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ちあきなおみ~歌姫伝説~17 私の途・前篇

 私が、ちあきなおみの個人事務所にマネージャーとして入社した一九九一(平成三)年から、退社するまでの八年間に及ぶ体験を顧みた手記を発表したのは、二〇二〇(令和二)年のことである。
 この手記は、一年、また一年と、ちあきなおみが芸能界から姿を消してから流れてゆく時間の中で、私の想いが、書かざるを得ない局面を迎え、なんとしてでも伝え遺したいという強い動機が人との出逢いを生み、出版という形で多くの人々の心に届いたと実感できる作品であった。

ちあきなおみ 沈黙の理由(新潮社)


 そしてこの作品によって、ちあきなおみの復帰を願う、リアルタイム世代のファンの方々、また、昨今の昭和歌謡ブーム、BSなどで繰り返し放送される特番の影響による、新世代ファンの方々の心に起こった波紋の中に、私なりの新しい役割を見出し、その波紋の広がりが今回筆を執るひとつの強い踏み台となった。
 そんなわけで私は今、毎日のように、カフェ、港町にある古い酒場のカウンターや、公園のオープンテラスなどと場所を変えては、初となる小説執筆と交互に、「歌・・・・、歌があれば、歌手がいる。歌手がいれば、歌がある。どうだ、もっともだろう・・・・」と、悪戦苦闘しながら書いている次第である。
 さて、この章ではそんな私の自己紹介を兼ねて、読者諸賢ともっとふれあいたいという願いの下、話を進めさせていただこう。
 まずは僭越ながら、ちあきなおみ体験ビフォアの項として、私の生い立ちにおつきあい願いたい。

 私は一九六七(昭和四二)年、名古屋で生まれた。世代的には、"伝説の歌姫"としてのちあきなおみ後追い世代に属するわけである。
 父親は当時、中部日本放送(CBC)のアナウンサーで、王・長嶋時代の野球や競馬の中継などを担当していた。その関係上、私は物心ついた頃より父親につれられて、ナゴヤ球場(現・中日ドラゴンズ二軍本拠地球場)や、中京競馬場のマスコミ関係者ブースの中から、一般的な少年とは別の視点から世界を眺めていたと言えるだろう。まだそういったことが許容される、おおらかな時代だったのだ。
 私は当然ながら地元名古屋のプロ野球チーム、中日ドラゴンズのファンであり、同世代の少年たちのご多分に漏れず、野球選手になりたかった。
 プロ野球選手と局アナウンサーは、取材やインタビューなどをとおして結構密接な関係にあるらしく、当時、プラチナチケットと呼ばれ入手困難だった巨人戦のチケットも、選手ルートで割と簡単に手に入り観戦することができたし、父親に頼み込み、球場ベンチ裏で、長嶋茂雄選手王貞治選手に直接サインをもらったりしたものだ。ある日学校から家へ帰ると、星野仙一選手が来訪していることもあった。
 子供だった私にとって、自分の夢の中の登場人物が、現実に等身大で目の前に存在していたという事実は、虚構と現実の境界線を消し去り、その後の人生を歩む過程において、虚実交錯のリアリズム世界を志向させるきっかけとなり、視座、思考上での独自の流儀を生成したのは間違いないのである。
 この頃であったか、郷鍈治出演の舞台公演が名古屋の名鉄ホールで一ヶ月あり、家族ぐるみのおつきあいをさせていただいていたこともあり、楽屋へ遊びにお邪魔したり、東京から観劇にいらしたお母様の文さんに、私の自宅にお泊まりいただいたこともあった。
 蓋し、私の運命もこの頃から動きはじめていたのであろう。

