注目の判決期日☆共同親権訴訟もうすぐ!最終準備書面・・・全文!!6月22日14時~東京地裁705号法廷での憲法判断に期待がいっぱい!!勝訴祈願☆
ハイライトを読んできて、結語まできたけど、せっかくだから、全文公開することにした
もう、共同親権いよいよっぽいし、ちょうどいいよね
正式には、こちらのホームページで公開されています
4万字超えるけど、パブコメで鍛えた方々なら読める!
結審した期日で、一部修正の上陳述しているので要注意!!
さぁ、読んでみてー
第1 単独親権制の違憲性について
1 親の養育権は基本的人権であること
養育権、すなわち、子を養育する意思と能力を有する親が子を監護・養育する権利は、自然権であり、憲法13条の幸福追求権として憲法上保障される基本的人権である。親が子を養育し子が親から養育を受けることは人が人として行うごく自然な人格的な行為であるから、同自然的な関係が憲法上保障されることは言うまでもないことである。
親の養育行為は親子という自然的関係に基づく親子間の活動であり、それ故、親の養育権は親子が親子である権利である。
養育の意思と能力を有する親が子を養育し子がその親から養育を受けることは、親子という自然的関係に基づいた極めて人格的な活動である。これが基本的人権として保障され、不当に侵害を受けないことは、自然権として当然のことである。
最高裁大法廷昭和51年5月21日判決(旭川学テ判決)は「子どもの教育は、子どもが将来一人前の大人となり、共同社会の一員としてその中で生活し、自己の人格を完成、実現していく基礎となる能力を身につけるために必要不可欠な営みであり、それはまた、共同社会の存続と発展のためにも欠くことのできないものである。この子どもの教育は、その最も始源的かつ基本的な形態としては、親が子との自然的関係に基づいて子に対して行う養育、監護の作用の一環としてあらわれるのである」と判示した。同判決の論理は、子どもの教育の基本的形態は親が子に対して行う形態であると述べており、これは親子の自然的関係に基づく養育・監護作用の一環であるから、というものである。「教育権」の主体や捉え方については理解が必ずしも一義的ではないかもしれないが、すくなくとも、親子が自然的関係に基づいて養育・監護を行うことは当然の前提となっている。日本でも、親子間の養育関係は まさに自然権的に捉えられているのである。
この点につき、日本以外の例に目を向けてみる。大森貴弘「翻訳:ドイツ連邦憲法裁判所の離婚後単独親権違憲判決」常葉大学教育学部紀要<報告>425頁(甲13)においても、「諸外国に目を転じると、ドイツでは子を育成する親の権利は自然権とされ、憲法でも明文化されており、アメリカでは平等原則と適正手続により親の権利が人権として認められている。日本国憲法には親の権利についての明文の規定はないが、親子の自然的関係を論じた最高裁判決(旭川学テ判決)が存在していることや人権の普遍性等を根拠として、憲法上認められうると解される。」と指摘されている。同指摘にあるように、まさに前述した親子の自然的関係に直結した養育活動は、国や民族、文化に左右されない普遍的な人権であるといえる。加えて、同じく指摘されているように、日本においても、前述の旭川学テ判決の論理のように親子の養育関係を自然権的に捉えていることも、同普遍的権利が存在することと矛盾しない。
次に「児童の権利に関する条約」について言及する。「児童の権利に関する条約」は、18歳未満のすべての人の基本的人権の尊重を促進することを目的として、1989年の国連総会で、全会一致で採択されたものである。そのため、条約の内容は、18歳未満の者の基本的人権に関連するものであるといえる。2019年8月現在、同条約は、署名国・地域数140、締約国・地域数196のようであり、日本は、1990年9月21日に条約に署名し、1994年4月22日に批准しているようである。同条約第7条1項で「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定され、同条約第8条1項は「締約国は、児童が法律によって認められた国籍、氏名及び家族関係を含むその身元関係事項について不法に干渉されることなく保持する権利を尊重することを約束する。」とし、同条2項で「締約国は、児童がその身元関係事項の一部又は全部を不法に奪われた場合には、その身元関係事項を速やかに回復するため、適当な援助及び保護を与える。」と規定する。また、同条約第9条1項に「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。ただし、権限のある当局が司法の審査に従うことを条件として適用のある法律及び手続に従いその分離が児童の最善の利益のために必要であると決定する場合は、この限りでない。このような決定は、父母が児童を虐待し若しくは放置する場合又は父母が別居しており児童の居住地を決定しなければならない場合のような特定の場合において必要となることがある。」とある。上記同条約7条をみると、氏名・国籍を有する権利と同じ条文の中で、児童が父母を知り父母に養育される権利を規定している。氏名の保有など人としてごく基本的な地位と合わせて父母から養育を受ける権利を規定していることは、これがすべての人に与えられた基本的人権であることが前提となっていると考えられる。また、上記同条約9条1項によると、父母の意思に反して児童が父母から分離されることについて、司法審査を前提とした法及び手続に従うことが求められている。このように権利の制約について厳格な手続を要求されているのは、父母から養育を受ける権利が基本的な人権であるからにほかならない。上記のとおり、同条約は、多数の国・地域が署名又は締結する基本的人権に関するものである。そのため、同条約について日本が批准しているかどうかや日本国内での効力にかかわらず、児童が父母から養育を受ける権利は国・地域を問わず人が本来的に享有しているべき基本的人権であることは疑いようがない。そして、いうまでもなく、未成熟の子が父母から養育を受けることと、父母が未成熟の子の養育をすることは、行為として同一の行為であり切り離せないものである。
また、養育権の人権性に関しては、本件訴え提起後、本件原告の主張を踏まえた専門家による意見が出されている。
まず、前述の論文(甲13)の大森貴弘准教授も、養育権を憲法上の人権であることを様々な観点から説明している(甲32)。
また、鈴木博人教授も、意見書(甲48)及び証人尋問(令和4年12月22日実施)において、養育権が憲法13条によって保障される人権であると明確に意見している。
以上のことから、親の養育権は、自然権であり、憲法13条が幸福追求権として保障する基本的人権であることは明らかである。
なお、人権又は人格的利益としての養育権は、現行法の「親権」制度の中に位置づけられる権利ではなく、「親権」という具体的な法制度以前の自然権であるから、「親権」の法的位置付けや内容によって養育権の人権性の結論を左右されるものではないことは注意を要する。人権(自然権)は具体的制度によって作出されるものではなく、制度以前のあるいは制度の基礎として本来的に存在するものである。このことは人権の議論として至極当然のことと思われるが、殊我が国における親子という法的地位の議論においては、鈴木博人教授も指摘するように(鈴木証人調書2頁から3頁)、家族法の基礎となる憲法又は自然的な権利の存在があまり意識されずに、「親権」の議論から説明をスタートさせてしまう傾向が強い。実際に他の裁判例においても、東京地方裁判所令和5年1月25日判決(事件番号:令和2年(ワ)第4920号)(甲79)は、「親権の主たる内容は、子の監護及び教育であって(民法820条)、監護や教育権は、親権の一内容とみるべきであり、原告らが本件で問題とする監護権や教育権も、親権と独立する内容をいうものであるとは解されない。親権が憲法上保障されるか否かが明らかになれば、監護権や教育権が憲法上保障されるか否かも自ずと明らかになるというべきであるから」(17頁) として、「親権」の人権性の判断が監護・養育権の人権性の判断に直結するかのような、判断枠組みを用い、結果「親権」の人権性を否定することで、監護・養育権の人権性を否定している。当該裁判において、当該裁判の原告らの主張がいかようなものであったのかは定かではないが、すくなくとも、本件の原告らは、このような意味で「養育権」を主張しているわけではないことは理解いただけると思う(本件ではそもそも原告らは「親権」が人権であるとは一切述べていない)。また、当該裁判例の考え方は、上記人権性の議論に関する枠組みとしても、また親権に関するドイツ法等との比較法の観点からも、明確に誤った判断枠組みであることは指摘しておく。いずれにしても、本件における原告らの主張は、具体的な法制度としての「親権」には何らの普遍性や人権性を見出しているわけではなく、具体的な制度から離れた親が子を養育する普遍的な権利こそが養育権であるとしているのである。もちろん、具体的な法制度たる「親権」は、親としての自然的な権利である養育権を基礎として、これを具現化するものでなければならず、ドイツ法においてもそのような建付けになっているようであるが(鈴木証人調書1頁)、本件の場合は、まさにこの点、すなわち、現行の「単独親権制」が親の養育権を基礎とした制度といえるか、親の養育権の存在を前提として、合理的なものとなっているか否かが問題なのである。この点は、原告らの主張の理解及び判断の枠組みとして極めて重要な注意点である。
2 現状の法は親の養育権を侵害するものであること
(1) はじめに
養育権侵害の判断の前提として、現行の「単独親権制」の捉え方について、原告らの主張を確認させていただきたい。
まず、民法818条第1項は「子は、父母の親権に服する。」としながら、同条3項において、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」としており、非婚の父母のいずれか一方は親権者となることができないようになっている(民法819条で各非婚の場合の単独親権者指定等の在り方を規律している。)。これが、現行法の「単独親権制」である。なお、ここでいう「非婚」とは、法律婚状態にないことを指し、未婚、離婚後、事実婚等を含む。
特に、原告らの主張の理解にあたり注意していただきたいのは、婚姻中で共同親権状態の者と非婚で単独親権の状態にある者のうち、後者のみの「単独親権状態」を問題としているのではないことである。非婚の父母のいずれか一方は必ず親権者になることができないこと、すなわち、法律婚をしていない父母は元より単独親権状態であり、また、婚姻中共同親権であった父母でも離婚により必ず単独親権状態になる現行制度全体を「単独親権制」とする 。
そして、ここでいう「単独親権制」には婚姻中共同親権状態の法的規律や運用も含まれる。なぜなら、同じ共同親権でも、それが元来の親としての地位が反映されたものであるのか、あるいは、「法律婚」に紐づけられ付与された地位であるのかによって、根本的な差異があり、またその際によって、婚姻中共同親権の規律が変わってくるからである。
以上のように、まず、現行の「単独親権制」の内容を見定めることが養育権侵害の判断のポイントとなる。
(2) 現行の単独親権制について
では、現行の「単独親権制」はいかなるものか。
上記のとおり、現行法は婚姻中の父母は原則共同親権である一方で、非婚の父母は一律に単独親権である。これが一つの制度であり、「単独親権制」という。非婚の父母を一律単独親権としていること自体をまず親の養育権という人権との関係で問題としなければならないことは当然である。その上で、注意していただきたいのは、単独親権状態の父母のみを単独親権制と言っているのではなく、婚姻中共同親権状態にあるか非婚で単独親権にあるかどうかを問わず、すべての父母が現行の「単独親権制」の制度の中に置かれているという点である。
