【日記超短編】左腕が上がらない

 金魚になれる注射を無料で打ってくれると聞いたので、夕暮れの町を歩いて地域センターに行ってきた。金魚になれば食事代も大してかからないし小さな水槽がひとつあれば暮らしていける。そしてたぶん、だれかが飼ってくれるだろう。そういう下心がなかったと言えば嘘になるが、ネットを見るとみんな次々とその注射を打ちに行っているし、打っていない人もこれから打つつもりで、それが当然だという空気をひしひしと感じた。事情がよくわからないなりに自分もその空気に従おうと思ったのだ。
 地域センターに着くと番号札を渡され、以後ずっとその場では番号で呼ばれた。214番。てきぱきと慣れた様子で案内してくれる係員に従い、すみやかに注射を終えて帰宅してもわたしの頭の中には番号しか残っていなかった。たぶんわたしは金魚になる準備として、まず自分の名前と別れたのだろう。帰宅したときからなんとなく注射をした左の上腕が痛いような気がした。痛みは少しずつ増していって、朝目が覚めるとすっかり左腕が上がらなくなっている。一時的なものだとは思いつつ、心配になってネットで調べてみると、このまま左腕の自由がどんどん利かなくなって、数日後には腕の付け根からどさっと落ちるらしい。落ちた左腕をふたたび地域センターに持っていって地下に設置されている巨大水槽に投げ込むと、腕は目を覚ましたように泳ぎだし、その様子を見届けた頃に左腕以外の部分はすべての役目を終え"やすらかに眠りにつく"というのだ。
 わたしは驚いた。自分が金魚になれるという話にはとうてい思えず、わたしはたんに一尾の金魚を残して死んでいくのではないか。しかも大きさから言ってとうてい金魚とは呼べないグロテスクな代物だ。想像していたのとまるで違う。だがわたしの想像がろくに情報を得ぬまま頭の中でこしらえたきれいな嘘だとすれば、この吐き気のするような苛烈な事実とやらも誰かが頭の中ででっちあげて広めた悪意あるデマかもしれない。
 そう思うとわたしは少しばかりの慰めを感じて、ますます痛みと重さを増して根元からぶらぶらしていく左腕を抱きかかえるようにして目を閉じる。見たくない現実が目の前にあると感じたら、わたしはいつもそうしている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?