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「集団自決」を「強制集団死」と述べる洞察力のない人々

新たに取材をしたわけでもない思い出話を執筆した安田浩一さん

 ジャーナリストの安田浩一さんがプロの「筆圧」を見せつける「安田浩一ウェブマガジン ノンフィクションの筆圧」は、様々な試みがなされています。例えば、月ごとの購読料を徴収しておきながら令和元年11月から令和3年3月までの1年4か月の間記事の更新をせず、そのことに対する謝罪すら新規購読を検討する者が閲覧することができない有料記事でなし、ツイッター等での謝罪すら行わないという「社会実験」を行っています。

 また、「『饒舌なレイシスト』が語った身勝手な論理。ウトロ地区・名古屋連続放火事件第2回公判再現記録<前編>」では、常体文と敬体文を混ぜて一見推敲がなされていないかのような記事を書くという「社会実験」に挑戦しています。

 その安田浩一さんが新たに「筆圧」を見せつけるテーマとして選んだのは沖縄戦の悲劇である集団自決でした。ただ、記事は17年前に集団自決の生き残りである金城重明さんにインタビューしたものの焼き直しでした。

タイトルに「強制集団死」、記事では「集団自決」(強制集団死)と表現する軍の強制による殺害はあったのか

 「金城重明さんが亡くなった。93歳だった。」で始まる記事は、安田浩一さん自身の苦労話が唐突に盛り込まれるものとなっています。このあたりは、週刊ポストの中森明菜に関する連載の中において、唐突に自分がどれだけ中森明菜が好きだったかを盛り込んだものからも感じられる安田浩一さん独特の非常に気持ち悪い自分語りです。
 本題に戻りましょう。私は、ジャーナリストや作家の方の中に人の感情というものを理解していないのではないかと感じる方が多いと感じます。例えば、よく聞く「総理大臣など戦争に行かない者が戦争をやりたがる」という表現ですが、これなども自分の命令で多くの者の命が失われていくということは自分が戦争に行くことより地獄なのではないかという人間の感情に対する洞察力が無さすぎではないかと感じています。
 これと同様に「軍の命令で集団自決した」というものについても人間の感情に対する洞察力が無さすぎではないかと感じています。戦時中の日本では現代とは比べ物にならないほど家族の絆が深く、沖縄県は本土と比較してもその絆が深かったと聞きます。私は、安田浩一さんのご家族のことは存じ上げませんが、安田浩一さんは軍に命ぜられたら気分が高揚して家族もろとも集団自決するのでしょうか。普通に考えれば銃口を突き付けられて脅されても愛する家族を自分の手にかけることを拒否するのではないでしょうか。しかも、集団自決の現場には軍人がついていたわけでもないのですし、金城重明さんのように集団自決の生き残りがいることから、その「強制性」は否定されているともいえます。
 安田浩一さんは沖縄の集団自決が命令でないことが「沖縄戦の犠牲者を侮蔑する」などとおっしゃいますが、沖縄県民が軍の命令でロボットのように自らの家族を手にかけたといういわゆる「強制集団死」ストーリーの方がよほど沖縄戦の犠牲者を侮蔑するものだということぐらいわからないのでしょうか。

個人的に右派勢力の動向をチェックしていた私は、集会を報じた保守系雑誌でそのことを知り、危機感を持った。歴史改ざんと、沖縄戦の犠牲者を侮蔑するような動きが、たまらなく嫌だった。いや、腹が立って仕方なかった。

17年前の夏を振り返る~「強制集団死」を生き延びた金城重明さんのこと(安田浩一ウェブマガジン ノンフィクションの筆圧)

米軍の兵士の意識に潜む日本人への人種差別意識と残虐行為

 いわゆる「強制集団死」ストーリーに欠かせないのが、米軍の支配下に入れば保護されるという前提です。なぜならば、沖縄県民、特に離島の民にとって米軍の支配下に入っても命の保障がなかったとすれば、支配下にはいる前に自ら死を選ぶという選択肢が現実のものとなるからです。
 「リンドバーグ第二次大戦日記 下」(角川ソフィア文庫)には次のような記述があります。

1944年6月26日 日曜日
 小屋の壁の一つに、絹地の日本国旗が3枚かかげてあった。日本軍兵士の死体から取ったものだという。
(略)
談たまたま捕虜のこと、日本軍将兵の捕虜が少ないという点に及ぶ。「捕虜にしたければいくらでも捕虜にすることが出来る」と、焼香の一人が答えた。「ところが、わが方の連中は捕虜をとりたがらないのだ」
「*****では二千人ぐらい捕虜にした。しかし、本部に引き立てられたのはたった百か二百だった。残りの連中にはちょっとした出来事があった。もし、戦友が飛行場に連れて行かれ、機関銃の乱射を受けたと聞いたら、投降を奨励することにはならんだろう」
(太字部分は私の加筆。以下同じ)

