【小説】ふれあいドール

 いびきがうるさくて眠れないんですよ。そう語る蝋さんは、寂しさに耐えかねて最近ふれあいドールを買った。とても高価だったそうだ。蝋さんがしている金持ちの背中乾かしのバイトは時給がたったの七十円だから、高価な買い物をするのは命とりだ。それでもふれあいドールを買わずにいられないほどの身を切るような寂しさとは、いったいどんなものだろう? 私は寂しさをほぼ感じたことがないタイプの人間なので、蝋さんの心中は窺い知れない。無謀な借金でのちのち苦しむのを承知で蝋さんはふれあいドールを入手した。そういう事実があるだけだ。ふれあいドールはふれあいを目的としたドールだから、人間にはもちろん他のあらゆる動物と似ていない。たとえば犬に似たドールなら、人は世話したり散歩に連れ出したりし始めてしまう。ふれあいに不純物が混ざるのだ。だから何にも似ていないことによってふれあいドールは純粋にふれあいだけを人に与えてくれる。自分に必要なのはこれだ、と蝋さんは車内広告で見て一瞬で確信したそうだ。騙されたなどとはゆめ言わずにおこう。収入に見合わない買い物が結果的に収入も含めたその人の人生のスケールを書き換えてしまうことが、ないとは言いきれない。そう思って私は蝋さんを見守ってきた。じっさい蝋さんの表情は最近なんだか充足しているように見える。額に刻まれて顔つきを険しくしていた皺が減ったので、そうかあれは寂しさのしるしだったのかと思う。だけどいびきがね、と蝋さんは言う。うるさいなんてもんじゃなくて、これはまったく想定外でしたよ。メーカーに問い合わせたらそれは仕様だから修理とか交換の対象じゃないって言われて。ふれあいドールは人間にも他のどんな動物にも似てないけどふれあうには最低限何かしらこちらと通じ合うものが必要で、どうして夜毎の大いびきがその役目を果たすのか、係の人は懇切丁寧に説明してくれたし、もっと詳しく書かれたパンフレットも送ってくれたんです。でもなんか話が難しくて飲み込めなくって。やっぱりいびきってすごくうるさいし、寝不足は体に障るから寝床から遠ざけたいけど、それじゃあふれあいドールである意味が半減というか、寝るときだけ離れ離れなんてむしろ寂しさ倍増じゃないですか? だから睡眠よりふれあい重視ってことで割り切って、そんなわけですいません、さっきからあくびばかり出ちゃって。あ、背中乾いたみたいですよ。そう言ってタオルで仕上げにひと拭きしてくれた蝋さんに私は、ありがとう、じゃあ明日も同じくらいの時間にお願いね、とその真珠色の前髪をかき分けると現れたひとすじの傷のような投入口に、七枚のコインを落としていく。


(初出:『ほんのひとさじ』vol.16)

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