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アメリカ宣教師史観の呪縛を解く

著者:池田悠


聖書箇所 ヤコブ3:1 私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。


主の裁きがありますように。

南京の城門が閉鎖された時点で市内に留まったキリスト教奉仕者のリスト

南京事件の真実 16-17ページ

アメリカ宣教師団による支配の隠蔽

南京事件の真実 42-43ページ

不承認であった南京安全区
上海の安全区はジャキノゾーンともよばれており、日本軍と中国軍の戦争難民を保護する見本的なものとなっています。しかし南京の安全区は日本軍に承認されなかったことをジャキノ神父は伝えています。日本軍の不承認はラーベ委員長たちが設定した難民区では中国軍による市民や財産に対する非違行為について責任を持てないからという理由でした。

ジャキノ神父は当時5億の中国に300万人の信者を持つカトリックの神父でした。
ジャキノ神父は自分の命の危険もかりみずに中国人難民のために熱心に働くお酒のみの手の不自由な面白い神父でした。ジャキノ神父は次のような言葉を残しています。

同じころ、プロテスタントの信者は50万人でした。
プロテスタントの信者であった宋美鈴と1927年に結婚した蒋介石は、1930年に宋美齢の勧めでメゾジスト教会江長川牧師から受洗し、キリスト教に入信しています。
プロテスタントの代表的なアメリカ宣教師団により支配されていたはずの南京国際委員会の評価は内部にいたシールズ氏と日本側が共通の見方をしています。

①市民の保護は名目上のことで
②実際は自分たちの財産・利益目的であり、
③同時に結果的に中国軍(不逞分子)の便宜を図っている

これを聞くととてもこの世的な人たちだったようです。
プロテスタントのフィッチ宣教師夫妻は蒋介石夫婦と親交があり、婦人たちは印刷業を営んでいた子息で、中国軍のために仕事をしていたものと思われます。

さて、彼等たちの写真がアーネスト・フォースター (Ernest Forster) のフォトアルバムに残っています。
 
"南京安全区委員会 "本部にて。左から右へ。ジアル氏(ロシア・タルタル)、ハッツ氏(オーストリア)、レーブ氏(ドイツ、安全区委員長)、ジョン・マギー牧師(アメリカ教会伝道所)、コーラ・ポドシバルフ氏(白系ロシア)1937年12月13日。

"南京安全区委員会 "本部にて 1937年12月13日

日本軍が南京に侵攻した日にニコニコでハイチーズの写真。

ミルズ(アメリカ長老派)宣教師の告白
私たちの会合でミルズ氏は強い願望を表明した。すべての教育を受けた人々を欧米に行かせる代わりに宣教師の一団が降りて中国軍を手助けし安心を与えるよう試み、混乱と略奪の中、小集団であってもそれが中国にとっていかなる意味を持つかを彼らに知らしめた方がずっと良いと(1937年11月17日)

安全地帯委員会本部の入り口に立つ中国人警察官、W.P.ミルズ牧師、ジョン・マギー牧師

「ミルズ氏こそが最初に安全区創設の構想を抱いた人であったことを、お伝えしなければなりません」(1938年2月21日送別会におけるラーベ氏の演説)

ミルズ宣教師は南京安全区の副代表であり、ラーベ氏が帰国した後は代表であった人物であるにもかかわらず、安全区の中立を守らず、信者獲得のために中国軍を手助けするという難民たちを危険にさらしした罪を持っていました。

フィッチ牧師の虚偽報告

「安全区内の南西側の境に高射砲台がすらっと並んでいたのに気が付いた。」1937年12月9日ラーベ
「安全区は「安全」からは程遠いいまだに武装した兵士たちが居座っており、彼らをここから追い出そうとする我々の努力は全くの無駄だった。」
1937年12月11日ラーベ
「安全区の全域で、黄色い腕章をつけ、ライフル、ピストル、手榴弾で完全武装した中国軍がまだいる」1937年12月12日
ラーベ委員長は上記の様にのように言っていましたが、アメリカの宣教師のフィッチ牧師は次のように述べています。

「(唐)将軍は首都防衛の任を帯び、安全区から軍隊と高射砲を一掃するという非常に困難な仕事に概して非常によく協力してくれました。」1937年12月24日 フィッチ「戦争とは何か」『日中戦争史資料9南京事件Ⅱ』

実際は、1937年12月12日20時、南京防衛司令官・唐生智や指揮官たちが中国軍の脱出口となる挹江門に督戦隊を置いて逃げて来た中国兵を銃殺したため、中国兵はパニックに陥っています。日本軍は南京の城門を占領したが、城内の中国軍は指揮官不在のため、降伏の意思表示ができませんでした。これは戦闘の終結ではなく、戦闘の継続を意味していた。
中国軍南京防衛司令官・唐生智が降伏文書に調印していれば国際法上の降伏が法的に成立し、その時点で軍服を着た中国兵は捕虜の身分を獲得できていたのであり、日本軍の進軍を恐れた中国兵が軍服を脱いで中国市民の服を奪い、安全区に紛れ込むことも無く、数万の中国兵の安全も担保できたのです。

1937年(昭和12年)12月10日朝日新聞は次のように報道している。

1937年(昭和12年)12月10日 朝日新聞

南京の金陵大学に難民福祉委員会メンバーとして残留のアメリカ人教授らは、便衣と成った中国軍大佐とその部隊所属兵6人を自分達が匿っていたのが見つかったことで非常に当惑している。実際、教授らは、その大佐を難民キャンプでの権威ある立場の二番目に据えていた。
中国軍の南京からの退却中に制服を脱いだ将校(士官)らは、大学の建物の一つに住んでいるところを発見された。 日本陸軍の捜索者が、6つのライフル、5つの拳銃、取り外された機関銃と弾薬を建物に隠していることを発見した後、彼らは自分らの身元を白状した。
アメリカ人や他の外国人の前で、元中国人将校は南京での略奪行為、またある夜には少女たちを難民キャンプから暗闇に引きずり込んだことを告白したが、翌日にはその襲撃を日本兵の所為にした。 将校であった者達は逮捕、戒厳令下で処罰され、おそらく処刑されるであろう。
と1938年1月4日にニューヨークタイムズは報道していた。

