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「加害」が何かわかっていない神田憲行さん

頭痛がしそうな「加害」の定義

 終戦記念日から1日経過した8月16日、神田憲行さんが「今も残る加害の歴史、日本の『戦争遺跡』を見つめ直す」という記事が発信されました。ただ、その記事は頭痛がしそうなほど出鱈目な記事でした。

終戦から75年以上を経て、いまも国内には戦時に使用された施設の跡が残っている。その中には空襲跡のような被害の歴史だけでなく、日本が積極的に戦争を推し進めていた加害の記憶もある。本土決戦に備えて「大本営」司令部や仮の「皇居」の移設まで予定していた長野県松代市の地下壕群など、3か所の「戦争遺跡」を訪ねた。(取材・文:神田憲行/撮影:小禄慎一郎/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)

 ここで積極的に戦争を推し進めていればそれが「加害」であるという意味不明の定義が私の頭痛をさらに激しくします。

映画とガイドの話を根拠に狂信的と決めつける神田憲行さん

 この記事の特徴的な部分が大西瀧治郎海軍中将に関する記述です。

《「外相、もうあと2千万、2千万の特攻を出せば、日本は、かならず、かならず勝てます!」》
《「いや、もうあと2千万、日本の男子の半分を特攻に出す覚悟で戦えば――」》
これは「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督、1967年)という映画に出てくる大西瀧治郎海軍中将が、日本の降伏を止めようとして外務大臣に迫るせりふだ。SNSでは映像の一部とともに紹介されることも多いので、見たことがある読者もいるだろう。末期にあってもなお戦争継続を求める狂信的な姿がここにある。この映画は、天皇の玉音放送を中止させようと宮中に陸軍青年将校たちが乱入する「宮城事件」が舞台だ。

 ジャーナリズムとは取材が非常に大事なわけですが、神田憲行さんは、映画を観てそれを情報源として記事にするわけです。そもそも、降伏して国を失うということがどれだけ悲惨なことかは今のアフガニスタンの混乱を見ればわかります。

 歴史上他国に占領されたことすらない日本で外国の支配下に入るということのおそれが非常に強かったことは、強制されたわけでもない沖縄の住民が米兵を恐れて集団自決した悲劇でも明らかなわけで、そのような事態を避けようと様々な方策を挙げるのはごく普通の感覚です。しかしながら、この記事ではそれを「末期にあってもなお戦争継続を求める狂信的な姿」としてしまうわけです。

 記事はさらに松代大本営跡について触れていきますが、この記事の取材はNPO法人松代大本営平和祈念館のガイドである松樹道真さんへのインタビューに終始します。取材とは当時の文献をあたったり、当時見聞きした人の話や残した文書にあたったりすることだと思っていましたが、ガイドに話を聞くという観光客のレベルで記事を執筆する神田憲行さんの斬新なジャーナリズムに触れるたびに目眩がしてきます。