現行法の制度の内容として特徴的なのは、父母の意見が一致しない場合の解決の仕組みを欠いているという点である。訴状ではこのことを、「これまで述べたとおり、現行法は、父母の養育権を調整する仕組みや基準が完全に欠缺している。これも上記単独親権制の在り方に由来する。我が国の単独親権制は、親であることと父母の関係を結び付け、父母同士が法律婚状態で意見が整う場合でない限り、片方の親の養育に対する決定権を否定する形をとっている。養育権の調整以前に養育権否定という形で解決するからこそ(不合理な解決であることは後述)、養育権調整の仕組みが欠缺していても一応成り立っているのである。そのため、たとえ形としては法律婚状態にあり親権を有していても、他方親に養育に関する決定権を否定され事実上関与を妨げられてしまうと、親の意思と手続保障によらず子と通常の親子関係にあること自体を奪われてしまう。親権者でありながら養育権を侵害される事態は、離婚のタイミング以上に何らの司法的判断を受けずに養育権を侵害されている点で、より深刻であるともいえる。」と説明している。
他方で、現行法「単独親権制」の捉え方自体は、以下のとおり、被告もほぼ同様の説明を行っている。被告第1準備書面の5頁において、まず、「父母が離婚をする場合、上記のような法的関係は解消されるのであり、仮に父母の双方を親権者と定めるとすると、子の教育や医療など親権者が決定すべきこととされている事項について、父母間で適時に適切な合意を形成することができず、子の利益が害されるおそれがある。」「広範囲に及ぶ子に関する決定の全てを離婚した父母が共同で行うのか、一部のみ共同で行うのであればどの範囲で共同するのか、父母間で合意が整わないときは誰がどのように解決するのかなど、様々な問題が生じることが考えられる。」と述べる。これは、現行法上、父母間の意見不一致の場合の解決方法が存在しないことを意味している。しかしながら、被告は、被告が述べるような問題点を有する現行法を是としている。その理由が、同じ被告第1準備書面の5頁に述べられている。「そして、民法819条2項や同条5項が、父母の協議が調わないときなどに裁判所が親権者を定めると規定しているのは、裁判所が後見的立場から親権者としての適格性を吟味し、その一方を親権者と定めることにより、子の監護に関わる事項について、適時に適切な決定がされ、これにより、子の利益を保護することにつながるものである。」とするのである。これはつまり、上記のとおり父母間で意見が調わない場合の適切な調整方法が存在しないことについて、父母が非婚の場合は単独親権とすることこそが同問題の解決方法であると言っているのである。立法内容の是非の結論はともかく、現行法の構造の説明として本件原告と被告の説明は一致していると思われる。
この点に関し、現行法(当時からすると改正民法)の議論からも明確に説明することができる。
法律時報31巻11号78頁~87頁記載の現行法の立法当時の座談会(甲34)において、父母の意見が一致しないときの規定がないことについて、司令部が「非常にふしぎそうな様子」「それでいいのかという」との意見を示していることに対して、我妻氏の発言は「それはそれですまないというのがほんとうだろうが、日本の場合はすんでいるのだね。」(84頁)「多くの場合、父親のいうことにきまるだろうということじゃないですか。」(85頁)としている。つまり、現行法に父母の意見が一致しない場合の調整規定が存在しないことは、立法当時から意識されていたのであり、それでも事実上の父母の力関係(「多くの場合、父親」とある。)で解決すればよいと考えられていたのである。
さらに、上記の点を前記東京地方裁判所令和5年1月25日判決(事件番号:令和2年(ワ)第4920号)(甲79)も、はっきりと認めた。同判決書15頁からの記載において、刑事法、民事法及び手続規定の観点から、親権の行使の手続が存在するか否かという争点について検討されており、検討の結果、「したがって、原告らが主張する刑事法、民事法及び親権の行使に係る手続規定が現に存在するとはいえず、本件立法不作為が認められるべきである。」と判断された。同裁判例は前記のとおり、親の養育利益を「親権」の一内容とした上で、親権の人権性を否定しているが故、同立法不作為を問題とはしなかったが、同裁判例の被告(国)が現行法においても親の養育的地位は法によって実現されていると反論していたことに対して、明確に立法の欠缺を認めている。
以上、あらためて、現行法の単独親権制とは、すなわち、父母間に子の養育に関する意見の対立があってもこれを調整する仕組みを一切用意せず、事実上の父母間の力関係に解決を委ねるか(これを解決というのかどうかはともかく)、当初からの単独親権(認知等の場合)及び単独親権への移行(離婚の場合)によって養育に関する決定権そのものを一人の親に集中させることによって解決する制度、である。
(3) 非婚の父母を一律単独親権とすることによる養育権侵害について
以上の「単独親権制」の理解を前提に、これが親の養育権を侵害するものであるか否かを検討することになる。
まず「単独親権制」の内容は上記のとおり婚姻中共同親権状態に親の地位にも問題のあるものであるが、この問題以前に、端的に、非婚の父母は一律一方が必ず親権を奪われる制度であるという点において人権侵害となっている。
民法は、「親権の効力」として、「親権を行う者は、子の利益のために子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う」とし(民法820条)、子は、親権を行う者が指定した場所に、その居所を定めなければならない(民法821条)。同規定によると、「親権」は、子の監護、教育のあり方を決定し、監護の中心的な要素である居所も決定するものであるから、親の養育権を具体化した地位であるともいえる。すなわち、親の養育権という基本的人権を前提とすると、親が同人権に基づき子を養育する責務と人格的な喜びを全うするために不可欠な内容が「親権」に含まれている。
しかし、民法818条第1項は「子は、父母の親権に服する。」としながら、同条3項において、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」としており、非婚の父母のいずれか一方は親権者となることができないようになっている。前述のように、親が養育権に基づき子を養育する責務と人格的な喜びを全うするために不可欠な内容が「親権」には含まれているのであるから、非婚の父母は単に非婚という理由だけで養育権を侵害されていることになる。そのため、民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の部分及び同規定を前提とする民法819条は養育権を侵害する規定ということになる。
この点、鈴木博人教授も、意見書(甲48)において法律婚と親の地位を結びつけていること自体の不合理性を指摘し、証人尋問においても、「やはり婚姻していないと自動的に片方の親は親権をもたないという、これ一方で日本の親権学説もそうですしドイツ法もそうですが、それは親の子供を養育するというのは親の基本的な義務であって権利でもあると。それが婚姻をしていないということによって、自動的に義務的権利がなくなるという制度の作りは、これちょっとおかしいということと、子供の視点から見ると親が婚姻しているか、していないかによって、子供にとっては法定保護者が2人か1人かということが、これはもう自動的に決められてしまいますので、そうすると親が法律婚してる人は法定保護者、親権者2人と。してないと自動的に法定保護者は1人というのは、これは子にとっては極めて差別的な取扱いということになろうかと思います。」と意見している(鈴木証人調書3頁から4頁)。このように、親の地位と法律婚制度を結び付け非婚の父母の一人は必ず親権を奪われることは明らかに不合理なのである。なお、本訴訟訴状においても、鈴木博人教授が指摘する子にとって見守りを行う者の不足という視点からの虐待事例の分析も行っている(甲17)。
以上のとおり、「親権の効力」の現行民法の規定を字義通りに捉えると、上記の単独親権制度は端的に非婚の父母を一律に単独親権とすること自体が親の養育権を侵害する制度であるといえる。
(4) 養育権が尊重されていない運用について
ただ、「親権」はあくまで養育権の調整システムとして第1次的な役割を定めたものであるに過ぎず、父母双方に潜在的な養育権が存在しこれが尊重されるのであれば、必ずしも単独親権自体が養育権侵害とはならない、とする見方もあるかもしれない。しかし、このような見方で単独親権が養育権侵害にならないといえるためには、立法上もその運用上も、父母双方の養育権が尊重され、かつ、父母間の養育権を適切に調整する制度が実現していなくてはならない。
本指摘は訴状の段階から行っていたものであるが、本件審理過程において様々な知見等が示された今、父母双方の養育権が潜在的には保障されているとみることは困難であることははっきりした。
そもそも、鈴木博人教授も指摘するように、我が国の現行の「親権制度」すら親の養育権を土台として成り立っているものとは言い難いとされており、実際婚姻中共同親権状態の父母であっても、他方親の事実行為を前にして、親としての養育行為を実施する手立てがないことを原告らは一貫して指摘してきた。これは、前記法律時報31巻11号78頁~87頁記載の現行法の立法当時の座談会(甲34)においては立法者が明確に意識していたことも分かっており、また、最近出された前記前記東京地方裁判所令和5年1月25日判決(事件番号:令和2年(ワ)第4920号)(甲79)も、刑事法、民事法及び手続規定の観点から、親権の行使の手続が存在しないことを立法不作為として認定している。
以上のように、そもそも現行の「親権制度」そのものが親の養育権を基礎としておらず、それ故同制度の中の「親権」も機能不全になっているのであるから、いわんや、非親権者をや、である。現行法で、潜在的な親の養育権が保障されているといえるはずがない。
以下、非親権者をはじめとするすべての親の養育権が具体的な制約をされている例を挙げる。
(5) 非親権者の同意不要の代諾養子縁組について
非親権者の同意不要の代諾養子縁組は、現行法上、親の養育権がないがしろにされていることを明確に示すものである。
親権者は子の法定代理人であり(民法824条)、「養子となる者が十五歳未満であるときは、その法定代理人が、これに代わって、縁組の承諾をすることができる。」(民法797条1項)。「法定代理人が前項の承諾をするには、養子となる者の父母でその監護をすべき者であるものが他にあるときは、その同意を得なければならない。」(同条2項)。これらの規定により、親権者は、15歳未満の子の養子縁組を代諾で行うことができ、他方の親は子を監護すべき者でない限り、これを拒むための同意権もない。
運用としても、本来、面会交流や養育費の支払いも「子の監護」の一環であるから(民法766条1項)、子との面会を求める父母や子への養育費を支払う父母がある場合、「父母で監護すべき者」として同意権を与えるべきにも思えるが、これらの者は同意権(拒否権)がないものと扱われている。
以上の法律及び実態は紛れもなく親の養育権の侵害である。そもそも、共同親権であるか単独親権であるかにかかわらず、親権は原則的に「父母」親権の枠組みとなっており(民法818条1項)、非婚父母においても、同枠組みの中で、父母間の親権者の変更・指定の可能性を残しながら(民法819条各号)、子の監護に関する処分一般について父母間の協議事項・調停・審判事項とする(家事事件手続法39条、同法別表二、民法766条)。
しかし、上記の代諾養子縁組がなされると非親権者である親の意思に反して、非婚父母間の養育権調整機能の前提となる「父母」親権の枠組み(819条1項の枠組み)から外れ、養親親権の枠組み(同条2項の枠組み)に移行してしまう。この大きな枠組みの変更を如実に表す判例が、最決平26年4月14日(裁判所時報1602-1)である。同判例は、たとえ、実親の一方に親権が存していても、養子縁組により養親が親権を有する以上、父母間の規定である民法819条の適用はなく、親権者変更はできないことをはっきり述べたものである。また、面会交流等の子の監護に関する処分についても、本来父母間の規定であるにもかかわらず、父母ではない養親も当事者にすべきという運用がなされている。これについては、類推適用そのものに問題があるというよりは、同運用によって、そもそも、誰にいかなる権利があることを前提として審判を下すべきかが不透明なまま場当たり的な運用にならざるをえない点である。
