【断章】川柳の/短歌の連作について

実感でいうと川柳はわりとどのように並べても成立して、それは何か原理的に連作が不能なものだからなのでは? という仮説なのだが、短歌は並べると他の歌の影響をものすごく受けるので、連作として前後の構成に気を配らざるをえなくなる。

つまり短歌は不用意に並べられていると、映画でいえば「ここのショットの繋がりが変」とか「ここに無駄なショットが入ってる」みたいな編集の不備を感じてしまい、川柳の場合はそれを感じない。それは川柳が「ショット」としてみるには何かを欠落させ、モンタージュが不能になっているからではないか。

逆にいえば短歌は「ショット」にあまりに似すぎていて、短歌に一首単位で染みついた連作への志向=モンタージュへの意志を洗い落とすには、短歌から「ショット」が成立しないほど今あるものから欠落させたり、逆に過剰に与えることでべつのものにしてしまう必要があるだろう。

たとえばいろんな珍しい形や色の石を集めてきて、庭だとか、ある空間に無造作に並べてあるような感じを川柳では出せて、短歌ではなかなか出せないと思う。短歌は並べられると勝手に「映画」になってしまうので、無造作に並べると「プロが撮ったショットを素人が編集で台無しにした」ような感じになる。

「素人が撮ったショットを素人が編集した」ような連作にこそ可能性がある気がしているが、短歌を「素人が撮ったショット」のようにつくるのは難しいというか不可能に近く、たぶんほとんどの人は短歌を作り始めたその日のうちに「プロが撮ったショット」のような歌をつくり始めるだろう。

なぜ初心者でさえ「素人が撮ったショット」のような短歌をつくれないかというと、「映画を見たことはあるがカメラを使ったことがない」人が世の多数を占めるのに対し、「短歌を読んだことはあるが日本語を使ったことがない」人が原理的に存在しないからだ。

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