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慎ましい宗教

※この文書は、私がwebサイトで公開している電子書籍の内容をそのままコピーして公開しているものです。電子書籍化されたものがそちらで手に入ります。

※宗教的なものに抵抗のある方でも、簡単に読めるあっさりした内容です。ちょっと息抜き程度に「こういう考えもあるんだな」というくらいで受け止めてください。


学ぶこと


学問は、人を幸せにするためにある。

どんなに小さな気づきや発見でも、その知識で誰か一人を幸せにできたのなら、それは立派に「学んだ」と言える。

反対に、どんなに高く優れた理論を見たとしても、それを実際に自分で操り、誰かの為に実用の形にできるのでなければ、「学んだ」とは言えない。

いたずらに「難しいこと」を知ろうとするのではなく、「学ぶこと」を覚えよう。

簡単なことから始めると良い。簡単なことは身に付きやすいので、学びが多いからだ。

反対に、それがいくら難しい高等なものであっても、学問を究めるためにする学問などは、ただただ空しいものだ。

自分自身も含めて、より多くの人を幸せにするということが、学問において何よりも大切なことだからだ。


信じること


もしも私たちが本当に明晰でありたいなら、何も信じるべきではない。

神や仏を信じるべきではないし、家族や、国家、人類がせいぜい10万年という短い期間で急ごしらえしたこの文明の価値観、そういうものを信じるべきではない。

とりわけ信じてはならないのは、自分が全く何ものをも”信じていない”という幻想だ。

”信じる”と”理解する”の境界線はあいまいなものだ。そして本当は、それらはひと繋がりに繋がっている。

世の中についてまだ何も知らない子供でさえ、自分の国のことを”知って”いる。

だが知っていることは、理解していることだろうか、それとも信じていることに近いのか。

例えばある子供が「実は自分は里子で、育ての親とは血が繋がっていない」という事実を知らされたとする。

彼はそれまで、両親と自分は血が繋がっている、ということを理解していたのか、それともそう信じていただけだったのか。

予想外の事実がもたらされるとき、”理解していた”は簡単に”そう信じていた”に変わってしまう。

現実と現実認識


私たちの頭の中にある「現実認識」は、「現実そのもの」ではありえない。

例え私たちがどれだけ努力して見聞を広めたとしても、所詮は頭の中に、現実認識という現実の劣化コピーを作り上げるだけのことだ。

その再現と模倣がどれだけ正確かということの個人差は、なるほど私たちの生き方や効率を大きく左右するものではあろうけれど。

偉大なソクラテスがあれほどわかりやすく述べたことが今日の人類にまだなお伝わらないのならば、その言葉をもっと強調して、こう言っておく必要があるかもしれない。

『私たちは多くのことを知らないだけではなく、何ひとつとして、本当に知ることはできない。』

私たちは、永遠にこの無知を洗練させ続けていく存在なのだ。

なぜあなたなのか?