以上のように現行法及び運用は、父母双方の意思によらず、民法818条1項の「父母」親権の枠組み自体から外れてしまうことを許容しているものである。父母が父母であるという基本的な枠組みからも外れ、実際にも、親権者になる機会すらも失ってしまうのである。ここには、潜在的な意味においても父母の養育権の尊重はない。この点も鈴木博人教授も明確に繰り返し指摘しており(甲48、鈴木証人調書)、あまりに明白な不合理性故に、「これはちょっとやっぱり、いくら何でも自分の子ですから、自分の子が知らない間に養子になってしまうというのは、これはおかしいというふうに考えております。」とまで指摘している(鈴木証人調書5頁)。この問題は養育権侵害の重大性、明白性が顕著である。なお、同代諾養子縁組の制度は、養育権無視がその根本にあると思われるが、鈴木教授は我が国の普通養子縁組制度の「無目的」さや(同調書6頁)、ステップファミリーの親子関係について「法制度の側は何も配慮していない」「それが日本の例えば798条は、何も配慮していないので、親たる地位もそうですが子の福祉にとっても大問題」と言及している(同調書13頁及び14頁)。原告訴訟代理人が思うに、我が国は親子の権利という土台を完全に無視してきたが故に、養子縁組の制度も無目的で各都合や便宜によって構築され、社会においても、非婚の場合の別居の実父母の存在を軽視し、安易に再婚相手を「新しいお父さん」「新しいお母さん」とすることが当然であるかのような危うい認識が広まってしまっているといえる。
(6) 民法766条が親の養育権を実現していないこと
訴状では、民法766条又は同類推適用が親の養育権を実現する形で適切に機能していれば、養育権の侵害といえないのではないか、という可能性にあえて言及した。そのために、実態や法的位置づけなどを含めて検討を行ったが、現時点においては、この点は明確に否定されているといってよい。この点についても、前記前記東京地方裁判所令和5年1月25日判決(事件番号:令和2年(ワ)第4920号)(甲79) が、刑事法、民事法及び手続規定の観点から、親権の行使の手続が存在しないことを立法不作為として認定しているとおり、民法766条又は同類推適用の面会交流や子の監護者の指定等は、そもそも親が子を養育する地位を確保するための手続という位置付けにもなっておらず、実際にそのような役割を果たしてもいない。また、現行法の下での面会交流の位置付は、親の養育権又は子が親から養育を受ける権利を前提としたものではない。このことは、実際の裁判所の審判内容が親子の日常的な養育関係とはほど遠いものであることが、もはや公知の事実あることから明らかであることに加え、理論的にも、我が国では、面会交流の前提や判断の基礎に親子の権利を据えること自体から、あえて目を背けてきたと思われる。平成12年5月1日最高裁小法廷決定(平成12年(許)第5号)は婚姻中においても民法766条類推適用による面会交流についての相当な処分を家庭裁判所が下すことができることが判断されたリーディングケースであるが、同解説の中で、面会交流の法的性質を「面会交流を求める請求権というよりも、子の監護のために適正な措置を求める権利である。」と結論付けられている。これは、要するに、面会交流に関する親の権利性を否定し、議論を逸らすかのように申立権はある、と言っているのである。この点、原告訴訟代理人は、実体法上の判断の拠り所をもたない、単なる訴権(申立権)だけの制度が成り立ちうるのか、そのような制度が果たして三権分立の中での「司法」作用と言えるのか甚だ疑問であり、ここにも親の権利から目を背ける傾向による歪が生じていると考えている。この点も、鈴木博人教授は、専門的知見に基づき的確に分析をしている。意見書(甲48)においても、面会交流中の親がいかなる権利に基づいて子を一緒に過ごしているのか不明確であることを指摘し、また、尋問においては、面会交流に関して「裁判所では当たり前ですが面会交流をさせてくれという調停の申立てとか、あるいはその審判ということを判断してくださっているわけです。そういった意味では当事者にとっては、そういうことを申し立てることはできますから、訴権というようなものはあるわけですよ。ところが、じゃあその訴権を基礎づける実体的な権利義務、実体法上のその権利義務っていうのは何なんですかと言われれば、いや、ちょっとその権利ですとも言えませんし、何かよく分からないですねという、そういう状態になっているということが理論的にまず1点、おかしいと。それから、実際に面会交流中に親権者でも監護権も持たない者が、何の権限で子供の面倒を見ているのか、これは例えば1時間だけ預かりましたっているのだったらば、犬の散歩じゃないんですから、例えば夏休み、比較的長時間、2週間とか面会交流で宿泊付きで交流しますよというようなことを考えたときに、このときに親権も監護権も持っていないかたが行っている子の養育ってものの法律上の権限っていうのは、いったい何なのかということをおかしいというふうに、そういうことです。」と指摘している(鈴木証人調書6頁及び7頁)。
以上のような、親の権利からあえて目を背け、判断の基準もないまま、単に「子の福祉」という曖昧で裸の基準だけで裁判所が判断を行うことを求められる実態が現行法下では起こっている。いずれにしても、もはや民法766条の手続が養育権を保障する、あるいは実現する手続であるとは到底いえないことは、明らかになっている。
(7) 現行の単独親権制における養育権保障の欠缺
以上、現行の「単独親権制」はその名のとおり、非婚で単独親権状態の者の養育権を侵害するものであることを説明したが、「単独親権制」は前記のとおり、親権が親子の人的な養育関係を基礎とする制度になっておらず、法律婚と紐づけられていることで、父母間で意見が不一致の場合、親が親として親権を実施することができない内容となっている。
つまり、現行法は、父母の養育権を調整する仕組みや基準が完全に欠缺している。これも上記単独親権制の在り方に由来する。本書第1、2(2)(本書9頁12頁)で説明している「単独親権制」は、たとえ形としては法律婚状態にあり親権を有していても、他方親に養育に関する決定権を否定され事実上関与を妨げられてしまうと、親の意思と手続保障によらず子と通常の親子関係にあること自体を奪われてしまう。そのため、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定及び養育権保障の立法の欠缺は、親権を有する者の養育権をも同時に侵害している。
たとえば、親権には、子の居所指定権があり、これは親が子を実際に養育し、また、子の生育環境を選択するための重要な権利・利益といえるが、父母の一方の実力行使を前に同権利は完全に否定されることは当然のように行われており、また、訴状指摘のとおり、子の居所を把握すること自体が何らの手続保障なく妨げられる実態があり。
このように婚姻中共同親権であっても、現行の「単独親権制」は親の養育権を侵害するものとなっている。
(8) 小括
以上のとおり、現行法は親の養育権を保障せずこれを侵害する内容となっている。
3 養育権侵害が憲法13条違反であること
(1) はじめに
ここまで、現行法が基本的人権である養育権を侵害するものであること及び現行法が親権又は養育権について非婚父母と婚姻中の父母を差別するものであることを述べた。以下、現行法の侵害規定が立法目的に合理的根拠を欠き、目的と侵害又は区別との合理的関係性がないことを述べる。養育権は親子の自然的関係と密接な人格的権利であり、また、上記区別も養育権に関する区別であるから、違憲審査基準はより厳格なものが採用されるべきであることを主張するが、上記基準においても違憲性が明確であるため、以下、上記基準にあてはめる形で主張を行う。
(2) 立法目的に正当性(合理的)がないこと
まず、現行法の単独親権制の目的は何であるか。この点の確認は極めて重要である。
現行の単独親権制は、非婚の親の一方を一律単独親権とし、婚姻中共同親権の調整規律を用意しないという、極端な法律であるにもかかわらず、なぜそのような立法としたのかについて、目的が意識させることも少なく、正当性の有無に対する見解以前に、その目的が何であるのかという点において共通認識すら欠いている、あるいは極めて曖昧であるといえる。このことは、後述の立法経緯からしてある種当然であることも判明しているが、少なくとも本件訴訟においては現行の単独親権制の目的を確定させることが重要である。この点、原告としては、単独親権制について、権利制約を正当化するような目的は論理的に考えにくいと考えているため、被告(国)に対して説明を求めてきた。結果、この点の重要性については、裁判所及び被告(国)に理解いただき、原告からの求釈明を経て、令和3年5月13日付事務連絡(以下、本書では単に「事務連絡」という。)があり、これに応じるという形で正式に被告(国)が回答をすることになった。これが被告第4準備書面である。
被告は、「前記(1) ア (ア) で述べたとおり、民法において、親権制度が子の利益の確保を重視していることからすれば、法律上の婚姻関係にない父母のうち婚姻を経ていない場合(以下「非婚の父母」という。)について単独親権制度を定める前記 2(2)アの立法目的も、子の利益を確保することにあると解される。」「また、非嫡出子に対する親権行使について、明治民法では、父が認知すれば原則として当然に子は父の家に入り(明治民法733条)、父の親権に服する(明治民法877条)とされていた。これに対し、民法では、家制度を廃止するとともに、両性の本質的平等に基づき、当然に父の親権に服するのではなく、父母の協議又は協議に代わる審判によって子の親権者を定めることとしたものである(民法819条4項及び5項)。」「以上のとおり、非婚の父母について単独親権制度を定める民法の立法目的は、前記(1) ア (ウ) と同様の意味で、子の利益の確保及び両性の本質的平等にあると解され、また、その立法目的に合理性が認められることは明らかである。」と述べる(被告第4準備書面5頁)。
被告は現行の単独親権制の目的は、「子の利益の確保」「両性の本質的平等」であると述べるのである。以下、それぞれ検討する。
ア 子の利益の確保について
まず、「子の利益の確保」について、ここでいう子の利益とは何であるのか、被告は立法目的論としてはこれ以上説明をしていないが、立法の合理性に関する記載の中で具体的な見解を述べている。これは以下のとおりである。長くなるが重要な主張であるため、被告第4準備書面より、引用する。
