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南京事件の情報は知りたい情報がなかなか得られない。

こちらは南京事件を調べ始めた時、サチさんの動画参考にして作った動画で
南京大虐殺の期間も分からなかったので調べた中で最も長かった 3ケ月を採用した動画です。

後で知ったことですが、中国共産党は『正しい歴史』として南京大虐殺の期間は1937年12月13日~1938年1月末までとしていました。

南京虐殺はアメリカの宣教師たちによって言われ始め、その内容は次々に書き換えられてきました。1944年にアメリカ民主党がつくった戦意高揚映画 CHina of battle では、南京での虐殺は、4万人と放映されていました。

東京裁判では 起訴状の訴因第45の「南京暴虐事件」という項目で載せられています。検察側証人として出廷したマギー牧師やベイツ教授(ともにアメリカ人宣教師)たちの目撃者の証言によるとされる南京において日本兵が行ったとされる残虐行為 “多くの兵士は酔っていて、中国人の男女子供を無差別に殺しながら歩き回り、遂には大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。” や “多くの婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された” について具体的数字を挙げながら30万人の虐殺と述べられました。マギー牧師は、日本兵の残虐行為をいくつもあげたのですが、弁護人の反対尋問で実際に見たのは殺人1件、それも歩哨に誰何(呼び止めて問いただすこと)されて逃げたものを射殺したケースでした。これは、戦時下では合法でした。
この事件に対する判決は成されませんでした。裁判記録には訴因第45は述べ方があいまいであるという理由でした。

事件自体には、判決が成されなかったが、南京において残虐行為を行ったとされる軍隊の指導者 松井石根氏は、有罪とされています。理由としては、『残虐行為が広く行われたことは日本人証人によって、否定されたが、色々な国籍の、また疑いのない信憑性のある中立的証人の反対証言は圧倒的に有力である。(中略)これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったとき、松井氏は同市に滞在していた。自分自身の観察と幕僚の報告によって、彼はどのようなことが起こっていたかを知っていたはずである。憲兵隊と領事館から自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いた事をかれは認めている。』などが挙げられ、裁判所は松井氏が自らの率いる軍隊が行った事を知っていた証拠は十分ある上に、軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務を持っていたとともに、その権限を持っており、この義務の履行を怠ったことについて、犯罪的な責任があると認められるというものでした。

松井石根大将は南京でも中国良民を守るために、南京城攻略要領、南京城ノ攻略及ビ入城ニ関スル注意事項、南京城内掃蕩要領、数々の命令を出していました。上海での戦いでは中国難民の保護活動をおこなっていたジャキノ神父に救済費として1万円を贈っています。

1937年11月17日 東京朝日新聞朝刊

ジャキノ神父は南京陥落後に行われた漢口侵攻時に次のような言葉を残しています。
「正義の日本軍の庇護を千秋の思いで待っていました」
「日本軍が来ればもう大丈夫です」
「日本軍の軍規風紀の立派なことには漢口市民は皆感謝を捧げています」

1日約300〜3000人の日本人の若い女性(7歳未満の女子児童少女含む)が進駐軍の被害を受けていた犯罪を無視してこのような判決がおこなわれていたことにあきれていまいます。マッカーサーは確実に死刑にされるべきだったでしょう。


現在では、この時、提出された証拠が偽造されていたことが明らかになっています。

また同時に提出されていた紅卍字会埋葬記録の検証をされいた方もいました。非常に深く検証されており、頭が下がります。
またほかの資料でありますが、
日本軍が 遺体処理代として紅卍字会 に「1体30銭」でお金を払っていたことには驚きました。地域復興のため、水増しにも目をつぶていたようなので、日本軍のお人よしは度が過ぎていたと思います。

紅卍会埋葬記録から、南京で亡くなられた方の婦女子の割合は下記のようになるそうです。

当時の中国兵の中には、女の兵士もいましたので、無辜の女性の割合はもっと少なったものと思われます。

「画法躍進之日本」には次のよう書かれています。
『オイ、女だ!』と叫ぶ。(略)敵の死体に混じって立派に軍装した、紛れもない断髪の女の死体が一つうずまっていた。閉ざされた中華門にすがりついて慟哭するかのような姿で、女が…女の兵隊がおびただしい支那兵と一緒に死んでいた