 小学生高学年に入ると、私は自ら希望し、名古屋放送児童劇団(現・NHK名古屋児童劇団)に入団した。その理由は、テレビ時代全盛期の中、現実から飛び出してなんとかテレビの世界の内側に入り込めば、当時憧れのトップアイドルだった、山口百恵ピンク・レディーに出逢えるかもしれないという不純な動機とともに、「現実世界はゆめ 夢の世界こそまこと」という江戸川乱歩的なパラドックスが、子供心にも暗示としてリンクされていたのだろうと、今にして思えるのである。
 劇団に入団すると、週一回のレッスン、舞台公演、NHK名古屋制作のテレビドラマへの出演など、その活動は多岐にわたった。
 その中でも印象深いのは、一九七九(昭和五四)年、ユネスコにより国際児童年とされたこの年、「世界と日本の子供展」が記念行事として、愛知青少年公園(現・愛・地球博記念公園)で七月三一日に開催された。
 式典には、皇太子夫妻、首相が臨席されるにあたり、そのステージ上でのエスコート役を児童劇団員が担うことになった。私は当時の首相である、大平正芳氏のエスコート役を任され、緊張のあまり手と足を同時に出しながら歩き、席までお供したのを覚えている。
 式典では、協賛歌である「ビューティフル・ネーム」(作詞・伊藤アキラ 奈良橋陽子 作曲・タケカワユキヒデ)を、ゴダイゴの生演奏で一緒に歌ったり、世界各国の子供たちと肩を組んだりと、私は夢という現実の中にいたのだ。
 中学生になると、「中学生日記」、「銀河テレビ小説」などのテレビドラマ出演が多くなった。特に「中学生日記」は生徒役でレギュラー出演し、火曜日から金曜日までがリハーサル、土・日曜日がスタジオ本番、ロケーションと、どっぷりと劇の中に浸かって過ごしていた。私にとっては、毎週もらうドラマの台本が、学校の教科書より重みをもって体内に吸収されてゆくようだった。

当時の台本

 
 受験レースを脇目も振らず走らされるコースを敷かれ、この現実社会で生きてゆくための知恵を教えられているような学校での時間が、私にはどこか白々しく、嘘っぽく、この現実こそ創り上げられた虚構であり、嘘の世界を創り上げた台本の中の私こそ、本物の私である、という感がますます強くなっていったのだ。

 そして、私がというものに対する観念の根拠を植え付けられたのが、中学三年生のときに生で目にした、東京キッドブラザース「SHIRO」というミュージカルの名古屋公演でのことだった。

 東京キッドブラザースは、寺山修司横尾忠則らと演劇実験室・天井桟敷を結成し、退団した東由多加が、一九六八(昭和四三)年に創立した日本のミュージカル劇団である。
 私は一九八七(昭和六二)年、研究生として劇団に入り、その後、東由多加の演出助手を務めることになる。
 キッドは"愛と連帯"を綱領に掲げ、青春の怒りと哀しみと歓びを描き、歌を武器として、アメリカやヨーロッパなどにも進出した。
 一九七〇年代後半から一九九〇年代初頭にかけて、劇団としては圧倒的な観客動員数を誇り、日本武道館日生劇場後楽園大テント新宿コマ劇場などで公演を実現させ、当時、全国ツアーを行うほどの人気劇団だった。

 "Japanesque Rock Experience"とサブタイトルされた「SHIRO」は、侍をテーマとし、「将軍SHOGUN」(アメリカ・NBC制作のテレビドラマ)やブルース・リーといった、アメリカ人が東洋人に抱いていたイメージを完全に洗い流した、と批評され、ジョン・F・ケネディ・センターで上演され、全米ツアーも行われたキッドのオリジナルミュージカルである。

作・演出・東由多加 主演・柴田恭兵


 十五歳だった私は、芝居で描かれる、侍は常に死と向き合うことによって死の中に生を見出すしかないのだ、という武士道精神は理解し難かったが、ほぼ英語で歌われた劇中歌には、言葉がわからずとも、心に響き伝わってくるエナジーを感じた。やはりキッドの本領というものは、その歌にあるのだ。

「SHIRO」ステージ写真


 キッドの歌は、舞台と客席の結界を超え、魂を抉るようにして役者の身体から吐き出され、「君はどのように生きているのか」「君は自分を歌えるのか」「君は自分の言葉で愛を語れるのか」「さあ答えてみろ」との問い掛けを矢継ぎ早に突き付けてくるようだった。
 その問題提起は、私の人生の嚆矢濫觴を意味するものだったのだ。
 そして私は、時速二〇〇キロで、歌を求め、東京キッドブラザースへと走り出した。
              つづく
  



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