「前記(ア)のとおり、 民法において、親権制度は子の利益の確保を重視している。この点、非婚の父母の関係は、事実婚の関係から単に子をもうけたにすぎない男女まで多様であるが、どのような関係であっても、法律上の婚姻関係にない以上、父母が婚姻中の場合と異なり、同居して共同生活を営むなどして互いに協力扶助しながら子を育てる義務を負うべきとされる法律関係にない。これに加えて、上記のとおりその関係性も多様であることからすると、一般的に、父母双方が同居するなどして良好な関係を保ちつつ協力して子の養育に関与し、慎重熟慮の上、子の養育に関する事項に必要な判断を適時適切に行うことを期待することができるという状況にあるとはいえない。このような非婚の父母の関係に鑑みると、一律に父母双方が共同で親権を行使することとすると、父母間で子に関する事項について適時に適切な合意を形成することが困難となる結果、かえって子の利益が害されるおそれがある。なお、仮に非婚の父母について一定の場合(例えば長年にわたり事実婚の状態である場合など)に共同親権とするとした場合、父母間の関係性が多様である上、外部からその関係性が明確でないことなども踏まえれば、どのような関係の場合に共同親権とすることが相当か、 共同親権とする基準として明確か、また、共同親権とした場合に子の利益が害されるおそれがないかといった問題も生じると考えられる。そこで、民法は、非婚の父母について、原則として母の単独親権としつつ、一定の場合に父母の協議によりそれを変更することを認め、仮にその協議が調わないときは、裁判所が後見的な立場から親権者としての適格性を吟味し、その一方を親権者と定めることとしている(民法819条4項及び5項)。このように、父母の一方を単独親権者とすることにより、前記のおそれを防ぎ、子の監護に関わる事項について、適時に適切な決定がされることとなり、子の利益を確保することにつながるものである。すなわち、親権の有無にかかわらず、法律上、親子であることには変わりがなく、親は子に対する扶養義務を負い、子は扶養を受け得るものであり、また、親権を有しない親と子が何らかの関係を有することが法律上禁止されるものでも、親権を有しない親と親権を有する親が事実上相互に協力し合って養育に関与することが否定されるものでもないから、父母に良好な関係があり、いずれも子の養育に協力的であれば、非婚の父母の一方に親権を認めないことによっても子の利益を害することはない一方で、そのような関係が望めない場合には、父母の一方が子の養育に対して非協力的であることなどにより、親権行使に関する合意が適時適切に得られないおそれがあり、子の利益の確保に重大な支障が生じることが想定されるものである。」(被告第4準備書面6頁から8頁)。以上が被告の説明である。
以下の被告の説明について、以下の様々な観点からその立法目的には正当性がないこと指摘する。
(ア)まず、被告の言う子の利益の確保とは、結論として、「親権行使に関する合意が適時適切に得られないおそれ」を避けることを言っているものである。ただ、これが単独親権制の目的としては甚だ疑問である。子を養育する対等な立場にある父母の意見が一致しないことは、父母の関係性を問わず様々ありうる。そして、婚姻中であるか非婚であるかにかかわらず、父母が協議によって速やかに方針を一致させることができる場合もあるが、当然そうでない場合もあり得る。このような時の解決について現行法は婚姻中共同親権の場合も何らの解決方法を用意していないのである。そうであれば、被告のいう適時適切な合意ができずその結果子が不利益を被ることがあるとすれば、その原因はまさに父母の意見が不一致の場合の規律を用意していない立法不作為が原因なのであって、親権が父母双方に帰属していることが原因ではないはずである。その上で、父母の意見不一致の場合に対して、現行法は、結局単独親権への移行又は事実上の父母の一方の独断によって一応の「解決」を図っているだけである。これはつまり、父母の養育権衝突の問題を最初から一方の父母の養育権を否定することで解決しているということなのであるから、当初より(訴状から)原告が訴えているとおり、単独親権制の目的としての「適時適切な合意ができないこと」を挙げることによる子の不利益の確保は、まさに背理なのである。
(イ)次に、前述の婚姻時共同親権状態においても、「慎重熟慮」機能を法が有していないことは説明済みであるが、このことをおくとしても、これは婚姻時共同親権のメリットを説明しているのであり、法的にも一方の親だけで決定が可能な単独親権状態は、論理必然の関係として、慎重熟慮の利益が大きく後退するはずである。このこととの関係で、「適時の決定」の要請は慎重熟慮機能を後退させてでも得るべき目的なのであろうか。
この点、慎重熟慮機能が要請される状況は、父母の婚姻中や、 父母の関係が良好である場合に限られないことは言うまでもない。むしろ、父母の関係が良好で協力が期待できる関係の場合よりも、父母がそれぞれの方針に疑問を有している場合の方が一般に互いの監督により子によってリスクのある判断を回避する要請が強くなるであろう。たとえば、その最たる場面の一つが養親に子の養育及び養育判断を委ねることを決断する代諾養子縁組であるが、当該場合には、非親権者は、原則同意権すらもたず、また、代諾養子縁組がなされると親権者変更すらも不可能に不可となってしまうことは争いのない事実である。この場面で民法818条1項の「父母」親権のパターンから、同条2項の養親親権のパターンに基本的な枠組みが移行する重大な局面であるが、父母の一方はこの重大な局面に何の関与もできないのである。この点については、改正養子法の解説(乙8)の中でも「実際上多くの割合を占める連れ子養子縁組」の都合のみに重きが置かれ、非親権者である者の「親」という地位あるいは子からみれば「親子」の地位という利益に正面から向き合っていない姿勢が分かる(同文献172頁)。また、後述のとおり、現行法が憲法施行を受けて家制度の脱却を目指したものの、結局この理念を家単位の意識が残る実態に追従させて施行されたこととも整合する。つまり、現行法は憲法の理念に基づき家制度から脱却し個人単位の考え方をとる方向性で検討されたが、氏と親子関係を切り離すことはGHQの介入の結果実現したものの、結局、全体として結局家単位の現状を追従する後退をみせた。かつての「家」とは形が異なるかもしれないが、親子という個人の関係よりも、家庭という単位を優先する意識は根強く残っており、このことが親子と再婚養子縁組家庭との関係にも反映されているともいえる(戦後の民法改正の経緯・実情について詳しく研究している、青山学院大学許末恵教授著「親権と監護―民法第766条、第818条及び第819条の成立―」(甲35)においても、実質的に氏と親子が切り離されていないという指摘がある。)。実親の配慮による慎重熟慮機能を否定し、新しい縁組家庭の形成を優先したのである。今、再婚養子縁組をした家庭での子の虐待ケースが多発していることは悲惨な具体的事件を持ち出すまでもなく公知の事実である。このように、親子の地位及び子の生活にとって重大な局面で父母双方による慎重熟慮機能を奪うことは親の地位をないがしろにするばかりでなく、子にとっても明らかに実害が大きい。それにもかかわらず、このような慎重熟慮の機能を捨てて、あえて「適時決定」を優先させることが目的として正当とは到底いえない。
(ウ)また、前記(ア)でも「適時決定」の問題は父母に親権 が帰属することの問題ではなく、適切な調整機能を欠いていることの問題であると述べたが、常葉大学大森貴弘准教授の意見書(甲36)では、まさに諸外国は適切に父母間の養育権を調整する仕組みを用意していることを指摘している。同意見書には、「国側の「第4準備書面」は、非婚時あるいは離婚後にも共同親権が継続するなら、「父母間で子に関する事項について適示に適切な合意を形成することが困難となる結果、かえって子の利益が害されるおそれがある」という。父母間の対立が生じて決定に至らないという事態を防止するためだと言われる。しかし、諸外国の立法例を見ると、日本以外の先進国(ここではG7を念頭に置く)は非婚時も離婚後も共同親権を法制化している。そこでは、子が父の監護下にある場合は監護に関する日常的事項は父が決定でき、子が母の監護にある場合は監護に関する日常的事項は母が決定できる、とすることで合意の形成を原則的に不要としている。例外として長期にわたる子どもの治療法や進学先の学校の決定といった重要事項について合意が必要となるが、この場合には家庭裁判所の審判や親権停止・剥奪制度、緊急時には子の意思を尊重する等と定めることで、養育方針を一義的に決定しうることは諸外国の立法例を見ても明らかである。」「非婚時あるいは離婚後共同親権に関して、「父母間で子に関する事項について適示に適切な合意を形成することが困難となる結果、かえって子の利益が害されるおそれがある」というのであれば、なぜ、日本以外の先進国では全て非婚時あるいは離婚後共同親権が採用されているのかと反問しなければならない。わが国の非婚時(離婚後を含む)単独親権制度こそが、非婚時・離婚後の別居親と子どもとの生き別れを助長しており、子どもの情緒の安定や自己肯定感の育成、出自を知りアイデンティティの形成する子どもの利益に真っ向から反するものであると言うことができる。」とある(意見書9頁)。
上記のとおり、意見書が指摘する諸外国の実例により、まさに 適時適切な決定は、前記(ア)で述べた父母の養育権の調整の仕組みの問題なのであって、親権が父母に帰属していること自体の弊害ではないことが分かる。
イ 両性の本質的平等について
まず、被告のいう「非嫡出子に対する親権行使について、明治民法では、父が認知すれば原則として当然に子は父の家に入り(明治民法733条)、父の親権に服する(明治民法877条)とされていた。これに対し、民法では、家制度を廃止するとともに、両性の本質的平等に基づき、当然に父の親権に服するのではなく、父母の協議又は協議に代わる審判によって子の親権者を定めることとしたものである(民法819条4項及び5項)」(被告第4準備書面6頁)との立法過程はそのとおりであろう。
その上で、両性の本質的平等は現行法の立法目的として捉えることは適切ではなく、親権制度等子の養育に関する制度の在り方においては両性の本質的平等という基本原則が守られなければならないというものさしであると考える。
この点、被告の論理は、現行法の立法過程を挙げることで、強引に巧妙に対立利益をすり替えてしまっているといえる。上記両性の本質的平等という基本原則をものさしとして捉えたとき、本件の利益構造が理解できる。あまりにも単純な話であるが議論を混同しないために、次のAとBの問題を区別していただきたい。
A 単独親権制の中では、当然に父が親権者か、父母の協議又は審判で父か母の一方を親権者と定める制度(現行法)のどちらが両性の本質的平等に適うか。
B 非婚の父母は一律単独親権とする現行の単独親権制度は両性の本質的平等に適うか。
被告が述べているのはAである。Aの議論は、現行法は明治民法の制度よりは、両性の本質的平等というものさしでみると、その方向性に向かったとはいえる(ただし、明らかに道半ばで未完成である)。本訴訟で問題にすべき構造は言うまでもなくBである。このように整理した時、本来養育権を有している父母の一方が、特に親としての能力や資質をまったく問題にされることなく子の養育に関する決定権者から除外される制度が、果たして両性の本質的平等に適うと言えるのだろうか。父母の意見が一致しない場合、力関係や実力行使による一方の独断を許してしまう現行制度は、両性の本質的平等とはほど遠いのではないだろうか。いずれにしても、上記Bの議論である本訴訟においては、むしろ、両性の本質的平等は現行法の対立利益としてみるべきであり、これが単独親権制の「目的」に位置付くはずがない。
(3) 立法目的との関連で、単独親権制は合理性を欠くこと
ア 単独親権制が適時決定に資するものではないこと
まず、前記のとおり「適時決定」を現行法の目的の正当性に据えることは完全に誤っているが、一般的価値としての適時決定の要請自体は存在する。
しかし、前記のとおり、適時決定は、父母の養育権を適切に調整する立法によって実現するものであって、この仕組みを用意しないことが適時決定を妨げているというだけである。このようにあえて父母の養育権調整立法を放置し、単独親権への移行にとって意見不一致の場合を解決するのが現行法である。これが養育権の衝突を養育権の否定で解決する背理なやり方であることは繰り返し述べているが、この点はおくとしても、現行の単独親権制のどこが「適時」なのだろうか。ある夫婦の意見が一致せずそれ故離婚に至るとして、裁判離婚を含む離婚までに相当の時間がかかる。単独親権制は結局「適時」の決定との関係でもおそろしく機能不全なのである。なお、単独親権であること自体が速やかな離婚成立を妨げる大きな要因になっており、そうであれば、なおさら、単独親権制が適時の決定に資するものとはいえない。
イ 単独親権制が父母の対立を増長させていること
また、意見調整の解決を親権の帰属で行う現行制度は、父母の対立を生みまたは増長させる効果があることは論をまたない。これは父母及び子のどの立場にとっても、不利益が大きく、結果として、子が成長するまでの過程のほとんどを親権帰属も決まらない対立状態で過ごすことも少なくない。この点を踏まえると、養育権を適時に調節する仕組みを用意せず単独親権による解決を行う現行法は、不要な利益侵害まで生み出す不合理な制度である。