1938年5月20日号の朝日新聞 抗日の英雄 女性兵士

東京大空襲の時の被害者の内訳は次のようになっています。南京との違いは明らかです。民間人を敢えて狙って爆撃した罪は重いはずですが、裁かれていません。謝罪もされていません。南京大虐殺を言う人に突き付けてあげたい気持ちになります。どちらが、残虐ですかと。

教科書から見る対日認識―中国と台湾の教科書の比較―という論文を見て作った動画


中国人は良く日本の教科に文句を言ってきます。
日本の教科書には、1927年の南京事件、1928年の済南事件、1937年通州事件も載っていませんが、1937年の南京事件は載っています。そのため日本の教授さえ、済南事件を知らないことをいいことに 731部隊の被害者と誤用しています。

中国の教科書に南京事件が載り始めたのは戦後十年以上もたってからの1960年頃からで中国全土の教科書に登場したのは80年代に入ってから、それまでは授業でも教えられていませんでした。

1982年6月26日日本の旧文部省が教科書検定で「華北へ侵略」を「華北に進出」に、「南京大虐殺」を「南京占領」に変えさせたとの日本のマスコミが一斉に報道(訳者注:後に日本政府がこれを誤報だと認めている)があった。中国政府は激しく抗議し、中国の各メディアもこの問題を大きく報道した。1983年、中国は南京大虐殺に関する資料の編纂、記念館の設立などを決定。翌1984年2月から6月までの期間中、中国政府初となる大規模な調査を実施し、生存者や目撃者、被害者1756人からの証言を集めた。抗日戦争勝利40周年記念の1985年8月15日、正式名称「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がオープンしている。共産主義者たちは計画的に行動を起こすことがわかります。

戦争は兵士同士の戦いです。
南京事件の時の兵士は何人いたのでしょう?
亡くなった兵隊さんは何人いたのでしょう?

当時の軍事情報を持っている方や検索が得意な方ならすぐにわかる事でも素人にはわからないことが多いです。グーグルに聞くと次のように答えましたがこれは第2次上海事件の一時的な状況で全く異なっている。他はまったく違う情報しかありませんせんでした。

朝日新聞によると中国軍は10万人が籠城していたようです。

1937年12月11日 朝日新聞

私は、戦勝国プロパガンダに溢れている現在の情報ではない1次情報である朝日新聞のデータベース検索ができたので、洗脳からの目覚めに役立ったと思います。
こちらは無料で見れる新世界朝日新聞の記事です。1937年12月17日時点で
敵の戦死者 6~7万と報道されています。

邦字新聞デジタル・コレクション:無料
https://hojishinbun.hoover.org/?a=d&d=nws19371225-01.1.1&e=-------ja-10--1--img-------

Shin Sekai Asahi Shinbun, 1937.12.17

また、1937年12月30日の朝日新聞には
南京攻略、彼我の損害 敵の死体8万4千 我が戦死は8百名
と報道されているので、中国兵 8万4千人、日本兵 800名が
南京戦で亡くなっていたようです。ご冥福を祈ります。

1937年12月30日 朝日新聞

南京は戦場です。兵士の死体があって当然の場所です。

しかし、日本本土は兵士同士の戦場でありませんでしたが、アメリカは民間人を狙って空から攻撃をしていました。
大分の保土島の小学生1年生と5年生を皆殺しにしています。
壊れた校舎から泣きながら校庭へ逃げた児童を機銃掃射。
児童124人、幼児1人
教員2人を虐殺。
このような攻撃が日本全土でありました。連合国は自分たちの戦争犯罪を塗隠するために南京虐殺・マニラ虐殺・死の行進等々捏造話を作り上げて日本軍は残虐だったので懲らしめるために日本を攻撃したと嘯いています。
神様の裁きがありますように。


私は、南京事件を調べ始めるまで知らなかったのですが、中国軍は挹江門のところで同士討ちで多くの方がなくなっていました。
挹江門事件と呼ばれているそうです。

1937年12月12日20時
南京守備隊長の唐生智は中国軍の逃げ道となる挹江門に督戦隊を配置し、逃げてくる中国軍兵を銃殺するよう命令し、南京陥落前に逃亡したので中国兵は総崩れになった。逃げ惑う中国兵は、日本軍を恐れて軍服を脱ぎ捨て、市民から衣服を奪い、その混乱で多くの市民が殺された。日本軍の入城前の12日の夜のことでした。



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