平成→令和とは何も関係のない話。

令和令和令和命和令和令和玲和令相令和……。
くだらないことやってんじゃないよってね。こんばんは古閑です。そう、令和とはなんも関係のないことで平成最後のnoteを綴ります。
それは「小説を書くこと」について。

小説が好きです。好きな先生の御本を読むことは勿論大好きだし、友人が授業で渋々書いたという小説も喜んで読む。精度が高いと感動も大きいだろうけど、正直人間が頭を捻って生み出した物語がいとおしいと思う。

「じゃあ書くことは?」となると唐突に萎む……。書きたいんだ、書きたいのは山々なんだけど、それでも世界のより「書きたい人達」に比べると薄っぺらい欲なんだろうな。
高校生位からショートショートっぽい奴とか書いたり消したりしてたけど指の運動程度のものでしかない。友人が単位欲しさに書いたものの方が余程物語としての体制をなしていた気がします。

挫折の多い人生を送ってきました。主観的に。一見すると受験に失敗したわけでも就職に失敗したわけでも恋人がいないわけでもない。ただ、「出来ないことを簡単に諦めるがゆえに、出来ることしかやらない人生」とも言えるかもしれません。
単位と引き換えに書いた友人の小説が割と好きなタイプの小説で、授業を取れば私もマシなものが書けるんじゃないだろうか、なんて思った。軽々しくそう思ってしまった私は取ったのである。「小説を書く(後期)」を。

そして私は挫折した。逃げたのだ。それを告白するのだ、平成最後の夜に。
「小説を書く(前期)」を履修していなかった飛び入りの弾丸野郎は戦争の真っただ中に飛び込み、無知なままで花と散った。数回の講義で耐え切れずフェードアウトした。勿論小説は書けず、単位は言わずもがなだった。

腐った私はその頃も小説を読んでいた。斜線堂有紀先生の小説を。
彼女の名言というか口癖というものがある。それがこれだ。

「一生小説書くからね」

分かるだろうかこの感じ。この小説への純真無垢な覚悟。それを日々公言し、「不純文学」という名のTwitter小説を更新し、新刊も出し、今年の夏には3冊新刊が出るらしい。
あ、愛されている……、そして愛が重い……。

私に足りないのは魚にとっての水を求める心だと思った。求めてやまないという心の強さだ。持久力。忍耐。小説を書くために、自分が書き上げた小説にたどり着くために必要な要素が私には足りていないんだと思った。
私が今までやってきたことは「水がないなら魚を辞めればいいじゃない」というマリー・アントワネットよりも無茶苦茶な、かつ自分自身がそれを許してしまえば可能ななんとも寂しい人生を生きることだった。

先日、斜線堂先生と紅玉先生、相沢先生の3人でツイキャスラジオを開いていた。その時のある会話で「でも、一生小説書きますよね」という斜線堂先生の純粋な言葉にお二方が渋い反応を示したことがあった。「小説以外にもできることがあり、別に小説じゃなくてもいい人はいる」「信じているのが小説の神様じゃない人もいる」というお二人の言葉に、戸惑いつつも「それでも私は一生小説書きますから」というきっぱりとした決意の言葉が残された。

斜線堂先生には一生小説を書いてほしい。小説を書けない私からの希望だ。
キャラクターもストーリーもネタも思い浮かばない私が信じた私の神様。
でも、いつか。いつか、書くんだ。私も。

また、よく分からない日記になったけど、つまりは「斜線堂先生のような熱意が私の心を数年揺さぶり続けている」という話でした。

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