ウ 非婚の父母を一律に単独親権とする合理性を欠くこと
次の非婚の父母のうち、㋐事実婚に至らない父母、㋑事実婚状態にある父母、㋒離婚した父母、を一律に単独親権とすることの合理性を考える(㋐㋑㋒は「事務連絡」に対応)。
この点はそもそも法律婚や事実婚を含む父母間の婚姻に関する関係(父母の関係性そのものとは異なる)を介在させて親子関係を規律すること自体の必要性を考えなければならない。このことは、ちょうど、被告の次の主張を検討すると考えやすい。
被告は「なお、仮に非婚の父母について一定の場合(例えば長年にわたり事実婚の状態である場合など)に共同親権とするとした場合、父母間の関係性が多様である上、外部からその関係性が明確でないことなども踏まえれば、どのような関係の場合に共同親権とすることが相当か、 共同親権とする基準として明確か、また、共同親権とした場合に子の利益が害されるおそれがないかといった問題も生じると考えられる。」と説明する(被告第4準備書面7頁)。
この点、被告のいう「外部から」の意味であるが、ここでの外部とは何を意味するのかすこし分かりにくい。「外部」が何を意味するのかについて、被告主張の文脈を考えた上で、明確化して分析していきたい。一つとして、「外部」とは、共同親権を付与する場面の裁判所や行政の目をいうパターンと、もう一つ、実際に共同親権状態の事実婚の者であるかを判断する社会の(一般の)目をいうパターンがあると考えられる。被告は、この両者あるいはいずれかからの判断が難しい点が、現行法の合理性を基礎付けると言っているのである。果たしてそうであろうか。
まず、前者の親権を付与する場面においては、現に年金分割や各種手当の分野など、裁判所や行政が事実婚の認定を行っているものであって、事実婚の認定は可能であろう。ただ、ここで重大な点に気が付く。そもそも、年金分割や財産分与等夫婦自体の問題とは異なり、親子の関係を規律する親権の帰属の問題の場合、あえて「事実婚」という中間概念を介在させなくても、直接親子の問題として共同親権とすべき場合を規律することで足りる。もちろん、具体的な制度自体は(養育権及び子が養育を受ける権利を害しない範囲において)立法裁量であるが、たとえば、(婚姻状態にかかわらない)父母双方の共同監護の意思、父母それぞれの虐待の蓋然性がないこと、最低限の監護能力の有無等を踏まえて、親権の帰属を検討する仕組みも考えられる。その意味で、「事実婚」やその外部からの認定に捉われることはないのであって、この点の被告の説明は思い込みによるところが大きいと思われる。それにもかかわらず、事実婚の認定の問題を挙げて、一律単独親権とすることはあまりにも合理性を欠く。さらに言えば、被告のいう「共同親権とした場合に子の利益が害されるおそれがないかといった問題」は、何も父母が非婚である場合に限らず、父母が法律婚にある場合も含めて、父母の一方又は双方が養育判断を行う親としての適格性を欠いている場合はあるのであり、この点をできるだけ過不足なく適切に親権の帰属やその行使の在り方を規律することを目指すのであれば、現行法の単独親権制は明らかに合理性を欠いている。
次に、社会の(一般の)目を考えたとき、実は、このこと自体がおかしな議論であると気がつく。まず、元々現行法においてもある者がある子どもの親であることや親権者であることを示す情報は戸籍の記載情報しかない。親権者と親権に服する子が同じ氏であるとも限らないのである。現行法は「氏」と親子の関係を完全に切り離すものとして立法されている。このことは、文献「戦後における民法改正の経過」166頁(甲37)でもはっきり指摘されている(同文献において、「結局、最後の案としては、親権を氏からすっかり切り離してしまって現行法のような案にきまった・・・」とある。)。被告の主張はもしかすると、氏の問題と混同した面があるのかもしれない。そのため、親権の帰属の問題において、社会(一般)からの親権帰属の認識の問題との関係で、非婚の父母の一律単独親権の合理性を見出すことは現行法の構造上不可能である。
以上述べたとおり、事実婚の認定の問題はどのような視点で考えても、線引きの仕方としての合理性を到底見いだせない。考えてみれば当たり前である。父母の婚姻と親子を結び付ける方法は、(家制度を事実上残す狙いではないものと善意解釈をしたとしても)父母の法律婚という父母の類型的な関係性から、生活や関係性の実態を類型的に推測する考えに基づいているに過ぎない。この推認が極めて雑であることは誰でも分かる。法律婚でなくても同居して共同生活を送る者もいるし(㋑事実婚が多いが当該認定を介在させる必要もないことは前記のとおり)、同居をしなくても父母で交代監護を行う者もいる(㋐、㋑、㋒すべての類型において)。両性の平等や親子の養育の利益を前提 にすると、現行法の類型的な推認による線引きはあまりにも乱暴である。非婚の父母に共同親権を認める方法に様々な方法があり、ここは立法裁量の幅が広いとしても、すくなくとも現行法のあまりにも乱暴な線引きに合理性が見いだせるはずがない。
(4) 目的及び手段の合理性に関係する立法経緯
以上、現行の単独親権制の目的が正当でないこと及び仕組みが不合理であることを述べた。以上は立法「目的」等の枠組みの中で、国である被告(国)が提示する「目的」に対応する形で説明を行ったが、以下、改めて立法の経緯なども踏まえながら、現行の単独親権制がいなかるものか述べる。先に述べておくと、現行の単独親権制は、目的の正当性以前に、便宜的にスタートさせた立法を単にその後放置しただけの遺物であることが分かっている。
ア 民法改正経緯について
被告も述べるとおり、明治民法では、父が認知すれば原則として当然に子は父の家に入り (明治民法733条)、父の親権に服する(明治民法877条)とされていた。これに対し、現行法への改正の動きは、家制度を廃止するとともに、両性の本質的平等を目指したものである。このことは間違いない(第92回帝国議会衆議院日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律案他二件委員会議事録(甲38)からもうかがわれる。)。ただし、両性の本質的平等という目指す方向性がありながら、親権者を父とすることの改善はなされたものの、事務上の便宜から、婚姻時の父母の調整規定は用意せず、かつ、非婚時を単独親権とする方向で調整された。このことは、現行法施行前においては、一時的に施行されていた日本国憲法の施行に伴う民法の応急的措置に関する法律(以下、「応急措置法」、とする、)の内容及びこれに関する議論からも分かる(応急措置法に関しては、大村敦志著「民法読解親族法」318頁~320頁(甲32-2)や、小澤文雄法律時報19巻5号53頁56頁~57頁「民法の応急的措置に関する法律」(甲39)も参考になる。)。
応急措置法は非婚の父母においても親権を共同行使することが可能な内容となっていた(家庭裁判月報7号(甲40)))。応急措置法下では、父母の協議で親権者を定めることができたが、その定めをしなかった場合は父母の共同親権となるものとされていた(「親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録」第一巻65頁(甲41―1))。応急措置法の趣旨について、「応急措置法第六条が「親権は父母共同してこれを行う」と規定したのは新憲法の施行に伴いその精神に従い旧来の家族制度にとらわれた親権制度を打破して苟も保護を要する子供に対しては原則として全ての親に親権を与え、専ら子の利益の中心にことを考えようとしたのであるからそれは両性の本質的平等旧来の家制度の打破、従つてその下に不利益を被っていた者の救済という新憲法の理念の一つを体現しようとする目的を持つものである」と説明されている(家庭裁判月報4巻11号(甲42))。なお、同資料では、応急措置法の施行前に離婚した母でも共同親権者となり得るかという議論の中で、上記理念から当然に遡及適用を相当とする意見として記載されている。また、「親族、相続、戸籍に関する訓令通牒録」第一巻106頁(甲41-2)にも、応急措置法施行前に離婚又は認知されたことによって従来親権を行わなかった者も同法施行後は「家制度の下に制約されていた両性の平等がここで回復されたのである」とされている。ここでいう「回復」との言葉は、本来親としての地位が得られるべきはずの者(母)が、家制度及び男女不平等の法制度の中でその地位が奪われていたということのあらわれである。個人の尊厳と両性の本質的平等という現行法の理念に従うと、この地位が「回復」したという位置付けになるのである。
上記応急措置法の内容及び上記説明からは、家制度の打破(個人の尊厳)及び両性の本質的平等の帰結が共同親権であったということができる。子が父母のいずれかの「家」に入るという制度からの脱却という意味においても、両性が等しく扱われるという意味においても、父母それぞれが共同親権者として扱われることは整合的であり応急措置法はその理念に対して素直な立法であったといえる。
しかし、応急措置法の後、施行された改正民法は、上記理念が後退した。応急措置法が同法施行前に離婚した母であっても、同法施行後は憲法の理念に則り母の親権が「回復」するという運用がなされていたのに対し、非婚時一律単独親権となったことは、理念の後退と言わざるをえないであろう。そして、その主な理由は、「事務上の便宜」であったと考えられる。この点、応急措置法と現行法の関係について「元来戦後の民法改正事業は、日本国憲法の施行と同時に実施することを目標として進められていたのであり、それが実現されないで中間に応急措置法が施行されたについては、その事情、その政治的背景、応急措置法と改正民法との間の理念の異同等につき或はなんらかの疑義があるかも知れない。しかしながら改正民法の施行が当初の予定より遅れたのは直接には事務上の理由によるもので特にこれを遅らせようとする政治的理由を伴つたものではなく、又応急措置法は改正民法とその理念を全く同じくするものであつて両者の間に差異はない。」(「身分法の現在及び将来」19頁(甲43))と記載されている。何と、親としての権利と両性の本質的平等を回復させる形で共同親権を定めた応急措置法と現行民法は理念に全く差がない、とされているのであって、その差は「事務上の理由」でしかないとされている。これこそが、現行の単独親権制の目的を示していると思われるのである。では、「事務上の理由」とは何か。
