【日記超短編】水たまり

 新しい出会いを求めて私はアパートの壁をハンマーで破壊し始めた。こんなに身近な隣人との間で交流を妨げている壁を破壊することなしには、この世に既成のものとは違う新しい秩序を生み出すことなど不可能だ。不当に分断され互いに疑心暗鬼に陥っており、それらを高みから眺める権力者たちに対立をいいように利用されているのが現状の我々の姿である。日常に張り巡らされた壁を取り払うことで、そんな権力者たちの最も嫌う横の連帯を手に入れることができる。
 汗だくになって作業したおかげでようやく壁に穴が開き、そのむこうから驚いた顔でこちらを見つめる三十代くらいの内気そうな男性の姿が現れた。
 簡単な自己紹介ののちに、私が壁を破壊した理由を説明すると男性はすぐに理解してくれた。だが新しい秩序へ向けて一歩を踏み出した喜びよりも、何か浮かない表情が彼の顔にあらわれているような気がした。無口で視線を合わせようとしない男性から根気よく話を聞き出してみると、どうやら最近水たまりを見るとそこに空が映っていることが気になり、いわば世界の上下が逆転したような感覚に襲われてたまらなく不安になるのだという話だ。
「青空と雲が映っている水たまりを飛び越えようとして、うっかり踏んでしまうとそのまま空に向かって落下していくような……そんな妄想にとらわれて足が竦むだけではないんです。それからずっと、自分が頭のほうから何もない空間へ落ちていくような不安が消えなくて、最近ろくに外出もせず、さぼり続けたおかげでバイトもクビになって食うのにも困っている有り様なんです」
 私は彼の悩みを十分に理解し、このようなアドバイスを与えた。
「あなたの不安は人間の本質的な保守性に根差すものです。失礼ですが、あなたはあまり恵まれた生活をしているように見えないし、きっと育った家庭も裕福ではなかったはず。そのような人生を当たり前のものとして受け入れるあなたは、何かのはずみで革命などが起きて社会体制が変動した場合、当たり前だったものが失われることに怯えを感じているのです。大地から解き放たれて大空へ上昇するという喜ばしい体験が、まるで転落という恐怖体験であるかのように誤解されている。まずはそのような現状を正しく認識し、しかるのちに少しずつ克服のための段取りを私と一緒に考えていくのはどうでしょうか。力になれたらと思いますよ」
 私はハンマーを床に下ろすと、右手を男性に向けてさしだした。暗い表情に明かりがさすようにうっすらと笑顔が浮かび、むこうからも差し出された右手が触れる直前に私は手を引っ込めた。
 殺菌用のアルコールがないかと彼に聞いたところ、そんなものはないという。私もあいにく切らしているところだった。
 残念ながら、握手はお預けだ。

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