考えたことがあるだろうか。「どうして他の時代の他の誰かではなく、この時代の、”この私”なのか?」

答えは私たちが、人間一人分の閉じた宇宙に生きているから。

私たちの精神を構成する色、音、感触、匂い、味などの知覚はいずれも、ある一匹の生き物が自分の生命を維持存続するために作り上げた機能だ。

生命が、それを維持存続するための機能。それによって作られた、心。

つまり私たちの心は、普遍的で公平というよりはむしろ、自己重視的なものだ。

ある生き物の「自分を生かしたい」という想いが、私たちのこの精神を全体的に包み込んでいる。これが私たちの心の有り様。

分断された、生物一匹分の心、意識。

誕生から死に至るまでの、私たちの固有の宇宙。

精神と物質


精神世界は、物質世界の上に形成される。

物質世界が惑星だとしたら、精神世界はその上に存在する「国家」とか「町」のようなものだ。

物質世界の実相は、色や音、感触などを通して知覚することはできない。

知覚というのはあくまで、私たちの精神世界の内側で生じる出来事だからだ。

だから、精神の外にある物質世界は、ただ”予感”することができるだけ。

これは光を吸い込んでしまうせいで決して”見る”ことのできないブラックホールの姿を、人類が様々な方法を用いて”想像”し表現してきたことと似ている。

物質世界の上には、たくさんの精神世界があるのだろう。多分、大きなものも小さなものも、生物一匹一匹の全てが自分自身の宇宙を持っているのだろう。

人と人とが出会い関わるとき、それはある個別の宇宙と、別の個別の宇宙が干渉しあっているのだとも言える。

無論、人間同士だけではなく人と動物も、あるいは植物、もしかしたら鉱物とでさえ、それぞれの宇宙は干渉しあっているのだ。

男女の優劣


男性と女性には同じだけの価値がある。けれど男性と女性は同じものではない。

脳の大きさが違う、免疫の強さが違う、子を産む産まないの違いがある。

これらの違いを前にして、もし誰かが「男性は女性より優れている」と思うのなら、それはまだ考えが浅い。

男女の対立は、知性と生命の対立。私たちは生物だ。遺伝子を通して生きている生命の木にとって、要求を司る女性は幹、適応を司る男性は枝葉のようなものだ。

要求はあふれ出すもの、適応は引き締めるもの。カオスとロゴス。混沌と秩序。生命と知性。心と頭。

本当に大事なことは、一人の人間の中に宿る「知性と生命」が手を取り合うことだ。

そして自らの内なる男性性と女性性を共に受け入れ、調和させた人間こそ、真に健康な人間なのだと言える。それは肉体が男であるか、女であるかに左右されない。

男女の課題


精神の成熟の最初の段階では、人は自分の存在をありのまま受け入れられない。

自分自身に対する不満の想いは、男性においては野心に、女性においては嫌悪に、それぞれ変わる。

野心も嫌悪も、現状を否定し存在を鍛え上げるという意味では、ある所まで精神の成長を導いてくれる。

しかし本当に精神が成熟する段階では、自分に対する不満を乗り越えねばならない。

男性は、自分の中の生命を忘れてはならない。私たちは生き物なのだ。知性は生命の中に宿る。それ故、知性が生命を超えることはできない。

女性は、自分や他人の愚かさを許さねばならない。生命は混沌として醜いものだ。それは男女の別を問わず、自然本来の姿だ。

男も女も、大なり小なり共にこの醜い生命というものに繋がれている。

その点を見抜くことができれば、今まで醜いと思っていたものの、本当の姿がわかる。

恋愛は達成しない


男は女にとって、女は男にとって、永遠に不満の種であり続ける。

なぜなら異性に恋をする感情の本質は、神への郷愁だから。

私たちは本当は、異性を通して、神を求めているのだ。

私たちは、この世界に誕生するために、ひとつの意識的存在としてより大きな何かから切り離されねばならなかった。

それ以来、つまり生まれつきずっと、何か自分の中に果てしない無力さや、本来の完全な在り方への渇望を抱いて生きている。

そしてまた心のどこかで常に、何か大切なものから切り離されていることを不安に思い、寂しくなり、心細くなるので、自らの存在の不足分を満たしてくれるものを求める。

もしも私たちが女性として生まれたなら、一見、その不足分は特定の男性との関係によって完全に満たされ得るように思える。

けれどそれは幻想だ。海から迷い出た水の雫が一滴から二滴に増えたところで、海そのものを回復したことにはならない。

私たちの魂の本当の不足は、「個別」の存在となるために「全体」から切り離された、ということに起因している。

だから私たちは、本当は異性を通して、”自分以外の全世界”を求めている。

そういう要求に応えてくれる対象などは、生憎存在しないだろう。

この不足の感情と熱望を満たしまた回復してくれる出来事があるとしたら、それは恋愛ではなく、自分以外の全世界――つまり”神”との正しい関係に目覚める、ということだけだろう。

