい恩師の言葉に従って、孤立勉強ではなく、ゼミに入るべきだ、というアドバイスを実行しようと考えた

それでも、ゼミというものへの縁がないのが他学部出身の人脈のなさである

勉強の仕方自体がわからない
勉強仲間がいない

そこはお金でカバーするしかなく、実力を問わずお金で入れるゼミに申し込んで所属することになった

それにしても、相変わらずチンプンカンプンだったので、復習に注力するしかない闇の冒険であった

1ヶ月単位で扱う科目が変わるし、予習が追いつかない
でも、この頃が一番、いわゆる「勉強」を忙しくやった気がする

世は、ロースクールも並行して、旧司法試験の終末期である
1500人弱合格最終年

翌年以降は、激減して、ロースクール中心の受験制度になる

新司法試験については、ロースクールを卒業しないと受験資格さえない(今は、予備試験というルートもある)

過酷すぎる世界だったろう

異常だった

その末期を間近で見て、本当の闇を知ることにもなる

5000字超えたので、今日はここくらいにしておく

自己肯定感いっぱいの成人式からの5年、何事も果たせず迷走を経て未来も真っ暗だった

そこから一瞬頑張ったけども、厳しい現実が続いてまた迷走、力なくロースクール編に突入するも、さらに迷走、2011年には、離婚・浪人・無職・失権間際の低迷の極み、からの10年経った2022年

共同親権法改正の夢描く今に至るまでの、桃鉄でいうところのキングボンビーまみれの時代を改めて振り返ってみたところに、意外なドラマ性を再発見する

おかげさまでたくましさだけは鍛えられている

30代・40代とますます自由になっている

次にボンビーが来ても、大丈夫かな、なんて、ね

新成人のみなさまにも、祝福に添えて、大丈夫だよ、を届けたい  


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