これについては改正民法を立法した法制審議内のメンバーが含まれる座談会(甲34)の内容からもうかがうことができる。まず、改正民法(現行法)に共同親権中の父母間の意見が一致した場合の手当がないことについて、我妻氏は「それはそれですまないというのがほんとうだろうが、日本の場合はすんでいるのだね。」「ひにくな言い方をすれば、何とか手当をしなければならない事情になったということは、それだけ母の意思が重んじられるようになったことだから社会の進歩だ、非常に喜ぶべきことだといえる」「多くの場合、父親のいうことにきまるだろうということじゃないですか。」などと述べている(座談会84頁(甲34))。これは、共同親権下の父母間の意見調整について、本来手当てが必要であるが、実際の規定の仕方などをはっきりと決められない中、当時父親に事実上の決定権があることを実際上の解決として手当てを欠いたままとしたということである。また、非婚父母の場合の親権の帰属については、共同親権を可とすべきとの意見もあったようである。ここでいう共同親権とするかどうかという議論は、当時は母に権利の道を開くか、という意味と同義と考えられていた。このことは、前記明治民法から応急措置法立法の運用をみても明らかであるし、座談会においても唄氏が「あまりに形式的に整え過ぎて母の権利の強化に道を開きすぎると却って実際上は利用されなくなって画に書いた餅になる、ということを我妻先生は大分心配されていましたね。」と発言している(同文献87頁)。前記憲法の理念及び応急措置法の理念に照らすと、当然、母親(両性)に権利の道を開くことが望ましい。同座談会でも立法過程において、非婚の場合の共同親権が検討されたようである。ただし、その具体的な内容として、「身上監護権と財産管理権を分ける」ことや「共同親権にしうるのは、家庭裁判所を通ったときだけにしよう」などの案も検討されたが、結局応急措置法と異なり非婚時一律単独親権の現行法が立法されたのである。付言すると何より、婚姻時の共同親権ですら父母の意見の調整に本来必要な手当てを用意せずに家庭の中での事実上の力関係(立法当初は「父親のいうことにきまる」と想定されていた)に委ねていたのであるから、家庭を異にする場合もある非婚の父母においては、単独親権は一種の「解決策」という側面もあったと思われる。上記議論をみれば分かるのは、憲法が施行され家制度の打破と両性の本質的平等が目指されたものの、我が国の当時の実態として家や氏と子どもの養育を結び付ける実態や父親が事実上決定する実態があり、これに追従する意識や時間的制約の中での現実的な立法における議論が煮詰まらなかったことから、事務上の便宜のために、父母の意見の調整を欠き、非婚の場合を一律に単独親権とする現行法が立法された。つまり、応急措置法から現行法への立法過程の中での議論(これこそが単独親権制立法の議論である)においては、積極的な子の福祉実現の議論や両性の平等実現の議論などはどこにもないのであり、ただ、実態に追従する意識や具体的な制度内容が煮詰まらなかった過程があっただけである(我妻榮著「改正親族相續法解説」107頁(甲44)に実際論の言及がある。)。これが事務処理上の理由と説明されたものである。上記のように、改正民法(現行法)は、両性の本質的平等と家制度の打破を目指して立法されたものの、事務処理上の便宜から応急措置法が目指した理念から相当の後退をみせた。これが現行法の位置付けである。このような立法の経緯や説明を踏まえた現行法の捉え方としては、許末恵教授の「親権と監護―民法第766条、第818条及び第819条の成立―第4章 戦後の民法改正・終章 今後の課題」(甲35)も参考になる。
なお、当時の立法に関する各資料全体を通じて分かることは、家制度の打破(個人の尊厳)と両性の平等を推し進めようとするGHQとの様々なやりとりの中で、日本の立法者たちが憲法の理念自体は表面上否定しないながらも、従来の氏・家の制度や男女の関係を事実上維持しようとしていた姿勢もうかがわれる。つまり、実際は理念に対する「抵抗」の中で現行法が施行されたともいえる。ただ、この点はあくまで表面的な説明に則り、事務上の便宜、のためにやむなく応急措置法の理念が交代した現行法が走り出した、と仮に善意解釈する。
イ 立法経緯を踏まえた立法目的の検討
ここで、上記の立法の経緯を踏まえ、被告の述べる立法目的との関係を整理する。立法の経緯の中で、被告が目的として述べる各フレーズがどこに位置づくのかという点である。
まず、「両性の本質的平等」については、やはり、本件で原告の訴える親の養育権の制約の目的に位置付けることは無理である。立法者の議論からも「両性の本質的平等」の理念の実現状況としては、現行法はその理念も道半ばで施行が開始され、それがそのまま現在に至っていると説明することが自然である。
また、「慎重熟慮」に関しては、そもそも、立法の時点ではあまり意識された形跡はない。後から「共同親権」(ここでいう共同親権は現行法の共同親権(機能を欠く婚姻のシンボルという程度のもの)を指すのではなく、抽象的な制度としてのものである)の実益を考えた時に、議論されてきたものであると思われる。慎重熟慮機能は、当初から婚姻中共同親権においてすらも手当てを欠いたまま、ある種機能として重視されてこなかったのが現行法である。
最後に、「父母間で子に関する事項について適時に適切な合意を形成することが困難となる結果、かえって子の利益が害されるおそれ」というフレーズを考える。これは、唯一、養育権制約との関係で目的として位置付けられる可能性のあるものである。ただ、上記の立法の経緯からすると、父母間で意見が一致しない場合の適切な決定を実施する手当を欠いていることは自覚されており、これが共同親権の場合も含めて父母間での決定を難しくしている。それがために婚姻時は親の事実上の力関係に委ね、非婚時は一律単独親権とせざるをえなかったとの説明である。これは、積極的な子の利益を目指したものではなく、(家制度的な状態を残すための「抵抗」ではないと善意解釈したとしても)当時の実態や当時としての立法の困難性や時間的制約の中での、まさに事務処理上の問題だったのである。つまり、被告の述べる養育権制約の目的は、実際は、事務処理上の課題、であったのである。そのため、当然であるが、現行法は、適時決定の機能においても、前記のとおり離婚までにかかる時間や紛争拡大の弊害など、大いに機能不全なものとなっている。
ウ 現行法について
さて、話を戻して、現行法立法後について触れる。
前記のとおり、現行法は両性の本質的平等も家制度の打破も道半ばのものであり、必要な手当ても欠いているものである。このことは立法者も気が付いていたのであり、意図的な立法時点での立法不作為であるといえる。ただ、実際は適当な手当てを検討するには時間が必要な事情もあったのかもしれない。当時は他国の立法状況としても、他国においても父親の決定に委ねるといったものなど、比較や参考が難しい状況もあったものと思われる。この意味において、文献「戦後における民法改正の経過」168頁より、我妻氏が「父母が離婚しても共同親権にしておくことはできない、これは司令部でも認めている。どちらか一方にしなければならん。」(甲37)と述べているように、GHQも非婚時単独親権自体は認めていたということも指摘されている。ただし、あくまで仮に、ではあるが、手当なしでやむなく現行法の施行がなされたことを正当化するとしても、我妻氏の述べるように、「それはそれですまない」こと、つまり「何とか手当をしなければならない事情」が生じる前あるいは生じるまでには手当てをしなければならないことは明らかであった。
現行法施行以降、諸外国でも、当初はおそらく未熟な面があったのであろうが、子が両親から養育を受ける権利確保や両性の本質的平等を目指し各々共同親権制度構築など手当てを行ってきたと思われる。親の地位における両性の本質的平等や子の権利の確保に向けて、確実に歩を進めてきたのである。もちろん、各国が現在においても完璧な法の手当てを用意しているということは断定できず、改善等が議論されている場合もあるのであろうが、少なくとも、両性の本質的平等と子の利益確保を目指し法整備の努力を行ってきたのであろう。
しかし、なぜか我が国は上記のような明らかに未完成の立法をそのまま放置してしまった。現在の社会通念として、父親(男性)だけが子に関する事項を一方的に決定する、という価値観もなければ、実態もないのは明らかである。繰り返し引用するが、我妻氏は「何とか手当をしなければならない事情になったということは、それだけ母の意思が重んじられるようになったことだから社会の進歩だ、非常に喜ぶべきことだといえる」とはっきりと述べている。この「社会の進歩」「非常に喜ぶべきこと」はすでに起こっている。それはとうの昔からである。たとえば、離婚時に単独親権に移行する場合の、父母の一方が親権者となる割合は、昭和41年にはそれまで父親の割合が高かったが以降母親に逆転している(甲45)。どれだけ遅くとも、このころには、父母の養育権を対等に調整する手当が必ず必要であった。それでも、何らの立法手当もないまま放置され時代が進んだ結果、現在においては母親が親権者に指定される割合が85パーセントというあまりにも偏った割合になっている(甲45)(2020年度には93.8%という司法統計もある(読売新聞(甲46))。これは、一部の裁判官自身からも、具体的な事案を無視しているおそれが指摘されているほど(甲46)、硬直的な運用であるが、それもそのはずである。そもそも立法時点で父母の事実上の力関係を是正するどころか、そこに任せてしまう意思があったのであるから。立法当時は父親が事実上決定を独占することが多かったのが、そのまま現代では母親に変わっただけである。
同時に、上記未完成の放置状態は独特の現象を生むことになった。これも放置状態に拍車をかけたのかもしれない。この点、まず一般論として、ある人権侵害や個人の尊厳無視が行われる場合、必ず、それによって反射的な利益を受ける者が生じるものである。すなわち、親の養育権を保障する立法を欠くことは、他方親が子と密に関わり子に対する判断に介入することを回避したい者(他方親など)にとって、結果的に便利に機能する面があったのである。いわば、未完成の建付けに上積みされる形で、現在の未完成状態が偶々特定の状態にある立場の親の便宜に機能する事例が積みあがってきた。一見すると既得利益のようなものが生じたのである。しかし、それは実は現行法が意図して与えた利益ではなく、あくまで、親の養育権を保障し適切に調整する立法が未完成であることの偶々の反射的な結果なのである。法の目的の外の結果であるため当然であるが、当該者たちの置かれた個別の状況にとっての適切な保護でもないため、利益としても保護としても時に過大であり、時に過少となる。
以上、応急措置法を含む立法過程からの現行法の流れをみたときに、単独親権制は、目的の正当性以前に、単に必要な手当てを怠ったあるいは先送りにし続けた無目的な法状態であるとみることが理に適っている。本件被告(国)は、婚姻中共同親権状態の目的や、単独親権制の目的を説明するにあたり、相当苦労している様子がうかがえるが、これもうなずける話である。
4 民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の規定は、基本的人権又は人格的利益である親の養育権について、他方親と婚姻中の者と他方親と非婚の者(未婚、離婚、事実婚を含む)に不当な差別を与えるものであり憲法14条1項の「差別」にあたること
(1) 区別の内容
本訴訟で主張するのは、非婚の父母と婚姻中の父母の区別である。本書で述べる「非婚」は前述のとおり、法律婚状態にないことを指す。
非婚の父母は父母の一方しか親権者となることができない(民法818条3項、同法819条。)。これに対して、婚姻中の父母は原則として父母双方が共同で親権者となり(民法818条3項)、父母の意に反して親権を喪失又は停止されるのは、親権喪失の審判(民法834条)・親権停止の審判(民法834条の2)の場合である。
(2) 差別の存在
上記区別は、憲法14条1項の「差別」である。非婚の父母はその養育の意思や能力などの個別的な特性にかかわらず、必ず、父母の一方は親権を奪われた状態である。これに対し、婚姻中の父母は、「虐待又は悪意の遺棄」等「親権の行使が著しく困難又は不適当」であるときだけ意思に反して親権を喪失する可能性があり、また、「親権の行使が困難又は不適当」なときだけ親権を一時的に停止される可能性がある。婚姻中の父母の親権は、極めて厳格な要件と手続保障に保護されている。加えて、同規定により親権を停止された親であっても、前述の代諾養子縁組の同意権を有する(民法797条2項)。以上は非婚の父母と婚姻中の父母の間の明白な差別である。なお、非婚の父母のうち親権を有する親も法的には差別されていることを付言する 。非婚の親は、たとえ、自らが親権を有していても他方親との共同親権保有は選択の余地すらないのであり、また、親権者指定・親権者変更などの民法819条各号の手続きにより法律上は常に父母間で親権は択一的な緊張関係にあるといえるからである。
次に、上記差別はいかなる権利・利益について差異を設けるものであるか。まず、上記差別は、非婚の父母と婚姻中の父母の間で、「親権」について差別するものであることは明らかである。本書では先に、親権の制約それ自体が基本的人権である養育権の侵害にあたるか否かという点について、両可能性を含めて論じているが、この点がいずれであっても、本項の平等権との関係では問題とならない。本項で主張する人権は平等権であり、差異を設けられている権利自体が必ずしも憲法上の人権である必要はないから、親権という親子の基本的関係にかかわる重大な権利を区別している時点で憲法14条1項の「差別」である。また、前述の養育権についても、養育権自体が人権であるか否かは、本項の平等権の結論を左右しない。養育権という明らかに人格に関わる人権又は利益を、親権の区別という形で「差別」していることもまた明白である。