異性との関係


異性が私たちの心を満たすための十分な対象物でないとしたら、恋愛や結婚は不要なのかというと、そうとは言えない。

生命の設計図は、性を男と女に分かつことで、その役割と機能を二つに分割し、生命活動に躍動を生み出している。

それ故に男性も女性も共に、何か根本的に大切な部分を、相手の性の側に置き忘れて生まれてくるのだ、と言うこともできる。

もしも私たちが男性としてだけ、或いは女性としてだけ生まれついてしまったなら、その偏った心に何らかの補正をかけてやる必要がある。

異性と関係すること、その良い面も悪い面も共有してお互いに向き合っていくということは、各々が生命の本当の意図を学びつつ、また各々がその人格を成長させ、神に近付いていく道になり得る。

そしてそれは、何も異性との関係に限ったことではない。人間との関係にさえ限られない。

重要なのは私たちが、この世界で何かしらの制限された対象に情熱を注ぎ、それを信じつつも常に失望し、不満を感じ、乗り越えていく中で、完全な心の形を作り上げていくことである。

二元性について


人間の精神は、生まれたはじめの頃はひとつの大きな絵画のようなもの。

そこにはまだ、自分とか他人というものはない。

暖かさ冷たさ、そういうものはみな誰彼に属するものでもなく、ただそこに配置されているだけ。

この段階では、精神は言わば、ひとつの大きなドラマの視聴者に過ぎない。

やがて言葉が発達し、物事をあれとかそれとかに切り分けるようになると、世界の分離が始まる。

”私”と“私以外”という物の見方が生じ、あれはこれではない、これはあれではない、という観点が極限まで強化されていくと、二元論の世界観が生じる。

二元論は、あらゆる分離を明確化する。

右と左、男性と女性、善と悪、光と闇、などなど。

二元論的世界観の中では、人間はやることが多い。良いものを取り入れ悪いものを削り落とすために多忙になり、葛藤や苦しみも多い。

その多忙さの中で経験が蓄積されていくと、いずれはこの二元性は終わりを迎える。

すべきこと、できること、本当の正義と心の底からの願望。こうしたものを追い求め、課題と障害に直面していく中で必然、その対立構造が幻想であったことに気付く。

敵意は慈悲心に変わり、邪推は共感的な親密さに変わっていく。

この段階では善も悪も存在しない。すべてがただあるがままそのようにある、ということを受け入れるようになれば、苦しみの性質もずっと穏やかになる。

このように、二元論は最終的に一元論的な性質のものに変わっていく。人格や意志もまた、それに伴って一元性のものに変じていくだろう。

神とは何か


”神”が私たちのように、人格のある何かであるとは思えない。

それは今日この日、今この瞬間も脈々とこの世界を存在させ続けている、何らかのエネルギーである。

より卑近な形としては、”神”は時間や空間といった自然法則そのものとして受け止められる。

宗教的な見解を分析し理解する際には、その中で”神”が語られる箇所を全て”真理”という言葉に置き換えても良いだろう。

だがなぜ、”真理”ではなくあえて”神”という言葉を使う必要があるのだろうか?