1938年1月4日のニュークタイムズ

南京の金陵大学に難民福祉委員会メンバーとして残留のアメリカ人教授はベイツ教授でありプロテスタントの宣教師でした。

ベイツ宣教師とフィッチ宣教師

マイナーシールベイツ

マイナーシールベイツは、YMCAに加わり、金陵大学で宣教師として、ユナイテッドクリスチャン宣教師協会から教えを依頼され、1938年『戦争とは何か』を分担執筆した年と、1946年すなわち東京裁判で証言をした年に、中華民国政府から勲章を授与されている。ベイツは宣教師であり南京大学教授であったが、近年の史料発掘から中華民国政府の「顧問」であったことが判明している。

1909年に上海に戻ったフィッチ牧師は、YMCA事務局長に就任しています。1919年には中国の上海で朝鮮人独立運動家たちに集会所を提供し、1920年代には朝鮮人救援会の理事や仁成学校の顧問を務め、1932年には虹口公園での尹奉吉のテロ行為の後、金九を避難させた人物で、韓国政府が1968年に独立功労勲章を授与しているテロ支援者でした。またマギー牧師の撮影したフィルムを持ってアメリカで反日講演して回ったのは著名。

【上海虹口公園で行われていた天長節祝賀会場に手榴弾を投げ込み、白川義則上海派遣軍司令官陸軍大将らを爆殺、野村海軍中将(後に駐米大使)と重光葵上海公使(後に外相)らに大怪我を負わせたテロ事件】

さて、1938年1月1日に南京自治員会が設立したので南京安全区の管理運営は自治員会に移行するはずであったが、管理の移譲を拒み続けていた。ちなみに行政権を握り続ける必要があるのはアメリカ人宣教師たちだけであった。

「「安全区委員会を解散し南京国際委員会に変更する」という私の提案は委員会で否決された。…私が多数派の意見に従ったのはもちろんだ。我々は団結していなければならないのだから」1938年1月12日ラーベ
「安全区委員を解散して、新たに救援委員会を組織し、新しい自治委員会と協力するようにした方がいいかもしれない。真剣に検討しているところだ。日本軍と協力しようと私は言い続けているが、アメリカ人は反対だ。」
1938年1月29日ラーベ

アメリカ駐中国大使は次のように言っています。
「ジョージ・フィッチやベイツ氏に代表される委員会のアメリカ人メンバーが、日本軍の南京恐怖支配期間における彼らの体験を、詳細に記録して南京から送ってきた。これらの記録は事実に基づいて書かれたものであるから、日本軍には彼らを恐喝する資格はない。なぜならば、彼らがそうせざるを得ない状況を日本軍が作り出したからである」

「これらすべての暴行事件は、単に一方の話を聞いただけだ」とドイツ大使館事務長のシャップフェンバルグ氏は証言しています。

日本軍は安全区の存在が犯罪多発の原因とみて、宣教師たちの猛反対を押し切って、1938年2月4日に安全区の市民に帰宅を命じ、実質的に安全区の解散を命じた。宣教師たちの言い分が正しければ、安全区がなくなれば、日本軍の暴虐行為を止めるものがなくなって南京は一層の地獄になるはずであった。

さて、天谷支隊が500人ほど逮捕をしてから、南京の治安は完全に回復します。アメリカ人宣教師たちが自分たちの宣教のために中国兵を匿ったことで、強姦や放火、掠奪が起こっていたことを栄光の力ある神が裁いてくださいますように。アメリカ宣教師史観の呪縛が解かれますように。

東京裁判でも事実とされるほどの根拠を持っていたのは、南京事件の核心が中国による創作ではなく、『客観的な第3者』とされた南京のアメリカ宣教師団による創作だったからです。これが、中国側の反日活動をいくら究明しても、南京事件を謎が永遠に解けない理由なのである。

これは池田悠さんの視点の鋭さが見える文章です。
マギーとベイツ宣教師は東京裁判で誣告罪を犯し日本人を罪に陥れ、死刑にさせました。反省すべきは、民間人を狙って爆撃を繰り繰り返したアメリカでしたが、日本軍を悪く言ってその罪を見えなくさせたのでした。
聖書のみ言葉から遠くにあったアメリカの宣教師たちは、次の聖書のみ言葉をどのように思っていたのでしょう。

こういうわけだから、あなたがたは偽りを捨てて、おのおの隣り人に対して、真実を語りなさい。
(エペソ人への手紙4:25)

西安事件を池田氏の視点で見るとあらたにみえてくるものがあります。
西安事件後、蒋介石は第2次国共合作で反日政策を強めていくのですが
1937年3月26日聖金曜日に南京で開催されたメゾジストエピスコパル教会に送った蒋介石のメッセージはキリスト教会に大きな感動を与え、支那のキリスト教徒ならず欧米のキリスト教徒にも感動と親近感を与えていたのでした。

本来、クリスチャンは嘘は罪であると聖書で教えられていますが、全く意に介さず、嘘をついていた蒋介石。そのせいで7月29日に通州事件が起きます。通州事件は蒋介石軍が実際は敗退していたのにかかわらず、逆宣伝で日本軍に勝っているとラジオ放送をしたため、信じた通州の保安隊が歴史に残る日本人大虐殺を行った事件です。



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