【日記超短編】手毬唄

 娘はひどく汗をかいている。よほど暑い場所にいるのか、画面に映るのはごく平凡なマンションの一室のようだが、冷房装置が壊れて炎天下の外気温と同じになっているのか、あるいはもともと冷房のない部屋なのか。いずれにせよ尋常でない汗のつぶを額に浮き上がらせながら、娘は手にした極彩色の手毬を自分の顔と同じ高さに、ならべて掲げる。
「今から、この手毬が私のかわりにしゃべります」
 娘はそう言う。荒い画面越しにも、美しさにため息の出るような手毬だ。汗まみれで、額に髪の毛が判読不能なひらがなのように一筋垂れている娘と較べたら、その美しさは引き立てられる一方である。だからといって、極彩色の小さな手毬に話し手役が務まるとも思えない。そういうのはむしろ、これといって取り柄のなさそうな側が引き受ける仕事なのではないか。そう思いながらも、こちらの意志を画面のむこうに伝える手段がない以上、画面から不快な汗の臭いが漂ってきそうな娘を翻意させることは不可能だ。冷房のない灼熱の部屋で、熱中症寸前と思われる娘の白目がちな視線に促されるようにして、手毬はおもむろに口を開く。
「今紹介された手毬です。暑さで意識が朦朧としている娘さんに代わって、手毬風情が話をすることをお許しください。もちろん手毬には物を考える能力は備わっていないので、わたしの発言はすべて口から出まかせの譫言のようなものです。現在世の中ではオリンピックが大変な盛り上りを見せており、選手たちの大活躍にくりかえし目頭が熱くなる毎日ですが、今日は我が国のお家芸というべき手毬の決勝戦が行われました。炎天下の競技場では各国の強豪が次々と熱中症で白目をむいて異常な行動に走る中、たとえ意識が混濁してもつねに日常の規律ある行動を見失わない国民性を身に着けたわが国の代表は、同じように白目をむきながらもまるで精密機械のように正確に手毬をつき続けたのです。

一列談判破裂して
日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシヤの兵
死んでも尽すは日本の兵
五万の兵を引き連れて
六人残して皆殺し
七月十日の戦いに
哈爾浜までも攻め破り
クロパトキンの首を取り
東郷元帥万々歳

その歌声は、降りそそぐ蝉しぐれと混じりあって世界記録を更新するまで続きました。記録更新の直後、選手は火に掛けたまま忘れられたフライパンのごとき地面に倒れ込み、激しく煙を上げました。夏の空にゆっくりとのぼっていく煙には最近めっきり見かけなくなった野焼きの煙のような、なつかしい趣きと郷愁が感じられたことを言い添えておきたいものです」
 手毬はなおも冗舌にしゃべり続けている。とうに昏倒して画面から消えてしまった汗臭い娘の手を離れ、床を転がって偶然フレームに収まる位置で止まったため、その姿は見失われていない。虹で染め上げた糸を巻き付け、美しい模様にしたような外見のどこにも口のようなものは見あたらない。案外オウムなどのおしゃべりな生物を芯にして、それに糸を巻き付けてつくられた特殊な手毬なのかもしれない。だとすればこの暑い中、水分補給もできずにしゃべり続けたその生物が、突然電池が切れたように永遠に黙り込むのは時間の問題だと言えるだろう。できればそんな瞬間を見たくはないが、他に目を向けるものが何もない以上、人々の視線は画面に釘付けになったままだ。誰か冷房装置を修理に行ってやれ! そう他人事のように心の中で叫びながら。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?