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221221に迎える1301日目連続投稿記念~共同親権訴訟で訴えていること

noteがリニューアルして、若干動揺している

これが新しい時代を迎えるということなのか。。。

もう、いよいよという実感はある

公開用にお渡しはしているものの、まだ確認できていない最新の準備書面を抜粋して、勝機に繋げたい

1301日目の記念といいつつ、立て込んでいるのである

第1 「第1 民法818条3項の立証趣旨について」への指摘
 単独親権制(婚姻中の父母を原則共同親権、非婚の父母を一律に単独親権とする制度)の立法趣旨の問題である。原告は、この点について、被告の説明も踏まえつつ、正面から具体的に議論してきた。これが訴状から原告準備書面4である。あらためて、確認いただきたい。被告の主張は、具体的な制度の中身との関連も乏しいままに、単に抽象的な価値をキャッチコピーのように述べているだけであるから、あまり意味のない議論であるように思われる。たとえば、被告の述べる立法趣旨のうち、「両性の本質的平等」に至っては、「婚姻中の父母を原則共同親権とし、非婚の父母を一律に単独親権とする制度」という現行制度説明との関係で、論理としてもはや成り立っていないと思われる。
 また、「親権制度の立法目的」という形で、被告は論点をずらしている。繰り返すが、問題は、「婚姻中の父母を原則共同親権とし、非婚の父母を一律に単独親権とする制度」の趣旨である。親権の性質だけを論じても意味はない。親権の性質論には様々な見解があるのであって、原告は具体的な法制度である「親権」自体が基本的人権であるとは一度も述べていない。そのため、親権の性質だけを論じた被告の議論は無意味であり、当然反論にもなっていない。被告の引用する東京地裁令和3年2月17日判決(平成31年(ワ)第7514号)も、憲法13条違反の有無の結論部分において、まさに「親権」自体の人権性を問題としているのであり、本件の議論とはまったく異なる。本件で原告が述べているのは、親が子を養育する利益は人権及び人格的利益であることは疑いようがない、ということである。親には子を養育する責務があり、この責務をまっとうすること自体が親にとっても人格的生存に不可欠な利益である。そして、親権という特殊な法的地位は、親が同責務及び利益を全うするために不可欠な地位である。そのため、「親権」帰属について親自身の資質を問題とすることなく制限しあるいは差異を設ける現行法が養育権侵害及び平等原則違反であると述べているのである。原告は、この論理を訴状から一貫して訴えている。この点を議論深めていただきたかったが、ここにきて完全に逸らされてしまったことは残念である。
 
