【日記超短編】ゴーヤ

 わたしにはわたしたちの記憶がある。わたしたちとは、わたしとゴーヤのことだ。ゴーヤは野菜として数えれば一つだが、その中の種のひとつひとつが人間なので、わたしたちが何人いるかは数えることができない。数えようと思って包丁で二つに割ると、断面に居合わせた種(人間)は真っ二つになって死んでしまう。だからそんなことはしないでほしい。わたしたちという一人称は、わたしが何人いても使えるのだ。
 わたしたちは、坂をのぼりきったところで息を整えた。景色のひらけた高台に立っていると、景色が一枚の絵で、自分はその中のどこにでも一瞬で飛んでいけるような気がする。飛んでゆく力は風やジェットエンジンではなく、たとえばはるか遠くの古い団地の屋上に立っている自分にふと気づく、というかたちで移動するので、それは移動ではなく本当は元からそこにいたのである。
 熱い風が右から左に吹き渡り、掲げたゴーヤを左右に振ると動きが重くなったり軽くなったりする。上げっぱなしの腕が痛くなったら、反対側の手に持ち替えればいい。たった一本のゴーヤの中にこんなに友達がいるのなら、もう駅の改札前の人混みに立って誰彼かまわず話しかけたり、自分の声を録音したカセットテープをすれちがう自転車の籠に投げ込んだり、そんなことしなくていいのだ。ちょろちょろと地面で動いているとかげ。枝と花を揺らすネムノキ。わたしはのぼってきたばかりの急坂を、まもなくすごい勢いで下っていく。そのとき脱げてしまったサンダルのどちらかを、今でもきれいな貝殻のように思い出している。

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