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫 訳 「リンドバーグ第二次大戦日記」

1944年7月21日(金曜日)
 今朝、ビアク島の断崖にたてこもる日本軍の強力な拠点に再度の攻撃を加えることになった。
(略)
 今日の午後、断崖の上に佇み(発疹チフスに罹る恐れもあるので地面にはとても坐れぬ)、砲撃が尾根に撃ち込まれるのを眺めやった。もう何週間も、二百五十名から七百名の間と推定されるいわばひと握りの日本軍は圧倒的な強敵に対して、また充分に補給された火器が撃てる限りの猛砲撃にも、その拠点を死守し続けてきたのだ。
 仮に攻守ところを変えて、わが方の部隊がかくも勇敢に立派に拠点を死守したのであれば、この防衛線はわが国の歴史上、不撓不屈と勇気を犠牲的精神との最も栄光ある実例の一つとして記録されたに相違ない。が、安全でかなり贅沢な将校クラブに坐しながら、これらの日本人を「黄色いやつばら」と表現するアメリカ軍将校の言に耳を傾けなければならないのである。彼らの欲求は日本兵を無慈悲に、むごたらしく皆殺しにすることなのだ。オウィ島に来て以来、敵に対する畏敬の言葉も同情の言葉も聞いた覚えは全くない。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫 訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

1944年7月24日(月曜日)
 午後、クローズド・スタップス少佐ら数人の将校とジープで木目る西方の洞窟に出かけてみる。日本軍が最も頑強に堅守した拠点の一つだ。
(略)
 ある場所では(日本兵の)一個の遺体に二つの首が並んでいるかと思えば、他の場所では遺体に首が無かった。なかには四肢がばらばらになり、身体のかけらしか残っておらぬ死体もあった。そして同行の将校が言ったように「歩兵はお得意の商売にとりかかったようだ」。つまり、戦利品として金歯をことごとくもぎ取ったというのである。
 洞窟群にたどり着くまでには山道を横切り、もう一つの丘を登らなければならぬ。山道の片側にある爆弾で出来た穴の縁を通り過ぎる。穴の底には五人か六人の日本兵の死体が横たわり、わが軍がその上から放り込んだトラック一台分の残飯や廃物で埋もれていた。同胞が今日ほど恥ずかしかったことはない。敵を殺す、これは理解できる。戦争の欠くべかざる要素だ。敵を殺戮するいかなる方法も正当化されるだろう。しかし、わが同胞が拷問によって敵を殺害し、敵の遺体を爆弾で出来た穴に投げ込んだ上、残飯や廃物を放り込むところまで堕落するとは実に胸くそが悪くなる。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

 このような人種差別意識から日本軍兵を人間扱いしていない米軍兵士は日本軍兵士の遺体を土産として持ち帰ることが常態化していました。

1944年9月14日(木曜日)
 日の出に目が覚める。頭上で積雲が晴れるところ。グリニッジ常用時18時2分、ジョンストン島に着く。
(略)
 到着したとき、海軍航空輸送事業所にはたまたまジョン・ヤング大佐ら数名の海兵隊将校が居合せていた。大佐からエワで一夜を過すようにと招かれる。通関をすませ、車でエワの基地に向った(税関吏は荷物の中に人骨を入れていないかと質問した。日本兵の遺骨をスーベニア(土産物、記念品)として持ち帰る者が数多く発見されたので、相手構わずこのような質問をせねばならないのだと言う。税関吏はまた、手荷物の中にまだ「緑色をしている」日本兵の頭蓋骨を二個も忍ばせた男を発見したことがあるとも言った)。

チャールズ・A・リンドバーグ 新田哲夫訳「リンドバーグ第二次大戦日記」

 有色人種には人権がないとでも言わんばかりに日本軍兵士の捕虜をほぼ皆殺しにし、その遺品を奪い去り、遺骨すら土産や記念品として持ち帰る米軍兵士の残虐さは、「鬼畜米英」というフレーズが戦意高揚のためのスローガン以上の意味があったことを彷彿とさせます。そして、それ等の事実は最前線となってしまった沖縄県民に広く伝わり、自国を守ってくれる日本軍のいなかった当時の沖縄県の離島島民にとっては、米軍の上陸はまさに現実の恐怖であったといえます。そして、それが島民の集団自決につながったのだと私は思います。