第2 「第2 現行法の理解に関する原告らの主張が誤りであること」への指摘
 1 被告は、「現行法においては、以上のような各種制度が設けられ、子の利益を尊重すべく運用されているから、父母の意見が不一致の場合の解決方法がないとの原告らの前記主張には理由がない。」とする。」
 2 以上の点について、原告準備書面3別紙でも丁寧に説明したとおり、父母の意見不一致の場合の解決方法が本来必要であることは意識されつつ、あえて(男女の事実上の力関係に委ね)これを用意しなかったことは現行法の立法過程でも明確に発信されている。そのため、たとえ形としては法律婚状態にあり親権を有していても、他方親に養育に関する決定権を否定され事実上関与を妨げられてしまうと、親の意思と手続保障によらず子と通常の親子関係にあること自体を奪われてしまうのである。
 繰り返すが、上記点は、被告自身が、第1準備書面の5頁において、まず、「父母が離婚をする場合,上記のような法的関係は解消されるのであり,仮に父母の双方を親権者と定めるとすると,子の教育や医療など親権者が決定すべきこととされている事項について,父母間で適時に適切な合意を形成することができず,子の利益が害されるおそれがある。」「広範囲に及ぶ子に関する決定の全てを離婚した父母が共同で行うのか,一部のみ共同で行うのであればどの範囲で共同するのか,父母間で合意が整わないときは誰がどのように解決するのかなど、様々な問題が生じることが考えられる。」と述べる。この記載こそ、父母間の意見不一致の場合の解決方法が存在しないことを積極的に認めているのではないか。つまり、父母がそれぞれ親としての地位を尊重され対等であるとすると、意見不一致の問題が解決できないということである。しかしながら、被告は、被告が述べるような問題点を有する現行法を是としている。その理由も同じ被告第1準備書面の5頁に述べられている。「そして,民法819条2項や同条5項が,父母の協議が調わないときなどに裁判所が親権者を定めると規定しているのは,裁判所が後見的立場から親権者としての適格性を吟味し,その一方を親権者と定めることにより,子の監護に関わる事項について,適時に適切な決定がされ,これにより,子の利益を保護することにつながるものである。」とするのである。これは、上記のとおり父母間で意見が調わない場合の適切な調整方法が存在しないことについて、父母が非婚の場合は単独親権とすることこそが同問題の解決方法であると言っているのである。
  つまり、被告の述べる「解決法」とは、父母それぞれの親としての地位を尊重する解決ではなく、父母の一方の養育権を奪う又は制限することによる「解決」なのである。
3 被告第5準備書面でもまさに同じことが述べられている。
 民法766条の類推適用が「解決」であると述べているが、同類推適用は婚姻中共同親権状態にある父母に対して、まさに離婚後の単独親権を前提とする規定を類推することで、実質単独親権を前倒しするものであり、現実的にもこのように運用されている。同類推適用が、親権者として地位を同じくする婚姻中の父母を対等かつ適切に調整するものでないことは、単独親権の規定である民法766条の性質や現状の運用からも明らかである。このことは、家族法学者が集まる学会である日本家族<社会と法>学会における第38回学術大会シンポジウムにおいて、共同親権中に単独監護が許されている実務の課題が報告されているところ、「現在わが国の実務では、共同親権下にある別居中に、家庭裁判所で監護者指定がされると、他方親権者の親権が喪失化し」ている実態についても説明されている(甲68号証文献「親権の理論と実務」山口亮子17ページ)。報告の中でも、「実態としては,別居中の夫婦に紛争がある場合に,監護者指定の有無にかかわらず,子を監護しない非監護親は共同親権者であっても親権の行使は事実上ほぼ不可能という状態になってしまっている」と指摘している(甲69号証文献「親権・監護権の実際①」橘高真佐美41ページ)。民法766条類推適用による監護者指定の手続は、法的な位置付けからも実態からも、父母間の養育権の調整とはほど遠いものであることが分かる。同手続の存在は、父母の養育権を尊重する調整制度が用意されていない、という問題提起に対する解決ないし反論となるどころか、むしろ、同問題が存在しこれが顕在化していることを積極的に示すものである。
 なお、親権停止・喪失等の申立ては、そもそも養育権調整の規定ではなく、養育権の逸脱・濫用的な事例に対する制限であるから、父母の養育権調整に関する「解決」とはなりえないことは言うまでもない。
 
第3 「第3 憲法14条違反に関する主張について」への指摘
 1 被告は、「しかしながら、憲法14条1項が規定する法の下の平等とは、個人と個人の間の平等をいい、同項が禁止する不合理な差別も、個人と他の個人との関係の不合理な差別をいうものと考えられる(例えば、芦部信喜教授は、法の下の平等は「個人権」であり、「個人尊重の思想に由来する」と説明している(芦部信喜〔髙橋和之改訂〕「憲法第七版」129ページ)。)。」ことから、原告らの主張には理由がないとする。
 2 この点の被告の主張はあまりにも理解不能な主張である。
平等権が「個人権」であることと、法が特定の身分や地位に着目して差異を設けることとは、当然両立する(憲法14条1項自体がそのように記載している)。言うまでもないが、法が個人を特定した規定で差異を設けることなど通常ありえないのであって、法は身分や法的地位等に着目して区別する。たとえば、過去の立法も含むと、嫡出子と非嫡出子(相続分)、女と女でない者(再婚禁止期間)の区別などである。この区別の結果、当該身分や法的地位等に属する「個人」の平等権が侵害されるという構造である。
 3 次に被告は、「婚姻中の父又は母とそれ以外の父又は母とでは、その置かれている状況が法律上も事実上も異なり、本件規定は十分に合理性を有する」とする。
4 「婚姻中の父又は母とそれ以外の父又は母とでは、その置かれている状況が法律上も事実上も異な」る、とは、乱暴な議論であり、被告(国)の主張としては大いに問題がある。原告が述べているのは、親子の利益が父、母、子のそれぞれの個人的な利益であるにもかかわらず、これを、婚姻に紐づけかつ婚姻という法律関係から事実関係を類型的に決めつけることの是非である。被告の「法律上も事実上も異な」るとの説明は、この是非に対する議論になっていないばかりか、被告は、法律婚状態になくても共同で監護すること自体は禁止されていないと本件でも繰り返し述べているのであって、「その置かれている状況が法律上も事実上も異なる」との記載と矛盾するようにも思える。
この点に関する被告の主張は単に現行法が類型的な決めつけであることを強調しているものである。
 
