【日記超短編】文庫本

 どうやら我が家の近所に天皇は住んでいないようだ。根も葉もない噂に振りまわされ、右往左往したおかげで疲労困憊。すっかり力の抜けてしまった手足を地面に伸ばしていると、季節柄、様々な昆虫が身の上を這っているのがわかる。目を閉じたまま、わたしはそれらの小さな生き物たちの姿を思い描く。
 学生時代は美術の成績が悪かったこともあり、わたしの想像する昆虫はどれもいびつで、何かが不足しているようだった。左右非対称のカナブンのようなものが膝の上でぐるぐると円を描いている。まっすぐ進むことができないのか? まるでわたしの膝が複雑な迷路であるかのように、できそこないの甲虫は小さなお皿の上を出られずにいた。自分が巨大な宇宙船か何かで、いびつなカナブンはその一角に隔離され、地球に運ばれる途中の宇宙生物だというイメージが心に湧いてくる。一見ゆっくりと進むようで実は光速に近いスピードで故郷の星を目指す宇宙船。暗黒の空間に手足をさらしてうとうとしていると、突然クラクションと怒声が耳に飛び込んできた。
 目を開ければ、わたしの両足が伸びている方向に一台の軽自動車が停まっている。運転席から顔を覗かせた老婆が、何やら凄い剣幕で怒鳴りつけてくるのだ。たしかにここは地面と言っても半ば道路のような場所で、わたしが横たわっている限り彼女の運転する小ぶりな車でさえ、それ以上前進することは不可能なはずだ。ならば顔を紅潮させて喚き散らすのも無理はないと言いたいところだが、こちらも疲れた体を休めるという理由があって横たわっているのだ。いきなり喧嘩腰で迫られたのでは気後れして、対話の糸口さえ掴めないというのが現状だ。
 そのときわたしの指先が何かに触れ、引き寄せてみるとそれは一冊の文庫本だった。休憩時に読もうと思って持ち歩いていた三島由紀夫という作家の小説である。この作家の本は読んだことがないが、自衛隊に乗り込んで決起を促す演説をした挙句、割腹して自決を遂げた立派な人物だと聞いている。そのような興味深い人物の書いた本ならぜひ読んでみたかったのだが、他に手頃な物がなかったのでしかたなく投石がわりに老婆の顔をめがけて投げつけてみた。
 すると狙いどおり命中し、見開きになった状態で老婆の顔面に貼りついた文庫本はちょうどカーニバルのマスクのように見えた。そのことで老婆の怒りはさらに沸騰し、一時は今にもわたしを轢き殺さんばかりの状態だったが、ふと手もとに落ちてきた文庫本に目を落とした老婆は、ついでにそこに印刷されている文字を読み始めた。その齢になるまでほとんど本など読まなかったせいか、乾いた地面に水が沁みるようにページをめくる手が止まらなくなった彼女はたちまち一冊を読破。そのまま近所の書店に駆け込むと棚にある本を手あたり次第次々と、閉店時間まで夢中で読みふけり、さらに買えるだけの本を買って抱えて帰宅してまた読書を再開。その後も眠る間を惜しんで読書を続けた結果、ただ本を受け身に読むだけでは飽き足らなくなり、地元の大学の文学部に社会人枠で入学して勉学を続けると、さらに大学院へと進んで文学研究を続けた彼女は今では重要な研究者としてその世界では名の知られた存在だが、彼女が乗り捨てていった軽トラックは今もわたしの両足の先に停まったままで、からっぽの運転席には傾き始めた太陽の光が淡く差し込んでいる。

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