以上の「差別」が憲法14条1項に違反違憲であることを以下述べる。
5 現行の単独親権制は憲法14条1項違反であること
(1) 比較対象及び差別を生じさせる根拠となる規定条文の確認
「民法818条1項は、「成年に達しない子は、父母の親権に服する。」と規定し、同条3項本文は、「親権は、父母の婚姻中は、父母が共同して行う。」と定める。これはつまり、(同条2項の子が養子である場合を除き)原則親権は「父母」に帰属し、同条3項で「父母の婚姻中は」親権行使を共同としていることから、婚姻中は原則父母の共同親権である一方で、父母が非婚である場合には一律に父母の一方だけが親権者となる。そのため、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定は、法律婚にある父母と非婚の父母という「社会的身分」により、親権の帰属において差別しているといえる。なお、被告は、被告第2準備書面9頁において、裁判例として、東京高等裁判所平成30年9月27 日判決(D1-LAW判例ID28265275)を挙げるが、同判決における別訴控訴人の主張は、「裁判離婚において親の一方のみを親権者とし、もう一方の親の親権を失わせる民法819条2項」についての憲法14条1項及び憲法24条2項違反をいうものであり、法律婚から非婚に移行する段階で親権者となる者と非親権者となる者の対比を問題としているようである。これはいわば、本件で指摘する「差別」の結果として、父母が「非婚」に移行する状態で発生する法的な事象であり、本件とは着目する区別の対象がまったく異なっている。
(2) 差別される権利及び同差別が不合理であること
ア 差別される権利
まず、民法818条3項の「父母の婚姻中は、」の規定により、「親権」に関して差別があることは明白である。この点、親権は、具体的な法制度として設けられたものである点において、親権そのものは憲法上の人権でないとしても、その内容において親が子を養育する責務を全うしその養育行為にかかる人格的利益を享受するにあたり不可欠な地位であるから、「親権」において差別することは、これは憲法14条の「政治的、経済的又は社会的関係」における「差別」にあたる。
また、同時に、本件差別は「養育権」に対する差別にあたる。養育権が憲法13条により保障される憲法上の人権であることはこれまで原告が述べてきたとおりであるが、憲法14条の主張との関係では、必ずしも養育権そのものが憲法上の人権である必要はないと考える。
ウ 差別の内容及び立法の不合理性
まず、民法818条の「父母の婚姻中は、」の規定により、非婚の父母は、そのうち一方が必ず親権を有することができないという点で、子の養育に必要不可欠な地位を奪われており、ここに憲法14条違反の人権侵害があることは明らかである。
その立法の不合理性は、その立法目的及び手段は、養育権侵害で述べたものとまったく同様であり、本書でも立法の経緯等も踏まえ、すでに詳細に述べている。強いていえば、特に立法手段として、非婚の父母と婚姻中の父母を分けることの合理性が憲法14条違反との関係ではより重要になってくるものである。鈴木博人教授も、「まず親の立場からすると婚姻をしていないと、婚姻をしてないっていうのは離婚の場合だけでなくて、婚外の子供を産んだ場合っていうのもありますけれども、それ自動的に親権が選択の余地なく、なくなるというのは、法律婚をしなければないので、法律婚をしている者と法律婚をしなかった者、もちろんその中には様々な人がいますね、法律婚を例えば夫婦別姓の問題があるので自分たちはできなかったという人たちもいらっしゃいますし、様々な人がいらっしゃると思いますけれども、それが自動的に親権も持ちませんという資質も何も審査なく親権をもちませんというのは、これは社会的な身分というか、それによる差別に当たるというふうに考えますし、子供の立場からすれば先ほど言ったことと重複しますが、親が法律婚をしていなければ、もう法定保護者は1人しかないんだというのは、これは子供にとっては差別ですよね、制度に基づく。恐らくこどもの権利条約にも違反するというふうに私は考えております。」と現行法が明確に憲法14条違反に当たることを指摘している(鈴木証人調書8頁)。
もう一点、強調したい点は、不合理な「差別」によって侵害を受ける者は、取扱いにおいて区別を受ける片側の身分・地位にある者だけにとどまらないことがある、ことである。何度も指摘しているとおり、現行法は、現行法の単独親権制とはすなわち、父母間に子の養育に関する意見の対立があってもこれを調整する仕組みを一切用意せず、事実上の父母間の力関係に解決を委ねるか(これを解決というのかどうかはともかく)、当初からの単独親権(認知等の場合)及び単独親権への移行(離婚の場合)によって養育に関する決定権そのものを一人の親に集中させることによって解決する制度、である。つまり、憲法14条との関係でみれば、現行法の単独親権制という不合理な差別こそが、親の養育権の調整方法ということであり、これによって結局婚姻中の親権を有する父母であっても非婚の父母であっても、自身の養育権が他方親等により侵害をされた場合、適切にこれを回復する手段を持たない、ということである。というよりも、現行法が上記「差別」によって父母の立場を調整するのは、根本的に、すべての親に実は養育権を認めていない、ということのあらわれである。上記差別は、法律婚状態にある者だけ「互いに協力して子を育てるべき関係」(被告第1準備書面5頁等)として、国家が法律婚として想定するあるべき形にある者にだけいわばシンボル的な意味で共同親権を付与するものである。このように現行法は親個人としての養育権を前提にした親権制度になっていないことから、結局、「互いに協力して子を育てるべき関係にない」状態になれば単独親権への移行と言う乱暴な方法による解決でも問題がないことになる。この意味で、本件差別は、親としての養育権を根本的に認めていないことが、不合理な差別と言う形であらわれたものである。本件原告らは婚姻中の者も含めて、すべて現行の不合理な法により、憲法14条違反の人権侵害も受けている。
なお、補足すると、この点は、現行法の評価や法改正における議論でしばしばみられる誤った対立構造にも関連している。議論の中で、親権や監護状態を有する側の都合を訴える立場や監護を奪われている者の中でも法律婚にある(あった)者だけを救うべきとする立場 、などの様々な対立構造があり「分断」とも呼べる状況になっている。しかし、これは現行法の内容や実際の運用を見誤った無意味な分断ともいえる。立法過程からも明らかなように、現行法は、法律婚の有無、性別などにかかわらず実際は「誰の」養育権も尊重せず事実状態に委ねてしまっているものである。法が法律婚の父母と非婚の父母を差別するのは明らかに憲法14条違反の差別であるとしても、この構造は見失ってはならないと考える。
第2 上記立法不作為による国家賠償請求
1 国家賠償法上違法となる立法不作為について
(1)最高裁大法廷平成27年12月16日判決(平成25年(オ)第1079号)は、国会(国会議員)の立法不作為が国家賠償法上違法となる場合について、以下のように判示している。「法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠る場合などにおいては、国会議員の立法過程における行動が上記職務上の法的義務に違反したものとして、例外的に、その立法不作為は、国家賠償法1条1項の規定の適用上違法の評価を受けることがあるというべきである(最高裁昭和53年(オ)第1240号同60年11月21日第一小法廷判決・民集39巻7号1512頁、最高裁平成13年(行ツ)第82号、第83号、同年(行ヒ)第76号、第77号同17年9月14日大法廷判決・民集59巻7号2087頁参照)。」そして、さらに、令和5年1月25日判決(甲79)によれば、「この理は、法律の規定が存在しないことにより、憲法上保障され又は保護 されている権利利益が合理的な理由なく制約され、それが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその立法措置を怠る場合に も、妥当すると解すべきである。」として、判断枠組みを示している。
(2) 上記の点について検討すると、日本においては、父母間の養育権を調整する判断基準や仕組みを司法にあたえない立法内容になっている。父母間の養育権の調整システムが立法上ほとんど存在しないという異常な状態になっているのである。
具体的な制度以前に、人権として又は人格的利益として、親が子を養育する権利・利益が存在し、子が両親から養育を受ける権利・利益が存在することを前提とすると、具体的な制度の中で各利益を尊重しこれを調整する仕組みが存在すること、同仕組みを用意する立法努力が求められることは言うまでもない。
家族や子の問題は、種々の立場から種々のイデオロギーの問題と絡めて議論されがちであるが、そのような立場を超えて、父母間の養育権の調整システムが存在しなければならないことは、上記観点から当たり前のことである。また、養育権が何らかの理由で制約される場合、その要件と手続が明確になっていなければならないことも当然である。システムという観点でみると、養育権に関して、父母それぞれが子との関係で親子であり、いわばステークスホルダーであるが、その利益の調整の仕組みがないことは異常なことである。養育権調整の立法を欠くことは、イデオロギーの問題でも何でもなく、単に国のインフラを欠いている状態なのである。
それにもかかわらず、これまで立法は判断基準も曖昧なまま司法に個別案件の問題として司法に委ね、養育権の保障・調整の実施を放置してきてしまった。このこと自体、法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠ってきたといえる。
上記第1の2「(4) 目的及び手段の合理性に関係する立法経緯」(本書34頁から43頁)において、現行法が単独親権制で走り出してしまった際の経緯を説明している。同部分では、単独親権制の立法目的と合理性との関係で立法経緯を説明したが、立法不作為の問題との関係であらためてお読みいただきたい。現行憲法に適合させる形で、両性の本質的平等を回復しそれ故男女(父母)が親の養育的地位を回復したのが応急措置法であったが、その後、現行民法はこの点を置き去りにして走り出してしまった。このように現行制度が走り出したのは、「父」が事実上子のことを決定する実態があるからよいであろうという価値判断もあった。これが戦前の家制度からの「抵抗」ではなく、事務処理上の理由からやむをえなかったとみるとしても、まさか現在まで単独親権制を放置してよいはずがないであろう。しかし、なぜか我が国は上記のような明らかに未完成の立法をそのまま放置してしまった。
なぜ、父が事実上決定権をもつ時代がとっくに終わり、両性が子育て及びその決定に関わるべき時代になったにもかかわらず、上記経緯でスタートした立法不作為を放置したのか。いかに遅くとも母親親権の割合が逆転した昭和41年(甲45)には立法手当の必要はあった。
いずれにしても、現時点(本件口頭弁論終結時点)において、法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠っていることは疑いようがない。
(3) 以上の点で立法不作為すでに違法な立法不作為があることを疑いようがないため、以下本来述べる必要はないと考えるが、その他、「単独親権制」を改廃し親子の養育的地位を基礎とした立法を行うべきことに、特に気が付きやすい事情を挙げていく。
この点、まず、子の養育をめぐる親権者間の対立について、刑事法が介入してしまった時点もその一つである。
父母の養育的地位をそれぞれ保障した上で適切な調整規定を設けることが本来必要であるが、立法者があえて意図したように、事実行為に委ねることで、親がそれぞれ養育的立場を確保すればよいという立法判断も存在したかもしれない。これはすこし信じがたい立法判断であるが、「法は家庭に入らず」という感覚も存在する。同感覚が立法の本件作為義務を後退させるという考え方もあるかもしれない。