風船爆弾と中国紙幣の偽札製造と毒薬開発が戦争の「加害」とする神田憲行さん

 さらに神田憲行さんの迷走は続きます。

戦争には被害者がいれば必ず加害者がいる。加害の視点を持つことは、戦争について新しい視座を持つことになる。加害の戦争遺跡を巡る「ダークツーリズム」、3か所目は、神奈川県川崎市にあった秘密研究所「陸軍登戸研究所」だ。ここでは世界初の大陸間移動兵器である風船爆弾のほかに青酸性毒物も開発され、中国・南京に運ばれて人体実験も行われていた。
この研究所の歴史は古く、前身の「陸軍科学研究所」ができたのは1919年のこと。そのあと組織変更や移転を繰り返した後、現地に移転し、1939年に通称陸軍登戸研究所と呼ばれるようになった。現在は明治大学生田キャンパスの敷地内にあり、研究所施設の一部は明治大学平和教育登戸研究所資料館として、見学者を受け入れている(ただしコロナ禍により一般の見学受け入れは現在中止中)。同資料館館長で同大学文学部教授である山田朗さん(64)が解説する。
「この研究所の発端は第1次世界大戦の経験です。毒ガス、戦車、飛行機など新しい科学技術を活用した兵器がいっぱい生まれて、日本はそういう分野で遅れているという自覚ができました。ところが昭和の初めに不況になって、新しい兵器研究にお金が回らなくなってくる。だから奇策を重視したお金がかからない科学的兵器の研究をするようになりました」
実際に開発された風船爆弾はアメリカ本土で被害を出し、中国紙幣の偽札は日本の国家予算が200億円の時代に40億円も作られて中国大陸でばらまかれた。インドルピーの偽札も、旧ソ連の偽造パスポートも作られた。そして暗殺用兵器として、青酸ニトリルが作られた。これがどのように使用されたのかわからない。だが開発責任者だった伴繁雄技術少佐は同僚とともに東条英機陸相から表彰されている。伴はその副賞を使って敷地内に弥心神社と実験動物の犠牲を悼むための動物慰霊碑を建てた。

 爆弾を開発することは戦争においてごく普通のことですし、偽札をばらまくことが何の戦争の「加害」になるのか理解ができません。そして、戦争で用いたかどうかもわからない青酸ニトリルの開発がどういう加害になるのかまったくわかりません。
 そして、その青酸ニトリルの開発が「加害」にあたるらしいとする部分がここになります。

戦後、青酸ニトリルと伴の存在は意外な事件でクローズアップされる。48年1月に東京都豊島区の帝国銀行で起きた、行員ら12人を毒殺して金を奪った「帝銀事件」である。犯行に使われた毒物の特徴が青酸ニトリルと似ていて、伴は警視庁・甲斐文助の事情聴取を受けた。その過程で伴は青酸ニトリルを中国・南京に持ち込み、中国兵捕虜や死刑囚などを使って人体実験をしたことを告白していた。甲斐の捜査手記に伴の言葉がある。
《実験を始めた初めは厭であったが馴れると一ツの趣味になった》
毒薬で人体実験することを「趣味」という感性と、動物のため慰霊碑を建てる感性がひとりの人物の中に同居している。
「理解しがたいところがありますよね。でも伴さんや昔の人がとりわけ残酷な人間だったというわけではありません。むしろ優秀で真面目な科学者でした。しかし人を殺す大義名分のなかで、徐々に人間性を喪失していくんです」
それから伴は自分が人倫に反することに手を染めたことにおののき、高校生らの聞き書きに協力するようになり、自ら『陸軍登戸研究所の真実』という手記を残した。その中で人体実験について触れ、詫びている。

 普通に考えれば、人体実験を行うことを国や上官から命ぜられていなかったにもかかわらず、人体実験を行ってしまったから慰霊碑を建てることができなかったと理解できそうなものですが、ずいぶんとまわりくどい解釈をするものだと思います。そしてここでも取材は明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長の解説で留まっているのです。

戦争犯罪と犯罪の違いを理解していない神田憲行さん

 この神田憲行さんの記事がおかしなことになった原因は、戦争犯罪と犯罪の違いがわかっていないことに尽きます。戦争は、軍服を着た兵士同士が殺しあって衝突した事項を解決しようとする外交の一つで、今回「加害」として神田憲行さんが指摘したものはどれだけ過大に見積もったとしてもすべて戦争犯罪の域に留まります。反面、米軍がなした広島・長崎の原爆投下や東京大空襲をはじめとする無差別都市爆撃は、最初から兵士ではなく民間人の殺害を目的としたもので、戦争犯罪の域をはるかに超えた民族浄化という犯罪です。これらを同視するというレベルをはるかに超えて、民族浄化を見過ごしてせいぜい戦争犯罪になるかどうかというレベルの行為のみを取り上げて「加害の歴史」などとおかしな印象操作をするジャーナリストがいるということが今のおかしなマスコミを象徴する出来事だと思うのです。