【日記超短編】迂回路

 初めて天皇陛下に会うので緊張している。こんな空き家だらけの住宅地に陛下がいたなんて、わたしにはちょっと予想外のことだ。親しみが湧かないこともないが、それでも緊張のあまり胃が暴れて朝から吐いてしまった。
 気がつくと約束の時間はとっくに過ぎていて、陛下はきっと首を長くして待っているだろう。あわてて家を出ると、ひさしぶりの外出なので陽射しが眩しくてわたしは目を細めてしまう。視界が悪いせいで半ば手さぐりで歩くことになり、溝にはまったり、道を外れて畑の中を歩いていたりと、余計な時間がかかってしまう。
 用意してきた地図によれば、ようやくあと少しで陛下の住むアパートというところで工事中の看板に行く手をふさがれた。迂回路が表示されていたので、矢印に従って歩いていったら狭い路地に続いている。なんだか嫌な臭いがするので、よく見ると左右の生垣に赤みを帯びた柔らかそうなものがあちこちぶら下がっていた。
 肉屋の店頭で見覚えのある形もあり、どうやら動物の内臓のようだ。轢かれたわけでもないだろう、車が通れないほどの狭い道である。なぜ動物の死骸が散らばっているのか。わたしは不思議に思いつつ、そのままでは不快で息もできないのでハンカチで鼻を覆って進んでいくと、次々に視界に飛び込んでくる臓器が無意識のうちに頭の中で組み立てられ、なぜか一人の人間の姿になる。しかもきちんと皮膚が閉じられていない、内臓が剥き出しのままの人間だ。
 路地を抜けてしまっても、やがて陛下の住むアパートの前に立っても内臓剥き出しの人間の姿が頭に居座っていた。このままでは内臓剥き出し人間を思い浮かべたまま陛下に謁見することになる。果たしてそんなことが許されるだろうか? とはいえ約束の時刻を大幅に遅刻している以上、内臓剥き出し人間の姿が頭から完全に消え去るのを待つだけの時間はなかった。
 せめて思い浮かべているのが犬や猫の死骸なら、少しは気が楽なのだが。そう思いつつ部屋番号を確かめると、一階の右から二番目が陛下の部屋だ。玄関脇に洗濯機があり、蓋の上がっている洗濯槽を覗くとベージュ色の作業着のようなものが絞られた形のまま固まっている。郵便受けはデリバリーのピザや寿司のチラシが束になって口をふさいでいた。チャイムを鳴らしたが反応がなく、頭の中では内臓剥き出し人間がおどけたような奇妙なポーズで、もう一度チャイムを鳴らせと指示してくる。指示に従ってボタンを押し、耳を澄ませてみたが何の物音も聞こえない。
 なんだか周囲をうるさく飛び回る羽虫の多さが気になってくる。内臓剥き出し人間はさらにジェスチャーで激しく何かを訴えてくるが、顔の部分の肉が削げて表情がないこともあって、かれが何を訴えているのかわたしには判りかねた。今では頭の中というより、すぐそこの日なたの地面に立って身振りをしているように思えるかれのむき出しの内臓に蠅がたかり、腹の中が眩しくきらきらと輝いて見える。物好きな貴族が適当に見繕った奴隷の腹を裂いて特製の宝石箱にしたなら、ちょうどこんな眺めになるのかもしれない。わたしは思わず身をぐっと乗り出し、繁茂した雑草と低いブロック塀に囲まれた、日なたの虚空を凝視する。

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