しかし、父母の養育権の調整はそもそも子がどの家庭にどの程度属するかという面が強い。つまり、家庭内の問題ではなく、2つの家庭間の問題なのである。そのため、実は「家庭に入らず」という感覚はほとんど妥当しない。
そして同感覚が妥当しないことが決定的ななったのは、刑事法の介入である。
平成17年12月6日最高裁判所第二小法廷決定(平成16年(あ)第2199号)は、親権者である父が、別居中の妻が監護する子を連れ去ったという事案において、同父が未成年者略取の罪に問われた事案であるが、「親権者によるものであるとしても、正当なものということはできない。」「家族間における行為として社会通念上許容され得る枠内にとどまるものと評することもできない。」として、未成年者略取罪の成立を認めた原判断を維持した。同判例により、態様によって正当化される余地があるとはいえ、連れ去り後の子の連れ戻し行為について、大いに萎縮的な効果を与え、より連れ去り勝ちが強化されてしまった面があることは否定できないであろう。いずれにしても、国家は刑事処分をもってまで、部分的に親子に「介入」しまったのである。この裁判例の時点で、国家は親子について強く手を出してしまったのであるから、その波及するところを考え根本的な養育権調整に至るべきであった。同判決では、滝井繁男裁判官が反対意見を出しており、そこでは、「確かに、このような場合家庭裁判所の手続によることなく、他の親権者の下で生活している子を連れ出すことは、監護に当たっている親権者の監護権を侵害するものとみることができる。しかしながら、その行為が家庭裁判所での解決を不可能若しくは困難にしたり、それを誤らせるようなものであればともかく、ある時期に、公の手続によって形成されたわけでもない一方の親権者の監護状態の下にいることを過大に評価し、それが侵害されたことを理由に、子の福祉の視点を抜きにして直ちに刑事法が介入すべきではないと考える。」「むしろ、このような場合、感情的に対立する子を奪われた側の親権者の告訴により直ちに刑事法が介入することは、本件でも見られたように子を連れ出そうとした親権者の拘束に発展することになる結果、他方の親権者は保全処分を得るなど本来の専門的機関である家庭裁判所の手続を踏むことなく、刑事事件を通して対立する親権者を排除することが可能であると考えるようになって、そのような方法を選択する風潮を生む危険性を否定することができない。」としており、手続を経ない父母間での実力行使による養育の奪い合いが横行する可能性に言及していた。同反対意見は、法やその解釈が行為規範になることを踏まえた、常識的な予測であり、実際に反対意見のいうとおり、家庭裁判所の事前手続を踏むことなく事実上子の単独支配を先行させてしまう子の連れ去りは頻繁に起こっているし、連れ戻しが刑事処分の対象となってしまうことがそれに拍車をかけていると考えられる。
仮に、「法は家庭に入らず」の感覚で、事実行為に委ねるとすれば、子の単独監護を事実行為により一方的に開始されても、他方親も同様に事実行為で子を従前の居所に戻すなどして、結果としてそれぞれの親の養育状態の均衡が得られることもあるかもしれない(もちろん関係親族の多さや性格など事実上の力関係に委ねてしまうものであるため、これが適切であるとは到底思えないが)。しかし、一部偏った形で法が刑事処分をもってまでした介入することで滝井裁判官の述べるように、他方親の排除行為が風潮化するような極めてバランスの悪い状態になった。
このような状況で、親の養育的地位の保障とその調整に介入しないことが許されるはずがない。
(4) 前記のとおり、日本は、児童の権利に関する条約に、平成6年(1994年)に批准している。同条約第7条1項で「児童は、出生の後直ちに登録される。児童は、出生の時から氏名を有する権利及び国籍を取得する権利を有するものとし、また、できる限りその父母を知りかつその父母によって養育される権利を有する。」と規定され、同条約第9条1項に「締約国は、児童がその父母の意思に反してその父母から分離されないことを確保する。」とある。
しかし、現在日本において、児童の父母はその意思に関して、適正な手続もなく子と引き離され、子の養育を妨げられている。単純に言って、条約をまったく遵守していないのである。結果、平成31年(2019年)2月1日付で、児童の権利に関する条約の条約機関である子どもの権利委員会は、日本政府に対し、日本政府に対して、「子どもの最善の利益に合致する場合には(外国籍の親も含めて)子どもの共同監護権(shared custody of children)を認める目的で、離婚後の親子関係について定めた法律を改正するとともに、非同居親との個人的関係および直接の接触を維持する子どもの権利が恒常的に行使できることを確保すること。」を求める勧告を出した(同27条(b)。
その他、令和2年7月には、日本における子の連れ去りに関する欧州議会決議が出され、日本における親子法制に改正の改正及び日本が批准している児童の権利条約遵守が求められている。通常他国に対し基本法の改正までを促すことは慎重であると考えられるが、現行法やその運用がまさに基本的人権上の問題や児童の権利条約違反をはらんでいるからこそ、出された決議内容であろう。
実際に日本は非同居親と子との関係を維持する立法をまったく怠っているから、勧告を受けたことは自然である。同勧告以前に、条約に批准しながら、長年何らの是正立法を行ってきたことは明白である。
本訴訟においても、在外フランス人議会議員のコンシニ・ティエリ氏の陳述書(甲63) を提出しており、同陳述書でも、上記のような条約違反と人権侵害状態が指摘されている。
(5) 政府は、平成2年の「1.57ショック」を契機に、少子化問題を認識し、子供を生み育てやすい環境づくりに向けての対策の検討を始めたようである。平成6年には、「今後の子育て支援のための施策の基本的方向について」(エンゼルプラン)が策定され、平成11年には「重点的に推進すべき少子化対策の具体的な実施計画について」(新エンゼルプラン)が策定されている。その施策の内容は、保育サービス等子育て支援サービスの充実、仕事と子育ての両立のための雇用環境の整備、働き方についての固定的な性別役割分業や職場優先の企業風土の是正などである。
以上少子化対策にかかわる事項であり、少子化対策の是非等は本件とは関係がないが、遅くても平成2年以降、すでに日本では子の出生数や出生率の減少を防止し増加を目指すべきであるという基本的な考えが主流であったといえ、政府の方針であったことになる。
ところで、子の出生率を挙げるということは、子をもつという選択が増えるということである。人が子をもつという選択をするとき、何が重要であるか。それは、先進国においては当然のこと過ぎて意識すらしないかもしれないが、我が子が誕生すれば、我が子と親子として関わり養育することが保障されていることである。これが子を持つという選択を行うときのもっとも基本的な素地であることは疑いようがない。人が子をもつという選択をするのは、子の存在が喜びであることが大前提である。子育ては単にこなすべき事務ではなく、喜びなのである。仕事との両立やそのための保育環境などが子育てに重要であることは間違いないが、これらの施策は、子育てが人の喜びであることを大前提にそのサポートをするものである。
しかし、我が国の養育権の実情はこれまで述べたとおりであり、自らの意思又は適切な手続によらず、養育の喜びは奪われる。
どちらにしても、子と一緒にいて子を養育できるということが、親になるというもっとも基本的な喜びである。これが確保されない国が子の親になることを推奨することは信じられないことである。子をもつことを支援する以前に、親子関係という基本的な土台を欠いている。このことは日本があえて批准している前記児童の権利に関する条約の内容やその履行状況に照らしても、容易に気が付くはずである。
子の誕生について、これを推奨していく日本の方針が上記のとおり遅くとも平成2年には、基本的な素地として養育権の最低限の保障はシステムとして構築しておくべきであったことは明白である。
(6) 以上の理由から、現行法の民法818条第3項の「父母の婚姻中は、」の規定を維持し他に養育権を保障する制度を用意しないことは、法律の規定が憲法上保障され又は保障されている権利利益を合理的な理由なく制約するものとして憲法の規定に違反するものであることが明白であるにもかかわらず、国会が正当な理由なく長期にわたってその改廃等の立法措置を怠ったといえ、国家賠償法上違法である。
2 権利侵害及び損害
(1) 子の養育を妨げられている原告らの実情
原告らは全員子を養育する意思を有しているが、皆、養育とはほど遠い状態におかれ、意に反して子の養育から排除されている(甲13~15、 甲21~28、甲73~78、原告ら各本人調書)。ついに、わが子に会えぬまま亡くなってしまうことも珍しくない(甲80)。こうした実情については、離婚や別居に伴う「別居親」の実態調査の結果においても示されている(甲61・62)。当該実態調査を行った濱野健教授も、「7割の元夫婦が連絡を取れないまま子供の面会交流が滞っている状況に対して、なかなか具体的で速やかな支援策が見えてこないといった現状がありました。」「別居親、特に単身で暮らしているパターンが多いわけですけれども、精神的な状況であるとか心理的な側面に非常に良くない、否定的な影響が出ているという状況にあります。」と法廷でも証言している(濱野調書)。
これは、現行の単独親権制のためであり、前述の違法な立法不作為による。前述のとおり、仮に親権が養育権そのものではないとしても、現行の制度では非親権者に養育権を保障する仕組みが存在しない。そのため、原告らは、すべて、親権を奪われているという点において「差別」及び「養育権侵害を」受けている。
なお、原告山本及び原告吉田以外は、子が未成年者のうちに親権者となれなかったかあるいは親権を奪われている点において権利侵害が存在するが、原告山本及び原告吉田も含め、原告全員が現行の「単独親権制」により養育権及び親が子を養育する人格的利益の侵害を受けている。
(2) 損害
上記(1)、(2)のいずれの養育権侵害であっても、原告らの受けた精神的苦痛は、各100万円を下らない。
原告らの中には、幼い子と突然会えなくなったまま子が成人し、今も子の行方が分からない者もいる。また、裁判所、学校、警察関係で親としての扱いを受けず、深く傷ついたものもいる。そして、原告らは全員、親子として子と一緒に「いる」状態とはほど遠い状況に置かれている。原告らは人生で大事なものを奪われた生涯にわたる精神的苦痛を負っており、この苦痛は甚大で回復困難なものである。原告らの苦痛を慰謝するのには少額過ぎるが、すくなくとも、原告らの苦痛を慰謝する金額はそれぞれ100万円を下るものではない。なお、原告柳原正一及び原告柳原みきは、本件訴訟係属中に死亡した原告柳原賢の相続人父母であり、原告柳原賢の請求権を分割相続し各50万円を請求する。
第3 結語
以上より、原告らの受けた損害を慰謝することを求めているが、これにとどまらず、親子断絶をはじめとする人権侵害を伴う現行法を子どもや孫の世代に残してはいけないということも原告らは理解している。単独親権制を撤廃する法改正は、必ず、現行法に個人の尊厳を無視した致命的な欠陥があることに向き合ったものでなければならない。原告らは現行法により親であることを否定され続けている「親」である。親子の人権を侵害する法律を改正する努力も、「親」の責務であり子育てである。
親が子を養育し子が親から養育を受けることを肯定してほしい。親に対しては、かけがえのない子どもの存在を喜び尊んであげてほしい。子に対しては、あなたのお父さん・お母さんがいてよかったね、と言ってあげてほしい。
そのために、本件判決で、現行の単独親権制が明確に違憲であることを堂々と打ち出していただきたい。
以上
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