それは、”真理”という概念が静的な言わば死に絶えたものであるのに対して、”神”は今なおこの世界を通して、生き続けている真理、というイメージを持つからである。

信仰について


律法の時代があり、信仰の時代があり、そして疑いの時代がある。

神の存在を信じないからといって、その人に敬虔さが欠けているとは言えない。むしろその逆でさえあろう。

法の出所を信じもせずに「守る」と言うから、結局、守らないことになる。

良く疑いもせずに「信じる」と言うから、結局、信じないことになる。

そういうわけで、法を守ることは信じることよりは劣り、信じることはなお、それを疑うことよりは劣るのだ。

私たちは最早、神を信じるというよりは、疑うべき時にある。

疑いというのは否定ではなく、むしろ好奇心や透明性のようなものだ。

単純な否定は信じることと同様、ありもしないものに妙な形を付け加えることのために役立つ。

だから私たちは神を否定するのではなく、それを疑わなくてはならない。

けれどどうして、信じる人々を前にして、こんな無遠慮なことを明け透けに言えるだろうか。

その理由はひとつしかない。

真理である神は、私たちがいくらこの小さな人の身で疑ってみたところで、揺らぎようがないからである。

ちょうど聖書の中で、神を罵ったヨブが他の誰よりも自分の内で神を確かにしたように、もしも私たちが神を疑うなら、それでますます、神の疑いようないことが目の前にはっきりしてくるであろう。

愛について


愛を感情だと思っているなら、改めなければならない。

愛は気持ちではなく、事象である。

感情ではなく、態度である。

”愛”とは、存在を肯定するエネルギーだ。

純粋な形態としての”愛”は、この世界の存在を肯定するエネルギー、つまり今この一瞬も、この世界を維持存続させている何かであって、その意味で”神”と呼んでも良いようなものだ。

愛が全てを作り上げる。それはこの世界に、あらゆる温度と形の多様さが現れることを支えている。

それは人の持ち物ではないし、人を内包している何かであって、人によって制御できるものではない。

こうした大きな愛、世界を創りあげるような根本的な愛を当然私たち人間はもつことができないのだが、それでも尚「愛がある」とか「ない」とか言うのは、実際は愛についての態度の良し悪しを言っているのだ。

世界を創造するエネルギーに対して、調和的に振る舞うこともできるし、反発することもできる。

もしも私たちが調和的に振る舞うなら、その態度は「愛がある」と言える。

人間のレベルにおける愛は、諸々の存在の肯定として、つまり寛容さ、未知のものへの好奇心、偏見の少ない明晰な知性、優しさや労りとなって現れる。

反対に、この世界を創造しているエネルギーに対して反発しようとするなら、それは「憎しみ」であると言える。

憎しみの態度は現実の否定として、つまり攻撃性、偏見と妄想、虚偽やごまかし、罪からの逃避などの形で現れる。

このように、態度としての愛は私たちにとって薬であり、憎しみは毒である。

だがそれにしても、憎しみの態度そのものが”愛”のエネルギーによってその存在を許されていることに気付かねばならない。

愛は時空間を運ぶ大河のようなものであって、私たちはその流れに乗っていくこともできるし、逆らうこともできる。

だが木の葉一枚がいっとき川の流れに逆らったからといって、結局最後には、流されていくことに変わりはないのだ。

戦いについて


”すべてのものごとには、それがそうである意味がある”

もしもこの世界において本当に意義ある戦いがあるとしたら、それは暴力の戦いではないし、権利の争いではないし、科学知識の開拓でもなければ、ましてや経済競争などではありえない。

真の戦いは、愛における戦いだけだ。

この内的プロセスは、一言で言えば”目を開けておくこと”に尽きる。

広い世界を良く見て、また日々のありふれたひとつひとつをありのまま受け入れて、不都合な真実から逃れるための偏見を抱かず、自分と他人を労り、この世界の本質を理解していくこと。こういうことが目を開けておくということの内容だ。

それは私たち自身の無限の憎しみ、愚かさ、無知、空想癖、逃避癖、無責任、わがまま、暴力性、残虐性、偽善性、恥の無さ、矛盾、そして無力さなどから、目を背けないことでもある。

もしも私たちがこうした戦い、煉獄の炎に魂をくべる浄化の戦いに十分に歩みを進めようと思うのなら、その時には、それら人間の愚かさと憎悪の全てまでも、それそのものさえも、深く愛さねばならない。

”意味の無い間違いなどありはしない”

何かしらの必然性の上に、今日この日の世界がある。

見過ごしてよいものなど何もない。

勇気を持ち、目を開けて見るならば、痛ましい獣の死骸の内にも、神の恩寵が確かに宿っているのを見る。

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