第4 「第4 立法不作為に関する主張について」への指摘
 1 被告は、「結局、原告らのいう共同親権者たる父母の「養育権」を保障する立法が一般的な意味での子の福祉を促進する場合が仮にあり得るとしても、具体的な制度設計はなお明らかとはいえない上、その導入のメリットや、現行の調停・審判手続や民事執行手続との整合性を含め多くの検討を要することからすれば、我が国の現行制度が不合理とはいえない現状にあって、原告らが主張する共同親権者たる父母の「養育権」を保障する法的整備をしないことが、「憲法上保障され又は保護されている権利利益を合理的理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白である」とはいえないことは、明らかである」とする(下線は下記説明のため、原告代理人が付した)。
 2 以上の被告の主張は、違憲判断の問題と立法論の話をあえて混同させているだけである。
 現行法が人権を侵害する違憲な内容である場合、その法改正の選択肢がいかに広汎な可能性があり立法裁量があるとしても、現行法が違憲であるという判断が揺らぐわけではないことは当然、さらに同法を合憲的に改正すること自体に立法裁量は存在しない。この点の問題が上記被告の2つ目の下線部であって、この結論を1つ目の下線部の記載(仮に同記載が正しいとしても)は左右しないということである。
 まず、現行法が違憲であること自体は、原告は本件訴状から一貫して主張立証を続けている。
 そして、本争点に議論が至る場合、それは立法当時から意識されていた法の欠缺が違憲状態ということであるから、この状態は現在に至るまでの間にすでに明白となっているというほかない。特に、立法当時の我妻氏の発言の記録に「何とか手当をしなければならない事情になったということは、それだけ母の意思が重んじられるようになったことだから社会の進歩だ、非常に喜ぶべきことだといえる」とある。母が重んじられるという社会的変化があれば、法の欠缺を維持できないとの趣旨である。たとえば、離婚時に単独親権に移行する場合の、父母の一方が親権者となる割合は、昭和41年にはそれまで父親の割合が高かったが以降母親に逆転している(甲39)。どれだけ遅くとも、このころには、父母の養育権を対等に調整する手当が必ず必要であった。また、その他にも、訴状記載の様々な事情がある中で、現在まで違憲状態が明白でなかった、などと言えるはずがない。
 いずれにしても、現行法が違憲であることを司法がその独立の立場で明示することは必須である。
 なお、蛇足的な指摘あるが、人権論と立法論のレベルの違いを区別して考えることは、立法の過程においても非常に重要である。現在、法務省法制審議会家族法制部会においても、親権制度を含む家族法制の見直しが検討されていることは公表されており、同部会では、中間試案が作成過程にあるようである。ここでは様々な案が併記される形で(原告代理人からみて)議論が錯綜しているようである。この主な原因は、本来、人権論(違憲論)を土台とした上での立法の問題であるはずが、すべて立法論の範疇で扱われることで「共同親権という方向性で何らかの立法改正をする」という程度の土台で議論されているからであると考える。この点、そもそも、諸外国や我が国の学者等からも指摘されている我が国の法改正の必要性は、親子の人権又は人格的利益を侵害する現状があるというところからスタートしているのであり、本来この点を解消することについての「立法論」は存在しない。しかし、この法改正の必要性について共通の土台がなければ、関係各人の立場の中で、単なる「立法論」が錯綜するだけである。この意味でも、本件のような訴訟で司法が現行法の違憲性を明確に判断することは、極めて重要な意義を有する。

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