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コロナ禍で都市と地方の分断が進む

コロナ禍中、ぼくは東北の地元と大阪での生活の二種類を体験した。やっぱり、そこにはどうしようもない価値観の違いがあった。

端的に言って、地方では新型コロナに感染する=社会的な「死」である。自分または家族・親族に感染者が出れば、一族郎党もろとも引っ越しまたは退職を考えなければならないような感覚だ。

それに対して、大阪ではどうか。「大都市でこれだけ感染が拡大している以上は、もう誰が感染してもおかしくないよね」といった、半ば諦観に近い感覚が街中に広がっている。「社会的に死ぬことはそんなにないので、命が助かればオーケーだよね」みたいな。

なるほど、これでは対話ができない。地元でしばらく暮らしていて、6月末に大阪へと帰還してきたぼくは、まるで宇宙人のような扱いを受けたのだった。

ぼくは「絶対に罹りたくない」気持ちで話してしまう。すると、「え、なんで君はそんなに恐れているの?」と言わんばかりのお役所的対応。ああ、なんだろうこのモヤモヤは。最近ではようやく、自分は気にし過ぎだったのかな?と思えるようになったけどさ。

地方では、感染者でもない旅行客・帰省者に対して心無い誹謗中傷が投げかけられているという。誹謗中傷を擁護するつもりはないけれど、これも結局は同じ話で、「誰が罹ってもしょうがない」的な価値観のままに「罹ったら社会的に死ぬ」空間に赴いたら、そら全ての対応が差別的に思えるのもやむ無しだろう。

かくして、この新たな感染症を通じて、都市と地方の分断が進んでいく。

こんなの、本来は無かったはずだった。どこに住んでいようと、価値観が大きくずれていない限りは「会話が成り立たない」なんてことはありえない。

そもそも、地方と都市は持ちつ持たれつの関係である。食料とか、観光とか、基本的にはトレードオフなのに。

それでも、今生じている価値観の違いは、どちらかが間違いでどちらかが正解とも言えない。当事者からすれば、最善の策を取っているに過ぎない。コロナ禍が収まればストンと元に戻るように思う。早く、早く。

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