【断章】「これから起こること」と「すでに起きたこと」について

小説の言葉が「今起きていること」を語ることはなくて、そう見える場合はじっさいには「ほんの少し前に起きたこと」を語っているか、まれに「これから起こること」を語っているのではないか。たぶん小説は「今」を読者から借りているが、読者にとっても「今」はどこかからの借りものに過ぎないだろう。

残雪やカフカの小説は文の形式上は過去形でも未来のことを語っているように見える。そこで起きた(と語られた)ことがすべてまだ起きていない出来事のように不確かで、いっこうに蓄積されていかない。未来のことが語られているように見える小説が、夢に似ているということだ。

つまり残雪やカフカは怪談やホラーとは対極にあるのだといえる。怪談やホラーは過去に追いつかれることを怖れ、過去に魘される物語だからだが、真に恐ろしいのは空白の未来に襲われることである。過去に追いつかれる恐怖にはつねに退行的ななつかしさが伴い、そこに怪談やホラーの両義性がある。

書かれたことはそのままでは「これから起こること」のように見える。そうではなく「すでに起きたこと」に見せるには、その内容が実話だと書かれた言葉の外から保証するか、先に書かれた言葉を後から書く言葉が過去として扱い、その蓄積で文中に時間を生じさせる必要がある。一般的な小説は後者だろう。

「これから起こること」を勝手に語りだそうとする言葉の息の根を止めては「すでに起きたこと」の位置に死骸を固定していくことのひたすらなくりかえし。それが(一般的な)小説を書くことの途方もない憂鬱さの理由だし、なお死にきれていない言葉が生み出すものが「信用できない語り手」なのだろう。

小説も短歌も「これから起こること」を語るにまかせ、話者が人格も視点も定まらない声色にとどまるようなものが書きたいと思う。

「作中主体のない短歌」とは生きた動物をそのまま料理と言い張るような短歌かもしれない。

ちなみに言葉の息の根をちゃんと止めているふりをしてひそかに息を残すことで、作中主体を「信用できない語り手」にしているのが斉藤斎藤氏の短歌だろう。


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